2014年映画「ベストテン」×3+α

 
5日遅れになったが、2014年映画「ベストテン」は以下の3通り。
〇日本映画ベストテン
寄生獣』(山崎貴
銀の匙 Silver Spoon』(吉田恵輔
『Seventh Code』(黒沢清
『ニシノユキヒコの恋と冒険』(井口奈己
『小さいおうち』(山田洋次
『青天の霹靂』(劇団ひとり
『ほとりの朔子』(深田晃司
『イヌミチ』(万田邦敏
『坂本君は見た目だけが真面目』(大工原正樹)
超高速!参勤交代』(本木克英)
  
アメリカ映画ベストテン
キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』(アンソニー・ルッソジョー・ルッソ
ジャージー・ボーイズ』(クリント・イーストウッド
『セインツ 約束の果て』(デヴィッド・ロウリー)
ラッシュ/プライドと友情』(ロン・ハワード
グランド・ブダペスト・ホテル』(ウェス・アンダーソン
エヴァの告白』(ジェームズ・グレイ
『エクスペンダブルズ3 ワールドミッション』(パトリック・ヒューズ)
とらわれて夏』(ジェイソン・ライトマン
ダラス・バイヤーズクラブ』(ジャン=マルク・ヴァレ
ゴーン・ガール』(デヴィッド・フィンチャー
 
〇東西洋画ベストテン(+5)
『ドラッグ・ウォー 毒戦』(ジョニー・トー
『罪の手ざわり』(ジャ・ジャンクー
ソウルガールズ』(ウェイン・ブレア)
『やさしい人』(ギヨーム・ブラック)
『祝宴!シェフ』(チェン・ユーシュン)
『天才スピヴェット』(ジャン=ピエール・ジュネ
『イーダ』(パヴェウ・パヴリコフスキ)
『トム・アット・ザ・ファーム』(グザヴィエ・ドラン
『ソニはご機嫌ななめ』(ホン・サンス
『収容病棟』(ワン・ビン
『めぐり逢わせのお弁当』(リテーシュ・バトラ
西遊記〜はじまりのはじまり〜』(チャウ・シンチー
『エレニの帰郷』(テオ・アンゲロプロス
ストックホルムでワルツを』(ペール・フリー)
『NO』(パブロ・ラライン
 
日本映画ベストテンでは、山崎貴山田洋次が上位に入るという異常態が起きてしまった。
寄生獣』の詳細はすでに書いたので*1、ここでは監督デビュー53年目にして成瀬巳喜男の風雨とトリュフォーエクリチュールとを融合させた『小さいおうち』に関して、多少の難点には目をつぶってでも評価したいと思ったことを明記しておく。それにしても、中堅&大ベテランの両Y監督の前作品との信じがたい落差は、旧来の「作家主義政策」の失効を告げるものだろうか。
次点の『銀の匙 Silver Spoon』は、なめショットでの縦構図で人畜入り混じったモブシーンをさばいた演出・撮影のコンビネーションが際立った見事な「ビスタサイズ映画」であり、こちらのY監督もまた前作を大きく上回っている。
時代劇枠として『超高速!参勤交代』をチョイス。往年の市川雷蔵森一生コンビの「殿さま道中もの」を連想させるこの作風は悪くない。
 
アメリカ(合衆国)映画のベストは『ウインター・ソルジャー』。ひたすら降下し続けるエレベータをはじめ、落下・降下・沈下とガラスの破砕にこだわったアクションと70年代政治サスペンス映画オマージュ(ロバート・レッドフォード!)が噛み合った類い稀なる成功例。上位三作は文句なしの「アメリカ映画」ということで選出した。

アメリカ(合衆国)映画以外の東西洋画ベストテン(+5本)は『ドラッグ・ウォー 毒戦』がベスト。本作と『ウインター・ソルジャー』とを並べてみると、現代のアクション映画の成否は、どれだけ道路封鎖して撮影できるかにかかっているかに思えてくる。
2014年は「ミュージシャン実録もの」の当たり年でもあった。オーストラリアのアボリジニ女性がベトナム戦争に「黒人ソウルグループ」として米軍の慰問をした実話『ソウルガールズ』は『ジャージー・ボーイズ』に次ぐ傑作。スウェーデンジャズ歌手モニカ・ゼタールンドを描いた『ストックホルムでワルツを』もよかった。どちらも「非アフリカ系」の女性歌手が「ソウルミュージック」「ジャズ」といった「アフリカ系音楽」の分野で活躍するというシニカルな共通点がある。
以上、各ベストテンは2014年劇場一般公開作品から選出したが、スクリーン初上映ということでは『有名になる方法教えます』(ジョージ・キューカー、1953)が文句なしのベストワンになる。
スタア誕生』のような、ハリウッドを舞台にしたテクニカラーシネマスコープサイズの「固有名の残酷劇」を演出する一方で、NYロケによるモノクロ・ビスタサイズの「固有名の狂騒劇」を同時期に撮ってしまうキューカーは、ある意味ジョン・フォード以上に恐るべき存在である。
また2014年に見た新作映画で最も先端的だったのは、東京フィルメックスで上映された篠崎誠『SHARING』。早い一般公開が望まれる。
一般公開された際には、「右枕」で入眠・覚醒を繰り返すヒロイン・山田キヌヲが体験する東北大震災にまつわる幻覚/予知夢の音響的性格と、右耳だけを露わにし髪の毛で左耳を隠した彼女の耳の左右非対称性との不思議な相関性に、ぜひ注意してほしい。

 
2014年「勝手に映画賞」は以下の通り。
 
女優賞;松たか子(『小さいおうち』『アナと雪の女王』)、深津絵里(『寄生獣』)
男優賞;染谷将太(『寄生獣』『ドライブイン蒲生』)、伊藤英明(『WOOD JOB! 〜神去なあなあ日常〜』)
新人賞;上白石萌音(『舞妓はレディ』)、工藤阿須賀(『百瀬、こっちを向いて』)
照明賞;渡邉孝一(『小さいおうち』)
美術賞;杉本亮(『青天の霹靂』)
衣装賞;宮本まさ江(『百円の恋』)
編集賞;穗垣順之助(『寄生獣』『チーム・バチスタFINAL ケルベロスの肖像』)
VFX賞;山崎貴・渋谷紀世子(『寄生獣』)
脚本賞古沢良太山崎貴(『寄生獣』)
録音賞;百々保之(『SHARING』)
撮影賞;志田貴之(『銀の匙 Silver Spoon』)
監督賞;吉田恵輔(『銀の匙 Silver Spoon』)
出版賞;『トリュフォー最後のインタビュー』(蓮實重彦山田宏一平凡社
 
以上、部門別に「勝手に映画賞」を選出しましたが、これはあくまでも当方の勝手な判断によるものですので、受賞された方もされなかった方も、どうかいっさい気になさらないで下さい。
ただし『トリュフォー最後のインタビュー』の出版賞にかぎっては、英語版の出版を促したいがための30年遅れの非常処置です。
これは絶対スピルバーグに読んでほしい。
 
2015年はよい年でありますように。

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『寄生獣』(山崎貴)

http://kiseiju.com/

山崎貴監督『寄生獣』は、山田洋次監督『小さいおうち』とともに、2014年の日本映画で最も喜ばしい「誤算」といえよう。2014年の日本映画は、Yというイニシャルによる嬉しい誤算で始まり、さらにもうひとりのYによる嬉しい誤算で年越しを迎えることになったわけだ。*1
長年の念願だったという『寄生獣』の映画化にあたって、山崎貴にとっての幸運は、染谷将太という唯一無二の主演俳優を得たことだ。本作における演出と特撮、日常と非日常の絶妙なバランスは、ミギー相手の特撮演技を完璧にこなした上で、自身も人間ならざる者へと変容していくプロセスを生身で演じきった染谷将太がいたからこそ達成できたものだろう。*2
染谷とミギー(阿部サダヲ)の会話場面の視線と声のマッチングは、演出・特撮・撮影・演技・照明・美術・編集等、すべてのバランスがとれていなければ、あれほどうまくはいかなかったと思う。
CG全開であるはずのミギーとの会話場面が、他の人物との日常会話場面と同等の日常性を得たことによって、深津絵里東出昌大ら、他の「パラサイト」たちとの議論劇の場面が、声のトーンが少し無機質に変わっただけで、異生物間対話の異様な緊張感を獲得できていることも見逃せない。
深津絵里の素晴らしい「パラサイト」演技、とりわけ無機質で深く響く声は、観念的、抽象的になりがちな、異生物と人類との共存をめぐる議論に、独特の肉声的リアリティを与えているのだが、それもまた全体的な声のアンサンブルあってのものであることに注意しなければならない。
本来は不自然で非日常的なはずである染谷・ミギー会話場面の視線・声のやり取りの自然さ、日常的な既視感がベースにあるからこそ、深津絵里が加わった「三者鼎談」、さらには東出昌大池内万作らが加わった「ネットワーク会議」が、無機質な声の絡み合いによって、シリアスなSF的議論劇として成立しているのだ。
深津絵里ひとりの声が素晴らしい、というだけではそれは成立困難なのであって、あくまでも染谷、阿部、深津、東出らによる声のアンサンブルが、SF的議論劇に必要なポリフォニックな肉声的リアリティを与えることにはじめて成功しているのだ。
所詮は絵空事であるSF的議論劇にとって必要不可欠な映画的リアリティとは、セリフの意味内容のリアリティ(真実味)よりもまず、それを論じあう複数の声のポリフォニックな肉声的リアリティ(迫真性)であることを忘れてはならない。こうした声のバランスを間違えると、議論場面は観念性、抽象性に陥って、映画的な活力を往々にして失うことになる。*3
 
