『スパ2』の扉はルビッチとつながっている-①

スパイダーマン2』論‐前篇

「伸ばしてつかむ」アクションの3人

『スパ2(スパイダーマン2)』のアクションの基本形、それは「伸ばしてつかむ」である。
ドク・オクの4本のロボット・アーム、スパイダーマンのクモの糸は、ともに伸縮自在に伸び縮みして、ありとあらゆるものを、強烈な力でつかむ。
彼らが高層ビルの壁面を重力に逆らって自由に移動する一見ダイナミックなアクションも、その強力な「伸ばしてつかむ」という機能によって、壁面をアームと糸の先でつかんでぶら下がり、さらにアームと糸の長さを伸縮して調整して、次の移動地点にまで自分のからだを運んでいくという、細かい基本動作の繰り返しによって成立しているのである。
『スパ2』のドク・オクとスパイダーマンとの対決場面が、古典的な決闘場面と似た様相を呈する理由は、両者が競いあう人並み外れた特殊能力が、ともに「伸ばしてつかむ」という点に特化されているからだろう。もしアームと糸による「伸ばしてつかむ」という能力を欠いたならば、両者とも怪人でも超人でもなんでもない、ただの凡人に過ぎない。両者は、ともに「伸ばしてつかむ」能力に呪われた存在であるのだ。*1
ドク・オクとスパイダーマンの「伸ばしてつかむ」対決における、シンメトリカルともいえる拮抗性から見直してみると、前作『スパ1』におけるグリーン・ゴブリンとスパイダーマンとの対決が、なぜアクションとしていまひとつ散漫だったのか、その理由がわかってくる。
飛行・爆撃を得意とするグリーン・ゴブリンの上空からの攻撃と、それを地上からのジャンプとクモの糸の対空射撃で迎え撃つスパイダーマンとの対決は、同じビルの壁面上で対峙しながらロボットアームとクモの糸を伸ばしてつかみあう『スパ2』でのドク・オクとの見事な攻防と比較すると、対角線上ですれ違っているというか、微妙にミスマッチなところがあるのだ。
『スパ2』における、ドク・オクとスパイダーマンとの最初の本格的な対決場面は、銀行の構内でのコインの投げあいから始まる。銀行ギャングにしては派手すぎる、黒い帽子とサングラスをつけたアルフレッド・モリーナのコートの中から、4本のロボットアームが伸びて金庫の扉を引き破ると、コインのギッシリつまった袋をつかみとる(袋の中身が全部金貨で、札束が1枚もないという徹底ぶりがうれしくてたまらない)。
ここから銭形平次もビックリのコインの投げ合い、銭合戦(!)が始まるのだが、この屋内でのコインや机の投げ合いから、路上に飛び出して、車のドアのぶつけ合いにまで至る場面は、『スパ2』の「伸ばしてつかむ」アクションが、古典的なパイ投げゲームの応用形であることを示唆している。
両者の対決のシークエンスが、メイおばさんの銀行へのローンの再融資の申し込みのシーンから始まっているのは、象徴的だ。ドク・オク変身以前のドクター・オクタヴィアスに、PP(ピーター・パーカー)が最初に出会ったきっかけも、実験の資金提供者であるハリー・オズボーンの強引な紹介によるものだったことを思い出しておこう。このアームと糸に呪われた「伸ばしてつかむ」2人は、まるで金銭の媒介抜きには、決して出会うことができない宿命にあるかのようだ。
ところで、驚くべきことに『スパ2』にはもうひとり、ロボット・アームや特殊なクモの糸の力に頼ることなく「伸ばしてつかむ」アクションを、鮮やかに演じてみせる人物が存在する。
しかもその人物は、ロボット・アームやクモの糸による大量のコインの投げあいという、CGを駆使した金銭のポトラッチ(!)を演じたドク・オクとスパイダーマンの2人とは対照的に、CGなしの安上がりのアクションで、1枚の20ドル札紙幣を右腕一本で「伸ばしてつかむ」のだ。その人物とは、PPの住むボロアパートの大家のディコヴィッチ氏である。

敷居越しの「伸ばしてつかむ」アクション

PPの誕生パーティの夜、パーカー家でメイおばさんと別れた帰り、PPがアパートの階段を上がり、2階から3階への階段を上がろうと向きを変えた瞬間、PPの顔のアップに「家賃(Rent)!」という声がかかり、背後のドアが開くと、先ほどからかかっている東欧風の音楽がより大きなボリュームで響いてくる。
扉の開いた部屋の中にはテーブルを囲んで、左手前に1人、右やや奥に1人、正面奥に1人の計3人の男が座っている。扉に近い、左手前の椅子に座った初老の男が、半身の姿勢から鋭い目つきでPPを見ている。この人物こそが扉越しにPPの足音を耳聡く聞き分けて、「家賃(Rent)!」という声を発した、大家のディコヴィッチ氏である。
部屋の内側に座るディコヴィッチ氏は、悪態をつきながら、数ヶ月遅れている家賃の支払いを要求する。扉の外側に立つPPは謝罪と言い訳を並べながら、迫りくる危険を察知したかのように、決して敷居の内側には足を踏み入れようとはしない。この間カメラは、扉の敷居を境界線にして、外側の廊下に立つPPと、室内で椅子に座るディコヴィッチ氏とのあいだで交互に切り返される。
「伸ばしてつかむ」アクションの驚くべき早業が演じられるのは、そのときである。
PPの口から、今20ドルしかない、という言葉が漏れるや否や、ディコヴィッチ氏は椅子から一瞬だけ体を浮かし、右手を伸ばすと、PPの手から20ドル札紙幣をつかんで毟り取り、次の切り返しのショットでは、何事もなかったかのように椅子に腰を下ろしたまま、再びPPに家賃の遅れを毒づいているのだ。
驚くべき早業で、手元から20ドル札紙幣を奪い取られたPPは、呆然と敷居の外側に立ち尽くしている。PPがここで呆然としている理由は、メイおばさんからもらったばかりの、涙のバースデイ・プレゼントである20ドル札紙幣を、奪われたショックによるものだけではないだろう。
それは、安全圏だと思っていた敷居の外側にいた自分の手の20ドル札紙幣を、室内に座っていたディコヴィッチ氏が、ロボットアームもクモの糸もCG映像もいっさい使わずに、究極の「伸ばしてつかむ」アクションによって奪ったことに対する、技術的な驚愕によるものの方が、はるかに大きいはずだ。
扉の外の廊下に立つPPが持つ20ドル札紙幣を、室内で座ったままのデコヴィッチ氏が、わずか1秒たらずの動作で、扉の敷居越しに右手を伸ばして、20ドル札紙幣をつかんで、奪い取る。
ここには『スパ2』における「伸ばしてつかむ」アクションの究極形、その至高形態というべきものがある。