(以下、ネタバレあり)
 
本作で最も評価すべきポイントは「右手」にまつわる主題系の一貫性だろう。
人間の脳に寄生し、頭部を自在に凶器に変形させて攻撃してくるパラサイトに対して、ミギーの右手だけが勝手に変形し、その変形右手と通常の左手のコンビネーションによって勝機を得るミギー・染谷コンビにおいては、まず左右の独立性、非中心的な不均衡性が際立っている。
パラサイトによる「顔割れスプラッター」は一見異常な動きであるが、あくまでも一つの意志(脳)によって統御された中枢的な動きであるのに対し、ミギー・染谷コンビは意志、視線、声、動作形態的において右往左往しながら共闘することで、画面を変則的に活気づけているのだ。
クライマックスのひとつである、東出昌大による美術室での暴走スプラッター事件では、廊下に転がる血まみれの死体の群を前にして過呼吸に陥りへたり込む染谷将太を、ミギー(阿部サダヲ)が「君の心臓はこんなことでは壊れない」と励ます場面は、そうした左右の「両頭性」が現れていて不思議な感動を与える。
染谷の心臓はすでにミギーの細胞によって修復されたものであるのだから、ここでの「心臓」の一語に融合の主題を見出すことも可能だろう。だがミギー=阿部サダヲの励ましによって、声を引き攣らせながらも眼はしっかりと坐ったまま廊下の奥へ進んでいく染谷将太の表情は、どんなパラサイトの「顔割れ」CGよりも不気味で恐ろしく、そこには単なる異生物との融合を越えた「人間ならざる者」への変容と進化を体感させられるほど、ここでの染谷将太の異貌ぶりには鬼気迫るものがある。
そして窓から橋本愛を抱きかかえての空中への大ジャンプ、さらには別棟の屋上に上ってからのとどめの一撃までのシークエンスは、かって染谷将太が「屋上が似合う傷だらけの不死身の異能少年」を演じた『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』(瀬田なつき、2012)を改めて演じなおしているかのような、不思議な映画的感動を与えてくれるのだ。
原作ではミギー独力による投石だった「とどめの一撃」は、左手と右の手の対等な共同作業として、弓矢という左右均衡のフォルムに改変されているが、それもまた右手に伴い左手も進化した「屋上が似合う傷だらけの不死身の異能少年」染谷将太の新たに達したステージを表すものなのだろう。*4
右手(左右)の主題系はまた「母性の神秘」という問題ともつながっていく。
主人公の母・余貴美子の右腕には火傷の跡があり、それは幼い息子を守ろうとして出来たものだと、その火傷の由来は染谷とミギーの会話の中で明かされる。「大事なのは自分の命だけだ」と主張するミギーは、そうした母親の犠牲的行為に理解不能な神秘性を見出す。
寄生主の父母との面会時に母親にだけその正体を直観的に見抜かれた深津絵里は、自ら人間の子を妊娠して「理論を越えた母性の神秘」を実験的に追求しようとする。
他のパラサイトの反対を押し切ってまで、ミギー・染谷コンビを異生物と人類の共生に不可欠なモデルと主張する深津絵里が「顔割れスプラッター」で両親殺害後に、元通りに戻ったはずの自分の顔を一瞬確認する鏡のショットでは、鏡の中で左右反転した自分の顔を注視する無機質な視線から母性を介して異生物と人間とのあいだで揺らぐ彼女の特異性が読み取れる。
母・余貴美子に寄生したAとの河川敷での最終対決直前、ミギーは睡魔に襲われ、右手に剣の形状だけを残し、入眠・活動停止してしまう。染谷将太は母・余貴美子の脳に寄生するパラサイトAと独力で戦わなければならない。すでにミギーの細胞との融合が進み、超人的な身体能力でパラサイトと互角に戦う染谷だが、パラサイトの策略によるものかマザコン少年ゆえの怯みからか、戦闘中に母・余貴美子の息子に懇願する声と顔を幻視して一瞬攻撃の手を止めてしまう。その瞬間を狙って、かって染谷の心臓を破壊した槍状の凶器がパラサイトの顔から伸びてきて、再び染谷にとどめの一撃を刺そうするのだが、余貴美子の右手が勝手に動いてその方向を逸らす。母親の右手によって間一髪で刃先をかわした染谷将太は、余貴美子=パラサイトAを倒し、母親のボディ(死体)を取り戻す。
協力者の力でAを倒す原作からのこの映画版の改変は、右手の主題系の一貫性という観点からみて賞賛に値するものだ。
染谷の窮地を救う余貴美子の右手の動きは、決して感傷的な母性愛の表現などではない。それはまずミギーの入眠によって入れ替わりに覚醒した「もうひとつの右手」として『寄生獣』における右手の主題系の一環を担っていることに注意しなければばらない。それは個人的な意志や感情を越えた、システマティックな主題論的運動なのである。*5
頭部からの攻撃を勝手に逸らした右手の動きには、余貴美子(の頭部)も茫然としていたが、それはまさに人間や異生物の意志を越えた、非人称的な主題系メカニズムの一貫性に対する驚きの現れなのだ。
過去から現在まで主人公が「右手に守られ続けてきた存在」であること。これこそが映画『寄生獣』で山崎貴古沢良太コンビが仕掛けた主題論的一貫性である。それはまた、なぜ主人公が右手だけを異生物に寄生され、それが「ミギー」と名乗るようになったかということに対する、映画からの主題論的回答でもある。
その主題系に理論を越えた「母性の神秘」や「利他性」という問題系(プロブレマティック)がどう関わり発展していくかは、完結編でのお楽しみということになる。*6
なお、これだけの内容を109分にまとめた編集は、最近の日米映画の中では「GOOD JOB!」。完璧に近いキャスティングを実現したプロデューサーの努力も賞賛に値する。

小さいおうち [DVD]

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寄生獣 完全版全8巻 完結コミックセット

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ただいま、ジャクリーン [DVD]

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嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん episode.0 回遊と誘拐 [DVD]

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あの頃映画 日本の夜と霧 [DVD]

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あの頃映画 日本春歌考 [DVD]

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絞死刑 [DVD]

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マラルメの想像的宇宙

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シネマトグラフ覚書―映画監督のノート

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*1:作品の批評的価値はともかく、山崎貴は『永遠の0』『STAND BY ME ドラえもん』の二作で興業成績でベストワン監督になったことも、さすがというしかない。両Y監督作品の生み出す興行的価値は、曖昧な批評的価値よりもはるかに強力で貴重なものだ。

*2:ミギーとの会話場面では『ただいま、ジャクリーン』(大九明子、2013)の腹話術人形遣い役の経験が生かされたのではないかと思う。また染谷将太が「屋上の似合う傷だらけの不死身の異能少年」を演じた『嘘つきみー君と壊れたまーちゃん』(瀬田なつき、2012)と本作は主人公をめぐる流血と蘇生、屋上からの跳躍といった主題系を深く共有している。映画的間テクスト性の実例として興味深い。http://d.hatena.ne.jp/jennjenn/20110124/p1

*3:その点で『寄生獣』の人類と異生物の共存をめぐる議論の「映画的リアリティ」は、たとえば『X−メン』シリーズを上回っていると思う。また声のトーンやリズムはまったく異なるが、『日本の夜と霧』(1964)をはじめとする大島渚の議論劇も、そうしたポリフォニックな肉声的リアリティによって、いまだに新鮮さを保っている。

*4:染谷将太には監督としてもぜひ、新たなステージに進んでほしい。なお染谷将太東出昌大共演のドラマ『ホリック xxxHOLiC』では東出昌大弓道部員役だった。そのころ東出昌大は、染谷将太ロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書』(松浦寿輝訳、筑摩書房)をプレゼントされて何度も読み返したそうだ。http://d.hatena.ne.jp/jennjenn/20110130https://www.youtube.com/watch?v=EbhLOooTlJshttp://www.mgoon.com/ch/amishinny/v/5379768http://members2ami-go.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-e646.html

*5:「テマティックとはシステマティックであると同時にサイバネティックである」(ジャン=ピエール・リシャール)。

*6:マティスム批評が真に狙うものは、主題系・説話系・問題系の相関構造の解明である。主題系それ自体の分析や主題系相互の相関関係の分析は、とりあえずの入り口にすぎない。むろん、その入り口を抜けるのが一番厄介なのだが。なお2015年4月公開の完結編では、原作にはなかった「3・11」以降にまつわるプロブレマティック(問題系)が、おそらく展開されることになるだろう。

星条旗と救世軍とスウィート・ホーム・コメディ

『善人サム』(レオ・マッケリー、1948)

http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=5232

善人サム [DVD]

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  • 発売日: 2014/11/25
  • メディア: DVD

度を越した博愛趣味・慈善癖・隣人愛による過剰融資のため、夫婦2人に子ども2人に居候の義弟と一家5人で借家住まいを続けるお人好しのデパートの支配人と、アーリー・アメリカン調のマイホーム購入を夢見る妻とのギクシャクした関係を描いた、レオ・マッケリーならではのほろ苦いホームコメディの傑作。
ゲーリー・クーパーは得意の「お人好しではた迷惑な理想主義者」を演じて申し分ないし、アン・シェリダンも「専業主婦」の役ながら、シースルーのネグリジェ、ジプシー占い師の仮装とセクシーなコスプレを人前で演じながら下品ないやらしさを感じさせず、とりわけ大声で笑い、大声で泣き伏す感情表現の豊かさが、無表情なゲーリー・クーパーの演技と絶妙な均衡を形づくっている。
古くからよく言われる喜劇の鉄則の1つに、役者を笑わさず観客を笑わせろ、というのがあるが、ゲーリー・クーパーに抱きかかえられながら、大声でゲラゲラ笑い続けるアン・シェリダンを見ていると、レオ・マッケリーにとって、そうした古臭い鉄則が何の意味ももっていないことが非常によくわかる。
また、一方で、念願のマイホーム購入直前に、クーパーが購入資金の大半を、妊娠中の妻を抱えて困窮していた隣人のガソリンスタンド購入に融資していたことが発覚したとき、マイホームの夢破れて大声で泣き伏すアン・シェリダンと、赤ん坊のためだったんだと、言葉少なに取り繕うゲーリー・クーパーとの、なんとも「日本的な夫婦喧嘩の場面」の素晴らしさを見ると、いかに小津安二郎成瀬巳喜男らがアメリカ映画、特にホームコメディを徹底して模倣・学習し、それを巧みに日本的風土・家屋に移植してきたかが実感できる。
同じシチュエーションを、たとえばもし、成瀬巳喜男上原謙高峰三枝子のトリオで演じさせたとしていたならば、カット割りは違っても、ほぼ同様な水準の場面の演出がなされたのではないだろうか。
すったもんだの末に、ガソリンスタンドへの融資は利子付きで完済され、アン・シェリダンの念願だったアーリーアメリカン調の家具付きの新居への入居も決まり、これでめでたいクリスマスとなるところで、最後にひと悶着起こす手腕はマッケリーならではのものだ。
クリスマス・イヴの日に、銀行に行く途中、ゲーリー・クーパーは女性の強盗に頭を殴られ、金を奪われてしまう。親友の銀行の融資係りに事情を説明して住宅資金の融資を申し込むが、クーパーへの融資はリスクが大きすぎると断られてしまう。
銀行からの帰りに自宅へよると、家具付きの新居への即日入居が決まり、アン・シェリダンは嬉しそうに古い家具一式をすべて救世軍に寄付し、うろたえるクーパーに新居でクリスマス・ディナーを作って待っていると告げる。
ホワイト・クリスマスとなり、クリスマス・ディナーを用意して家族が待ち受ける新居に帰るに帰れないクーパーは、馴染みのバーで泥酔してしまい、入店してきた救世軍のボランティアの若い女性の寄付集めの皿を蹴っ飛ばす始末。
新居では帰りの遅いクーパーを心配するシェリダンに、現行の融資係が訪ねてきて、クーパーへの住宅購入資金の融資があらためて承諾されたことを、昼間の事情説明とともに伝える。
一方、泥酔したクーパーを持て余したバーの店主が、救世軍のボランティアの若い女性に、新居の自宅まで送り届けるよう頼み、嫌がるクーパーに対して、救世軍のマーチング・バンドの伴奏で「HOME, SWEET HOME」(埴生の宿)を歌って送り返そうとするが、酔ったクーパーは、その店主の口を塞いで歌をやめさせようとする。
結局、救世軍のマーチング・バンドは行進を始め、クーパーはボランティアの女性に肩を抱えられながら、神様はサムを救った、と替歌を歌って歩き出す。
新居では、ガソリン・スタンドの店主が訪れ、妻に男の子が生まれ、名前は「サム」にしたことを報告にくるが、帰りの遅い夫「サム」を心配するアン・シェリダンは、暗い表情のまま塞ぎこんでいる。
すると、マーチング・バンドの太鼓とラッパの響きが遠くから微かに響いてくるのだが、そこからの展開が実に心憎い。
アン・シェリダンは、そのオフスペースからの太鼓とラッパの響きに反応して、椅子から立ち上がり玄関のドアを開くのだが、ここでの音響設計が『モロッコ』(ジョセフ・フォン・スタンバーグ、1930)で、ゲーリー・クーパーの安否を気遣うマレーネ・ディートリッヒが、砂漠の果てから聞こえてくる外人部隊の軍楽隊の太鼓の響きに反応して、アドルフ・マンジューとの結婚披露パーティーから飛び出す場面を、なんとも感動的に反復・変奏していることを見逃してはならないだろう。
ともにゲーリー・クーパーの安否を気遣う女性が、一方は北アフリカの砂漠を舞台にした恋愛メロドラマ、他方は雪のクリスマスのアメリカ合衆国を舞台にしたホームコメディでありながら、ともに屋外(オフスペース)から聞こえる音に対して、同じリアクションを示す。これこそジャンルを超えた、映画的な活劇のあり方というべきだろう。
玄関のドアを開けると、向こうの通りから星条旗を掲げた救世軍のマーチングバンドが雪景色の中をやってくる。
その一行に、浮浪者と衣服を交換してすっかりみすぼらしい恰好になって、ボランティアの若い女性の肩に支えられて千鳥足で歩くゲーリー・クーパーも混じっている。
それを見たアン・シェリダンは、大声でゲラゲラ笑い出すとクーパーに近づき、泥酔して、家庭も仕事も捨てて救世軍入りする、というクーパーに、住宅融資を受けられた件と副社長に昇進・就任したことを伝える。
地獄から天国へ引き上げられたクーパーは、早速、救世軍入りを延期すると、救世軍バンドの演奏で、アン・シェリダンに捧げる愛のバラードを、調子はずれの声で歌い、声をあげて笑うシェリダンを抱きしめるショットで映画は終わる。
最後のクリスマスの場面、救世軍のマーチング・バンドが出てくるが、このバンドの先頭に星条旗が掲げられているのは、アメリカン・イデオロギーの映画的表象として、要注目だ。
星条旗イデオロギー的表象については、対外侵略的か否か、好戦的か反戦的かはともかくとして、もっぱら戦争およびナショナリズムに関連付けて論じられてきた。
しかしながら、アメリカ合衆国の「非公式国歌」ともいうべき「GOD BLESS AMERICA」の歌詞の終わりが「MY HOME, SWEET HOME」となっていることからもわかるように、星条旗が担うアメリカン・イデオロギーの特異性を見るには、対外侵略的な部分を見るだけでは十分ではないだろう。*1
それはむしろ「GOD」と「MY HOME SWEET HOME」とを媒介する、民衆的、宗教的なユニバーサル・デザインでなければならないのであって、救世軍のような国際的キリスト教慈善団体の一行が先頭に掲げても違和感がないような演出をレオ・マッケリーはおこなっているのだ。
救世軍のマーチング・バンドが最初に登場するのは、泥酔したゲーリー・クーパーを家に送り返そうと画策するバーの店主が、ボランティアの女性に家まで送り届けるよう頼む場面である。
そこでは先頭に星条旗を立てた救世軍のバンドがバーの店の前の通りに並んでいるのだが、家に帰りたがらないクーパーに、店主はバンドの演奏で「HOME, SWEET HOME」(埴生の宿)を歌って聞かせるのだが、救世軍という、本来は国際的なキリスト教慈善団体のバンドの演奏を介して、星条旗のイメージと「HOME, SWEET HOME」という、イギリスの愛唱歌の歌詞が結びつき、その一行がゲーリー・クーパーを愛妻アン・シェリダンが待つ「アーリー・アメリカン調」の「SWEET HOME」(シェリダンはそこを「パラダイス」とも呼んでいた)に送り届けるという設定は、まさに星条旗に関するアメリカン「国=家イデオロギー」の表象の洗練形態としては、究極のものだろう(ただし「HOME, SWEET HOME」(埴生の宿)を歌う店主の口を無理やりふさごうとするゲーリー・クーパーの身振りには、レオ・マッケリー自身の、こうしたイデオロギー表象に対する違和感を見て取ることも可能かもしれない)。
ちなみに救世軍は「万国本営」をロンドンに置く国際的なキリスト教慈善団体であり、とくに、クリスマスには世界各地で社会鍋による募金活動をおこなっている。
したがって、そのマーチング・バンドの先頭に星条旗を掲げる必然性はないはずなのだが、映像的にはしっくり収まっているのはなんともいえないところだ。たとえば日本映画で、クリスマスに日章旗を掲げて活動する救世軍を描こうとすれば、相当な違和感あるいは異化効果が生じるだろう。
こうしたところに「神国ニッポン」と「GOD BLESS AMERICA」とのあいだの「国=家イデオロギー」の視覚的表象の洗練度の格差を容易に認めることができるだろう。*2

モロッコ《IVC BEST SELECTION》 [DVD]

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  • 発売日: 2012/07/27
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*1:http://klipd.com/watch/the-deer-hunter/god-bless-america-sceneディア・ハンター』(マイケル・チミノ、1978)でも『ゴッド・ブレス・アメリカ』は印象的に使われている。もちろん『君の瞳に恋してる Take My Eyes Off You』も。https://www.youtube.com/watch?v=iPaYTZp4bUc

*2:日本映画で救世軍が登場する作品としては、加藤泰の傑作『骨までしゃぶる』(1966)が、明治初期の救世軍の廃娼運動に乗じて、遊郭から脱出するヒロイン・桜町弘子の苦闘を描いている。救世軍の力を借りて遊郭からの脱出に成功した桜町弘子・夏八木勲カップルが言われる「君たちは救世軍を利用してロハで身請けしたというわけだ」というセリフは印象的だ。

「三重婚」で小津追悼♥♥♥

『結婚式・結婚式』(中村登、1963)

http://www.cinemavera.com/preview.php

77歳の喜寿を迎えた製鉄会社社長・伊志井寛とその「糟糠の妻」田中絹代は家族から京都旅行をプレゼントされる。
京都は初めての田中は、夫の伊志井は芸者同伴で何度も来てるだろうと皮肉を連発して、夫婦間には早くも険悪ムードが漂っている。
高級魚肉が大好きな食いしん坊の伊志井は、肝心要の入れ歯を家に忘れてしまい、それを田中のせいにして大ゲンカになる。入れ歯と食事に愚痴り続ける伊志井のワガママな態度に激怒した田中は攻守逆転すると、東京から入れ歯を届けに着た次女・榊ひろみの前で、新しい着物を夫婦ゲンカの「賠償」として買ってもらう約束を勝ち取る。
そこへ東京からの電話で、三男・川津祐介と伊志井の亡き友人の娘・岩下志麻との急な結婚を知らされ、結局賠償の着物も買う暇もなく東京へとんぼ返りすることになる(お見合い帰りの岩下志麻の川津への涙目の求婚はオトコ心をワシ掴み!)。
岩下の亡父は伊志井の共同経営者で、伊志井は社長室に重役陣を招集すると、全社を挙げて結婚式を祝福するよう依頼する。
社長室の壁いっぱいにかかった写真のなかには、背広姿で微笑む笠智衆が岩下の亡父役で特別出演。笠のニッコリ写真に客席は大爆笑だが、これが小津の遺作『秋刀魚の味』に続く笠・岩下の父娘役共演(?)かと思うと、笑ってばかりはいられない。
かなり下世話なかたちではあるが、食事の主題への執拗なこだわり(入れ歯を忘れた伊志井は豆腐料理しか食べられず不機嫌になる)や衣装の主題をからめた娘の結婚話であることを思うと、この笠智衆の「遺影」を負の中心に据えた中村登の結婚喜劇は、小津原案に基づいて、岩下が失踪中の笠の「隠し子」として登場する『大根と人参』(渋谷実、1965)以上に見事な小津追悼作品となっていることに否が応でも気付かされる。
伊志井は川津・岩下の婚礼を機に、勘当中の長女・岡田茉莉子と「ビンボウ左翼医者」の夫・田村高広との和解を含めた長女夫婦と三男夫婦の同時挙式を画策する。
と、その同時挙式に便乗するかたちで次女・榊ひろみもアメリカ人の恋人とのさらなる同時挙式を追加提案して、伊志井・田中の両親からそろって猛反対を受ける。
しかし、浪人中の四男・山本圭も国際結婚賛成派の熱弁をふるい、ふだんは「反米左翼」の活動家医師・田村も義妹のアメリカ人との結婚には賛成、国際結婚反対に同調してくれるのは長男で部下の増田順司とその妻・丹阿弥谷津子の「追従組」だけという状況に、国粋派・伊志井は癇癪を起こして、意地でも国際結婚絶対反対を貫こうとする。
そんなところへ、北海道から次男・佐田啓二が到着すると、いつもの構えた演技と違う、肩の力の抜けたざっくばらんな味わいトークで国際結婚に賛成意見を語ると、父・伊志井の敗北をあっさり宣言する(お父さんは入れ歯だから歯がたたないんだよ…)。
正直いって、佐田啓二の芝居をはじめてウマイと思った、というか、こんな軽妙な芝居もやればできるんだ、と感心してしまった。
すったもんだの末の3組同時挙式の当日(「結婚式・結婚式・結婚式」だ!)、貸し衣装ながら純白のウェディングドレス姿の美しい岡田茉莉子が「ビンボウ左翼」の矜持から豪華挙式を渋る夫・田村高広に、何とか貸し衣装のモーニングを着せてその足元を見てみると、黒の礼服に靴だけが妙に真っ白なスニーカー。
とっさに佐田啓二の黒い革靴と白黒チェンジするが、その佐田のモーニングの袖には前回参列した葬式の喪章がついたまま、というダメ押しのギャグの連発に、小津的な衣装の主題(冠婚葬祭コスプレ)をめいっぱい露呈させているあたりの小津的世界への徹底した同調ぶりは、さすが、というほかないだろう。
『結婚式・結婚式』が小津作品と決定的に違うところは、3組の花嫁・花婿が画面にあからさまに登場していることと、小津作品においては式をきっかけに家族がバラバラになるのに対して、ここでは結婚式によって新旧家族が集まるという、小津的な「一家離散」を意識的に反転した、全員集合パターンになっているところだろうか(ここでの「結婚式」は長女・次女を他家へ「嫁」に出すための「別れの儀式」として演じられているわけではない。むしろ「ビンボウ左翼医者」と「アメリカ人男性」を長女と次女の正式な「婿」として一家に新しく承認・歓迎するためのセレモニーとして「結婚式」が演じられているというべきだろう)。
笠智衆(!)、岩下志麻岡田茉莉子田中絹代佐田啓二ら、小津映画ゆかりのキャストに厚田雄春の撮影で、これほど笑いに満ちた悦ばしい小津追悼作品を撮りあげた中村登こそ、最良の意味での「松竹的」な映画作家と呼べるだろう。


…と、ここまで書いてきて『結婚式・結婚式』の公開日が1963年7月13日であることに気が付いて、思わず愕然としてしまう。小津の命日(兼誕生日)が同じ1963年の12月12日だから、この素晴らしい「小津追悼作品」は小津が亡くなるちょうど5ヶ月前に公開されたということになる。
当然その日は岡田さん、岩下さんをはじめ、出演者一同も(笠智衆ひとり不在のまま)舞台挨拶をしたことだろう。そして当然大きな拍手喝采に包まれたことだろう。
もしそうだったとすれば、これは映画史上めったにみられない「生前追悼」イヴェントと呼べるものなのではないだろうか。
中村登は松竹的であるだけでなく、小津安二郎に負けず劣らず残酷な映画作家なのである。

中村登作品では、岡田茉莉子主演の『河口』(1961)と『斑女』(1961)が、女優・岡田茉莉子の最高傑作として必見の2本。*1
(2009年11月28日初出)
『暖春』(1965)は小津安二郎里見紝共同脚本のテレビドラマ『青春放課後』の見事な映画化。桑野みゆきが口ずさむ「鉄人二十八号」の歌声に、自分の青春の終わりを悟る岩下志麻の表情が素晴らしいのだが、もし小津本人が『青春放課後』を映画化していたとしても、桑野みゆきに「鉄人28号」は歌わせなかっただろう。
また堤玲子原作『わが闘争』(1968)は、東映レンタル・佐久間良子が、初対面成り行き心中の合間に、念願だった美少年童貞狩りに出かけて済ませて戻ってくる、驚愕の傑作。
(20013年12月1日追記) 


あの頃映画 松竹DVDコレクション 夜の片鱗

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<あの頃映画> 古都 [DVD]

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  • メディア: DVD
監督 小津安二郎

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女優 岡田茉莉子 (文春文庫)

女優 岡田茉莉子 (文春文庫)


 
 
 
 
  
写真は『霧ある情事』(渋谷実、1959)から。
長岡博之撮影による湖上のボートの岡田茉莉子のアップは、カラー撮影によるアップとしては日本映画のベスト。

*1:文春文庫版『女優 岡田茉莉子』に収録されている蓮實重彦によるインタビューでは、『河口』の隠し撮りのエピソードが語られている。なお脚本の権藤利英は井手俊郎の別名。当時東宝のメインライターだった井手俊郎は、松竹作品には「ゴンドリエ」という喫茶店から取ったペンネームで参加。日活には三木克巳、大橋参吉という別名で参加している。http://blue.ap.teacup.com/documentary/1319.html

『黒の超特急』とシネマスコープの瞳

『黒の超特急』(1964)


http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2014-7-8/kaisetsu_29.html
http://beta.veoh.com/m/watch.php?v=v6344564Whbj9eS8

「バカに細長く」狭いシネスコ画面

「バカに細長く買うんですな」
新幹線用地買収ブローカー・加東大介が座敷に広げた地図に印されたニセの自動車工場買収予定地を見て、主人公の不動産屋・田宮二郎がつぶやく、この「バカに細長く」という一言は、シネマスコープサイズ作品『黒の超特急』の核心をそのまま言い当てたものだ。
画面を猛スピードで横切る列車によって、その横幅を強調された『黒の超特急』のシネスコ画面はまさに「バカに細長く」左右に広がっている。長方形に印された土地の地図と、細長いベルトコンベア式の架空の自動車工場の設計図は揃って、この作品の「バカに細長く」広がったフレームそのものを示しているかのようだ。
映画は開始早々、画面いっぱいを横切る列車の映像がまず、シネスコ画面の横長サイズのフレームを、否が応でも見る者に意識させる。そして、田宮二郎の不動産屋の事務所の前に停車した車から降りてくる加東大介を、事務所内のカメラポジションから捉えた縦構図、さらに料亭の一室に移動しての密談終了後に交わされる、加東大介田宮二郎の握手の画面の横幅いっぱいのアップの横構図という、露骨な横構図と縦構図との交差・対比が、シネスコ画面の「バカに細長」いフレームを強調した画面展開になっているのは容易に見て取れるだろう。
映写フレームの横幅と縦幅の比率が2:1以上のシネマスコープサイズのワイド画面は、横縦比率が1.37:1のスタンダードサイズ画面に比べると、当然左右の幅が「バカに細長く」見える。
しかしながら、左右の広がりを強調するという、シネマスコープ撮影にありがちな構図は『黒の超特急』ではまずみられない。それとは逆に『黒の超特急』で、増村保造と撮影・小林節雄のコンビが強調するのは、そのフレームの上下の縦幅の狭さである。その結果、登場人物の顔・頭部をはじめとする身体の一部が、しばしば画面の上方で「見切れる」という、スターシステムにはふさわしくない身体表象が生じてしまう。*1
スター田宮二郎とゲストスター加東大介東宝)は、座敷や椅子から立ったり座ったりするたびに、シネスコ画面の上辺によって、その胸顔・頭部がフレームの内部と外部にいちいち切断されるばかりか、じっと座ったままの状態でも、その顔・頭部がフレームから見切れてしまうことさえあるのだ。*2
たとえば、加東大介田宮二郎が密談する、岡山の料亭の一室で、仲居が座卓越しにビールを注ぐショットを見てみよう。


この一連のショットでは、田宮二郎の後ろ姿が画面左端に、そして座卓の角を挟んで加東大介の左肩がわずかに画面右端に映っている。田宮の向かい側の席には仲居が正座し、田宮のグラスと加東のグラスに順々にビールを注ぐのだが、ここでは画面の左上隅がちょうど田宮の首根っこの部分に固定されている。最初に田宮のグラスにビールを注ぐときには、田宮の右手のもつグラスが画面の中央部に位置し、画面の左半分はグラスを持った田宮の右手が覆い、次に加東のグラスに注ぐときには、仲居の女性はビール瓶を持った手元しか映っておらず、加東は左肩とグラスを差し出した右手しか映っていない。
ここでは登場人物三人全員の頭部がフレームから見切れていて、画面内では顔・頭部が切断された存在と化している。画面右端の加東大介はわずかに左肩しか映っていないのだから、ここでは明らかに、シネスコ画面は、その左右の拡がりよりも、フレームの上下の狭さをあからさまに露呈している。
この登場人物全員の頭部が見切れたショットの極端な構図の狙いは、本筋とは関係のない仲居を顔のない匿名の存在として扱い、グラスにビールを注ぐ行為を非人称的な運動として描くことだったのかもしれない。しかし、ただ仲居の顔を画面に映したくないのならば、カメラポジションを逆にして、仲居の背後から撮ればいいだけのことだったのだから、あえて登場人物全員の頭部をフレーム上辺で切断するこのショットには、シネスコ画面によって強調された映画的身体表象の暴力性が、ほとんど意図的に露呈されていると感じられてならないのだ。*3*4
このショットの直後に、例の「バカに細長」いニセの工場買収予定地の地図と設計図が示され、加東大介田宮二郎のあいだに、シネスコ画面いっぱいを使ったアップの握手が交わされると、重厚なテーマ音楽とともに作品のタイトルが示され、その次の場面では、もう田宮二郎は地主たち一行を連れて超特急で東京の土地売買契約式へと向かっているのだから、物語はすでに暴力的なあっけなさでスタートしているのだ。
アバンタイトルで示された、シネスコ画面の上下の狭さからくる「バカに細長」いフレームによって生み出された圧力が、物語展開の有無を言わさぬスタートダッシュを可能にしたかのようだ。
この「バカに細長」いシネスコ画面による上下の切断(首切り画面!)に特徴的に現れているように、新幹線用地買収に絡む、汚職と恐喝と殺人をめぐる男女のドラマを描いた『黒の超特急』は、一方で、映画における身体表象をめぐる暴力のドラマにもなっているのだが、それをさらに詳しくみていこう。
 
(以下ネタバレあり) 
 

ルノワールの切断

「バカに細長」いフレームから見切れることによって、身体損傷を被るのは田宮二郎加東大介ばかりではない。田宮二郎が、ヒロイン藤由紀子のアパートを突き止め、脅迫から肉体関係を結ぶ場面でも、「バカに細長」いフレームは、登場人物の身体を圧迫する。
加東大介田宮二郎とのシネスコ画面いっぱいに広がる握手のアップが、『黒の超特急』の物語を強引に始動させていたように、田宮の脅迫にあっさり応じて、藤由紀子がシネスコ画面に全身を収めるようにベッドに身を横たえることで、物語は新たな展開を迎えることになる。
ここで藤由紀子がその全身を横たえたベッドのすぐそばで、意外な人物の頭部が切断されていたことを見逃してはならない。それは、寝室の壁にかかったルノワールの裸婦像の複製画であり、シネスコ画面の「バカに細長」いフレームで捉えられたその裸婦像は、顔・頭部をフレーム上辺で画面の外に切り取られ、まさに「無頭化」されている。

この裸婦像の「首切りショット」には、ジャン・ルノワールの父親の絵に対する増村の悪意がはっきり表れている、というだけではない。そこには、金のために自分の肉体を汚職工作の道具として切り売りする、新幹線公団理事・船越英二の「二号さん」藤由紀子の生き方が反映されているともいえるだろう。*5*6
この裸婦像の「首切りショット」に続いてタオル姿の藤由紀子も、ベッドに座る田宮二郎の視線に合わせて、上半身のほとんどがフレームから見切れていたりと、相当「バカに細長」いフレームの影響を被っている。
しかし藤由紀子の場合は視覚表象レベルだけでなく、物語内での生死においても、身体に最も激しい暴力を受けて殺害されてしまうのだから悲惨である。しかもその殺害場面の描写が、視覚面と聴覚面の両方において二重に残酷なものになっているという点で、彼女は増村映画において最も特権的なヒロインとなり得ているのだ。

テープレコーダーの悲鳴と写真機の瞳

汚職ブローカー・加東大介は、大物政治家・石黒達也の命令により、藤由紀子を深夜のアパートで絞殺する。*7
名優・加東大介の熱演と、それに応えた藤由紀子の見事な殺されっぷりによって、この絞殺場面は凄惨なものになっているが、この場面で最も印象的なのは、藤由紀子の断末魔の悲鳴と、死体と化した藤由紀子の瞳が見開いたままであることだ。「美人女優」としての見栄も外聞も捨て去った、断末魔の悲鳴と見開いた死体の瞳。


この絞殺場面は、隠された2台のテープレコーダーによって録音され、その1台は加東によって発見・破棄されるが、予備のもう1台のテープから再生される藤由紀子の断末魔の悲鳴によって、田宮二郎加東大介を殺人犯として追い詰めていく。このテープレコーダーから繰り返し再生される、藤由紀子の断末魔の悲鳴によって、『黒の超特急』はその残酷さの水準を、それまでのシネスコ画面の「首切りショット」に見られた視覚表象的な枠組みから、聴覚的かつ体感的な音響レベルへと一気に移行する。
藤由紀子の「美人女優」としてのイメージを捨てた、断末魔の悲鳴・絶叫は、テープレコーダーの再生音として増幅・反復されることによって、新たに残酷な音のドラマを生み出している。
一方、藤由紀子がアパートで絞殺されている同時刻に、ヤクザに襲われた田宮二郎は、ボコボコに殴られたうえ、路上に横たわったところを足蹴にされる。血まみれの田宮が路上に横たわったショットは、ヤクザの足元に横たわった田宮二郎シネスコ画面の「バカに細長」いフレームに、初めてその全身像をスクリーンいっぱいに収めたものだ。

見切れる/見切れない、ということでいえば、靴とズボンの裾だけしか映らないヤクザ役の俳優たちと、主演スターとのヒエラルキーがシニカルに現れたのがこの横臥ショットだが、物語の水準からいえば、藤由紀子を救いに行こうとして血まみれで這いつくばる田宮二郎の無力さを表していて、悲痛なショットである。
殺害されて遺棄された藤由紀子の死体は、東京湾で引き上げられ、そこでも瞳は見開いたままで閉じられることはない。死体と対面した田宮二郎は、その瞼を閉じることなく、死体からすぐに離れてしまう。
「美人女優」としての見栄も外聞も捨てた、藤由紀子の断末魔の悲鳴は、テープレコーダーに録音され、殺人犯・加東大介を追及する証拠となる。聞くに堪えない悲鳴は、テープレコーダーの再生音として反復・増幅されることで、『黒の超特急』に新たな音のドラマを生み出すことに成功していた。
それに対して、見開いたままの藤由紀子の死体の瞳は、物語に新たな運動を引き起こすこともなく、唯一の身元確認者・田宮二郎にも瞼を閉じられることなく、置き去りにされてしまう。この開きっぱなしの死体の瞳は、ただ「美人女優」としての彼女のイメージを損なうだけでしかなかったかのように見える。*8

この死んで見開かれたままの藤由紀子の瞳は、強請りのネタの記念写真を撮ろうとして加東大介に逆に取り上げられ破棄された写真機のようだ。音声的な証拠として有効活用されたテープレコーダーとは対照的に、視覚的な証拠装置としては何の役にも立たなかった、あの写真機である。
強請りの決定的なネタとして、船越英二と藤由紀子との「情交写真」を撮ろうとして、田宮二郎は写真機を新たにもう1台、テープレコーダーとともに用意して藤由紀子に渡していた。しかし、証拠として残ったのは、テープレコーダーとそこに録音された悲鳴だけであり、田宮が用意した2台の写真機は、結局最後まで、視覚的な記録装置として機能することなく終わったのだ。
テープレコーダーが殺人現場の音声を録音していたように、藤由紀子の死体の瞳には、写真機のレンズが捉えることができなかった、殺人現場の映像が映っていたはずなのだ。だからこそ、田宮二郎は藤由紀子との死体との対面場面で、劇映画の通例に逆らって、開いたままの瞳の瞼を閉ざすことなく死体から離れたのではないだろうか。
藤由紀子の死体の見開いた瞳は、田宮が強請りのために用意しながら役に立たなかった2台の写真機のレンズに対応しているのだ。
そして田宮二郎が本当に欲しかったものは、殺人の証拠としてのテープレコーダーなんかではなく、強請りのネタとしての写真だったはずなのだ。そしてその写真をネタに強請り取った金を藤由紀子と山分けすること。それこそが本当の望みだったのだ。*9
その写真を撮ることができず、金も奪えず、藤由紀子の生命を救うことの出来なかった田宮は、二重三重の意味で敗残者なのだ。
田宮二郎はテープレコーダーで藤由紀子の最後の悲鳴を聞くことはできても、彼女が最後に見たものは決して見ることができない。劇映画の通例に逆らって、女性の死者の瞼を下ろすことなく、田宮二郎を藤由紀子の死体から離れさせる増村の演出は、田宮二郎が視覚的な敗残者であることを、まず強調している。
そして「美人女優」藤由紀子の死体の瞳の瞼を閉ざすことなく、開きっぱなしのまま放置し、葬儀もなしに画面から退場させる増村の演出は、映画における眼球/視覚体験の強度という点において、『清作の妻』(1965)での若尾文子による田村高広の「眼球釘刺し」以上に残酷なものがある。

黒のブラインドの瞼

藤由紀子の死体の瞳の瞼を閉じることなく、東京から岡山へ帰ろうとする田宮二郎が乗る列車は、当然のことながら、超特急ではなく、各駅停車の鈍行である。
その窓の外を、超特急列車が通過していく。金のために新幹線公団を辞めて、赤坂の「二号さん」アパートと母子家庭の実家との往復生活を送っていた藤由紀子は、超特急はおろか鈍行列車の旅行さえしたことはなかったかもしれない。少なくとも、劇中で彼女が乗った乗り物は、タクシーと、加東大介が彼女の死体遺棄に使った乗用車だけなのは確かである。
その超特急の映像を遮断するように、田宮二郎は窓のブラインドをいきなり下ろすと、座席で自らも目を閉じる。
田宮二郎が下ろすこの黒のブラインドこそ、閉じられなかった藤由紀子の瞳の瞼なのだ。視覚的な機能を何も果たすことなく虚しく開かれたままだった死者の瞳の瞼は、映画が終わる直前に、窓に映る超特急の映像を遮断するために、黒のブラインドとなって閉じられるのだ。*10
その閉ざされたブラインド=瞼が画面を覆う黒さは、作品そのものの視覚的機能を遮断しようとするかのようだ。*11


劇中、藤由紀子が乗ることも見ることもなかった超特急の映像を遮り、『黒の超特急』という作品の持続を遮断するために、田宮二郎はブラインドを下ろす。横切る超特急の映像を、縦に下ろすブラインドがピシャリと遮る。ここで初めて、フレームの上下の縦幅の狭さが、田宮にとって救いになって現れたかのようだ。
虚しく見開いたまま死んだ藤由紀子の瞳は、田宮二郎が無言で下ろす黒のブラインドによって、ようやくその瞼を閉ざすことができたのだ。しかもその閉じたブラインドの横で、パートナー田宮二郎もまた静かに目を閉じて、作品全体の視覚機能を停止させようとしている。*12
上下のフレームによる「見切れ」という、シネスコ画面による「身体損傷」を共有したあげくに、最後に一緒に瞼を下ろし瞳を閉ざすことでシネスコ画面の視覚そのものを遮断しようとするふたりは、増村作品において最も特権的なパートナーと化している。*13
『黒の超特急』の「バカに細長く」狭い画面を見続けてきた観客の瞳も、主人公ふたりとともに、ここでゆっくりとその瞼を下ろすことができる。
エンドマークを横切る超特急の「バカに細長」い映像を見る瞳はもはや存在しない。
画面の上下の切り捨て、人体/死体の不自然な横臥にシネマスコープの本質を見出し、死者の瞳の瞼を閉ざすことと作品/映像の遮断を重ね合わせた『黒の超特急』の増村保造こそ、真の意味で暴力的で残酷な映画作家なのである。*14
(2013年6月15日初出)
http://www.veoh.com/watch/v6344528YWTpTbWm

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*1:「見切れる」という云い回しは本来、画面のフレーム内に映ってはいけないものが入っている状態を示す映画業界の用語だが、ここでは、フレームによって、写真の被写体の身体が途中で切れた状態で映るという、世間一般で流通している意味に準じた用法で用いる。ここでいう「見切れ」とは、画面内の被写体が、フレームの線によって、画面の内外に切断された状態での身体表象のことを指している。切断という含意の重みと、他に適当な言い換えがないことを考えると、「見切れる」という云い回しについては、世間一般の用法の方が、語感として正しい。業界用語としての「見切れてる」の本当の意味は「ジャマだ、どけ/どかせ、このボケ!」だろう(要するに「画面のジャマ」)。

*2:筒井武文による小林節雄インタビューによると、『黒の超特急』は全編望遠レンズを使い、そのためにステージ中央にワンセットだけ組んで、それを四方からカメラを引いて撮影したとのこと。画面の上下での「見切れ」が目立つのは、この全編望遠という無茶な撮影方式と関係があるのかもしれない。増村保造著・藤井浩明監修『映画監督 増村保造の世界 《映像のマエストロ》映画との格闘の記録1947-1986』、1999、ワイズ出版

*3:もし、このショットがスタンダードサイズ画面で撮影されていたならば、田宮二郎の頭部と仲居の顔・頭部が、すべて見切れることはなかったと思う。また、どんでん(180度切り返し)は増村の常套手段であったから、この後姿の田宮二郎加東大介に仲居を正対させたショットのカメラポジションも、入念に計算されたものだったはずだ。筒井武文による詳細きわまる増村組インタビューによると、増村保造小津安二郎と同様に、毎回カメラのルーペを覗いては、数センチ単位で構図を指示していたとのことだから、この「頭部切断ショット」も、増村自身によって数センチ単位で指示されたものだと、ここでは推測しておこう。増村・藤井、同書

*4:なお増村作品における「無頭性」の表象という問題に関しては、阿部嘉昭が『妻は告白する』(1961)で「亡霊化」する若尾文子の<「顔を消す」ということで生じる「無頭性」>について鋭く指摘している。阿部氏の「無頭性」についての指摘は、増村映画における「女性性」の問題とは別に、映画における身体表象の暴力性の問題に関わっていると思われる。阿部嘉昭『私説・日本映画の60年代 68年の女を探して』、「1章.動物性を付与された女の分類不能性について 増村保造『妻は告白する』の若尾文子」、7−38頁、論創社、2004

*5:もっと具体的にいえば、それは決して画面には顔の映ることのない、主演女優・藤由紀子の代役のヌード女優に対応するかのように、女性の首から上の部分は画面の外に切り捨てられ、首から下の匿名の裸体だけが画面に映されてるという見方もできる。この首切りルノワール裸婦像は、増村映画に出演した、無頭・無名のヌード女優たちの「胴体」を集約したものでもあるのだ。

*6:なおルノワールの裸婦像をシニカルに扱った映画に『しとやかな獣』(川島雄三、1962)がある。『しとやかな獣』については、松浦寿輝「ダブルベッドと贋作名画 ― 川島雄三」(『映画1+1』、173−181頁、筑摩書房、1995年)、加藤幹郎「倫理なきホームドラマ川島雄三『しとやかな獣』(一九六二年)」(『日本映画論 1933−2007 テクストとコンテクスト』、192‐200頁、岩波書店、2011年)を参照。愛人のアパートにルノワールの絵を飾るという映画的な習慣(紋切型)は、1960年前後に成立したのだろうか。

*7:石黒達也の命令により殺人実行犯となる加東大介の本来の役割は、田宮二郎を物語に引き込む「誘惑者」(詐欺の勧誘)である。物語後半、彼らに生じる敵対関係は前半の共犯関係から転じたものである。田宮二郎も藤由紀子も、加東大介によりあらかじめ身元調査をされたうえ、一定の報酬で新幹線用地買収の「工作員」として勧誘・利用されたのであって、約束通りの手数料を田宮に支払う加東は「悪党」としては良心的(?)ともいえる。良心的な証券マン・中條静夫の忠告を無視して無謀な株取引で失敗した挙句に恐喝犯に転じる田宮と加東との違いは、「成功した小悪党」と「失敗した悪党の成り損ない」のそれであって、そこに本質的な差はない。『黒の超特急』で一番の「大悪党」は実行をためらう「小悪党」加東大介に平然と殺人を命じる「大物政治家」石黒達也である。

*8:母子家庭の藤由紀子には病気の母親がいるはずだが、画面にはまったく登場せず、田宮二郎が藤由紀子の唯一の「遺族」であるかのように描かれている。

*9:田宮二郎加東大介による録音テープの買収に応じないのは、殺人の告発のためというよりも、それが本来田宮が目論んでいた写真による強請りと主題論的に対立するものだからである。藤由紀子と山分けするために視覚装置によって強請り取るはずだった金への執着、それこそが音声装置の証拠品によって得られる大金、彼ひとりが空しく独占するしかない大金を拒絶させたうえ、加東に激しく殴打を加えさせるのだ。そこには死者と金銭をめぐる、視覚的なものと音声的なものとの決定的な対立がある。

*10:ブラインドは瞼の「代補」であり、それが最後に閉じられることで「差延」が生じる、という言い方も可能だろう。

*11:このブラインドの黒さは、おそらく実物の列車のブラインドの色よりも、美術および撮影によってその黒さを映画的に強調されたものだろう。この「黒」のブラインドが窓に映る超特急の映像を遮るショットは『黒の超特急』というタイトルそのものでもある。世界映画史に残る、リテラル(字義通り)なショットである。

*12:田宮二郎がブラインドを下ろすのは、死者の瞳の瞼を閉ざす行為であると同時に、彼女が撮りそこねた写真機のシャッターを押すことでもある。ブラインドをピシャリと下ろす音は、彼女が押せなかった写真機のシャッター音なのだ。最後の最後で、ブラインドと瞼と写真機のシャッターが一体化することで、死後反復されるテープレコーダーの悲鳴の呪いは、ブラインドのシャッター音によってようやく断ち切られるのだ。

*13:他作品での「お嬢様イメージ」を完全に払拭し、死体まで演じきった藤由紀子と田宮二郎のふたりが結婚したことには、一種の映画的必然性を感じずにはいられない。『黒の超特急』の俳優陣は全員素晴らしいが、加東大介船越英二を小物扱いする、大物政治家役・石黒達也の貫禄は圧巻。

*14:たとえば『アウトレイジ』(北野武、2010)のような作品と比較すれば、『黒の超特急』の特異な暴力性、残酷さはより明確になるだろう。『アウトレイジ』は最近の日本映画では、シネマスコープサイズの特性を生かした「暴力映画」の傑作といえるだろうが、その暴力描写と視覚体験の残酷さという点では、増村的な強度とは遠く離れたものになっている。『アウトレイジ』の続編『アウトレイジ ビヨンド』(北野武、2012)もまたレコーダーの録音を鍵とする「声の活劇」(上野昂志)になっていたが、中高年のヤクザと刑事の怒号と罵声と悲鳴が飛び交う『アウトレイジ』2作と、女と男の棒読み気味のリズムでたたみかける増村的な「声のドラマ」との対照性、その強度の違いは明らかだろう。

『僞大学生』(1960)


http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2014-7-8/kaisetsu_15.html
http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2014calendar7-8.pdf

大島渚『日本の夜と霧』とほぼ同時期に公開され、いまだソフト化されていない増村流「学生運動批判映画」。*1
4浪で大学受験を失敗した浪人生・ジェリー藤尾は、息子の合格を待ちわびる郷里の母親を安心させるために、東都大学(東大!)の偽学生となる決意をする。東都大学の新左翼学生運動グループの支部長・伊丹一三(十三)の逮捕現場に、東都大学の学生服姿で居合わせたことをきっかけに、ジェリーは東都大学の学生運動に参加し、そこで藤巻潤若尾文子といったメンバーと交流を深めるようになる。
ほどなく偽学生であることがバレて、スパイの嫌疑をかけられたジェリーは、藤巻、若尾らグループのメンバーたちに椅子に縛りつけられたうえ、大学構内に3日間監禁拘束されて暴れ続ける。
しかし、食事と大小便の世話を秘密裏に行わなければならない学内での監禁生活においては、監禁拘束される側のジェリー以上に、監禁する学生側のほうが憔悴していくさまが強調されるのは、いかにも増村らしい演出だ。
3日目になって、若尾文子の手に噛みついて、監禁から脱出逃亡に成功したジェリーは警察に保護されると、学生運動グループを監禁罪で告発する裁判の警察側証人として利用される。
一方、学生グループ側も伊丹を中心に、徹底した証拠隠滅とアリバイ工作で裁判を図った結果、裁判は学生側に有利に進んだうえ、東都大学教授による精神鑑定の結果、ジェリーの証言は信憑性が低いと不採用になり、ジェリー自身は精神病院へ治療・入院させられることになる。
裁判は、学生側の勝訴となり、大学では伊丹が中心になって盛大な報告会が開かれるが、正義感の強い若尾文子はひとりだけ、学生の偽証を許せずに、自身の罪も含めて告発しようと考えている。
その報告会の会場へ、田舎から上京した母・村瀬幸子に連れられたジェリー藤尾が登場する。まず母親の村瀬が学生たちに息子の無礼を謝罪し、次にジェリーが壇上に立つのだが、若尾文子はそのときジェリーに監禁の事実があったことを証言するように促し、ここで事態はさらなる逆転に動くかのように見える。
ところが、不思議な笑顔を浮かべたジェリーは、監禁なんてなかった、なぜならぼくは本当の東都大学の学生だからだ、そう言って、若尾文子の言葉をあっさり否定すると、さらに若尾の頬を軽く指で突っつき、正義と真理を貫く東都大学の学生であることは、ぼくの誇りであり、この愛する東都大学のためにみんなでバンザイをしましょう、と、会場内の学生たちに向かって堂々たるバンザイの音頭を取ろうとするのだ。
すると画面はジェリー藤尾を正面から捕らえたバストショットから、檀上に立つジェリーの背後のカメラポジションから学生たちでいっぱいの会場を「どんでん」で捉えたショットに切り返される。
「精神異常」のはずのジェリーの言動にあっけにとられた学生たちは、最初は誰もバンザイに応ずる素振りさえみせず、画面は一瞬凍りついた様相を呈する。
しかし、ジェリーはそんな会場の雰囲気に臆することなく、新入生の音頭ではバンザイはやはりダメなんだろうかと、伊丹支部長に相談するように話かけるのだ。
一瞬うろたえた伊丹はそんなことはない、とあわててジェリーに答えると、すぐに取り繕うようにして、会場の学生たちにジェリーの音頭に従って、バンザイをするように指示を出す。
こうしてジェリーが再び壇上から学生たちに向かって、掌を広げ両手を前に差し出しバンザイの音頭を取ると、今度はジェリーのバストショットから会場の学生たちを捉えたフルショットに、カメラは再びどんでんを返す。それと同時に、会場の学生全員がジェリーの音頭に従って「東都大学バンザイ!」を叫ぶ。
すると壇上のジェリーは、両手の掌を広げ差し出して、藤巻潤若尾文子ら監禁グループ学生の手を握り締める。感動的な握手に、会場からは万雷の拍手が起こり、偽学生の監禁など、最初からなかったことになるのだ(ここでジェリー藤尾が両手で広げてみせる掌は『UNLOVED』以降の万田邦敏が主題論的に継承することになるだろう)。
映画の最後は、精神病院の通路を「保守粉砕」を叫びながら往復するジェリーの姿が、看護士たちに「新手のキチガイ」として揶揄されるところで終わっている。
とにかく壇上のジェリー藤尾の「バンザイ!」ショットから、会場の学生たちへの「大どんでん返し」ショットの視覚効果が凄まじい。
まず壇上のジェリーと若尾との芝居で、ピランデルロ的な正常/異常の境界線の揺らぎが演じられているのだが、その揺らぎが「東都大学バンザイ!」という叫び・アクションで壇上から会場に投げつけられる。
その政治運動の正常/異常をめぐる重大な変換・伝播が、ジェリー藤尾のバストショットから、ジェリーの背後のカメラポジションから会場の学生たちを捉えたどんでん(180度切り返しショット)によって鮮明に視覚化されているのだが、壇上の特定の個人と会場の不特定多数との視線の交錯が含意する政治的力学を露呈させているという意味で、このどんでんは単なる映画的一技法に収まらないものになっている。
ここでは「東都大学バンザイ!」というバンザイの音頭とどんでんが組み合わされているが、もしかしたら増村が本当にやりたかったのは「東都大学(東京大学)バンザイ!」よりも「天皇陛下バンザイ!」+「大どんでん返し」という、より大掛かりな映画的=政治的実践だったのではないだろうか。
少なくとも増村保造にとって世代的に「バンザイ!」といったら、それは「天皇陛下バンザイ!」以外のなにものでもなかっただろうから。
はたして「天皇陛下バンザイ!」+「大どんでん返し」という、増村未遂の映画的=政治的プロジェクトを21世紀に継承・実践する映画作家は誰かいるだろうか。

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大島渚と日本

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*1:『日本の夜と霧』と『僞大学生』の関連性については、四方田犬彦が鋭く指摘している。四方田犬彦大島渚と日本』105-107頁、筑摩書房、2010年

『暖流』(1957)


http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2014-7-8/kaisetsu_3.html
http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2014calendar7-8.pdf
 
吉村公三郎版(1939年、松竹、脚本・池田忠雄、主演・佐分利信高峰三枝子水戸光子)に続く、岸田國士原作の病院再建ロマンスの映画化。
ブルジョワ病院所有者一族を中心とした階級社会のヒエラルキーを前提にドラマを展開できた吉村版とは違い、全員が没落・平民化した戦後を舞台にした増村版は、赤を基調としたカラー画面にテレビ映像等を絡めながら「下流」の猥雑なエネルギーを打ち出そうとしているが、この原作では正直苦しまぎれな感じは否めない。
増村版と吉村版とが決定的に違うところは、看護婦・石渡ぎん役の左幸子の人物の造形だろう。常に笑い、そして走る。病院の令嬢役・野添ひとみも、最後は砂浜を疾走する。増村版『暖流』では、女たちは男を振り切るように早足で疾走する。増村の演出も最終的には、吉村版との差異化に関しては、女たちの疾走という、その一点に賭けたのではないだろうか。
根上淳は熱演だが、吉村版の佐分利信とはやはり格が違うし、庶民派・野添ひとみの令嬢役も、高峰三枝子のエレガンスと比べると、非常に厳しい。
左幸子だけが、体育大学出身の運動能力を最大限に発揮して、東京駅の改札口ロケ(隠し撮り!)で「情婦でも二号でもいいんだから! 待ってます! 本当よ!」という名セリフ(白坂依志夫オリジナル)を叫ぶ場面は、吉村版にない感動を引き起こしている。その結果、根上淳左幸子との結婚を選ぶように描かれてはいても、左幸子の踊るような演技には、むしろ男を振り切るかのような強度と充足感が感じられてならないのだ。
根上淳野添ひとみが別れる砂浜の場面は、吉村版にもあるが、野添ひとみの全力疾走と砂浜に残る一直線の足跡が、吉村版の叙情を断ち切っている。
男優では、吉村版の斎藤達雄の道楽者の長男も素晴らしいのだが、医者からモデル事務所の経営者に転業する船越英二のドラ息子演技は笑うしかない(メケメケハモハモバッキャロ、とシャンソンの替え歌をずっと口ずさんでいる)。
ただし、1939年の吉村版で、病院の経営改革を断行をする佐分利信が、高峰三枝子と一緒に出掛けようと申し出たときに、斎藤達雄が揶揄するように高峰にいう「講座派に送ってもらいたまえ、講座派に」という、奇跡的に検閲をすり抜けた「マルクス主義的ギャグ」のギリギリの緊張感(労農派vs講座派!日本資本主義論争!)は、ここにはもうない。

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