ドク・オクやスパイダーマンが、悲惨な肉体改造や、先端的なCGの助けを経て必死に獲得した「伸ばしてつかむ」アクションを、あっさりと素手で演じられたうえに、メイおばさんからもらったばかりのバースデイプレゼントである20ドル札紙幣を奪われたのでは、PPが呆然自失となるのも当然のことだろう。
それにしても、肉体改造もCGもいっさいなしで、究極の「伸ばしてつかむ」アクションを演じると同時に、1ヶ月遅れの家賃の埋め合わせとして、メイおばさんの20ドル札紙幣を敷居越しに奪って、PPを茫然自失に陥らせたうえ、さらに「サンクス、ミスター・ディコヴィッチ」と屈辱的な感謝の言葉をいわせる、このアパートの大家のディコヴィッチ氏とはいったい何者なのだろうか。

「扉の魔術師」は越境する

「家賃(Rent)!」という掛け声で、扉の外のPPを呼び止めた大家のディコヴィッチ氏が、扉の敷居越しにPPの手から20ドル札紙幣を一瞬で奪い取るこの場面は、その扉の開閉を軸とした演出の見事さから、どうしても「扉の魔術師」エルンスト・ルビッチを想起させずにはいられない。
まず「ディコヴィッチ Dikovtch」という、いかにもユダヤ系東欧移民風のネーミングに注目しよう。ディコヴィッチ氏の部屋から流れ続ける、いかにも東欧風といった感じの音楽も、この大家の「出身地」を考えさせずにはいられない。わずかに扉が開いて閉じるあいだに、扉の敷居越しに「伸ばしてつかむ」アクションで20ドル札紙幣を奪い取る、謎のアパートの大家。
その「ディコヴィッチ Dikovtch」という名前の響きは、彼が演じる扉の開閉のタイミングの見事さと合わせて、『街角/桃色の店』(エルンスト・ルビッチ、1940)のブダペストや、『生きるべきか死ぬべきか』(エルンスト・ルビッチ、1942)のワルシャワにこそ、ふさわしいものだと思わせるのだ。だいたい21世紀のニューヨークのアパートに、住人の目の前であんなに嫌味な音を立てて閉まる、古びた木製の扉があっていいはずがないだろう。
ここで何よりもルビッチを思い起こさせるもの、それは扉の向こうからPPを呼び止めたディコヴィッチ氏の「家賃(Rent)!」という声の響きである。
この「家賃(Rent)!」という、扉の向こうから響く声が『生きるべきか死ぬべきか』のゲシュタポ大佐役シグ・ルーマンの「シュルツ!」という名セリフ(?)の響きを思い出させずにはいられないのだ(「シュルツ」はシグ・ルーマンが口癖のように大声で呼びつける副官の名前)。
生きるべきか死ぬべきか』で、ヒットラーのいる劇場から脱出したワルシャワの劇団一行は、ナチ専用のホテルの一室で待機するキャロル・ロンバートを迎えに行く。そのホテルの部屋で、仲間の迎えを待つキャロル・ロンバートに、折り悪く現れたシグ・ルーマンは迫ろうとする。そこへ、ホテルの階段をこっそりと上って、彼女を迎えに部屋の扉を開けた、ヒットラーのそっくりさん役者トム・デューガンが現れる。
シグ・ルーマンは、お忍びで女優の愛人を訪ねてきた総統閣下との鉢合わせという非常事態(?!)に、驚愕して目を白黒させる。無言で扉を閉めて部屋を出た偽ヒットラー役者と、その後を大げさに「マイ・フューラー!」と叫んで追いかけるキャロル・ロンバートの2人は、茫然自失のシグ・ルーマンを部屋に残してホテルの階段を去っていく。
階段側のカメラが映す、ホテルの部屋の扉の向こう側からピストル自殺を告げる銃声が響く。と思いきや、すぐに「シュルツ!」という、悲鳴に近いシグ・ルーマンの断末魔(?)の叫び声が聞こえてくる。21世紀のニューヨークにあるはずのディコヴィッチ氏のアパートの階段と扉の配置は、まるでワルシャワのホテルの扉の向こうから響いた、死に損ないのシグ・ルーマンの「シュルツ!」が「家賃(Rent)!」に変形して回帰してきたかのような、錯覚に陥らせるところがあるのだ。*2
それにしても、このわずか50秒あまりの「家賃(Rent)!」の取立て場面で、サム・ライミが繰り広げる、扉の敷居越しの視線と言葉の交換劇、金銭の奪取劇の演出の見事さは、本家「扉の魔術師」ルビッチを凌ぐ出来栄えに達しているといっていいのではないだろうか。
扉の外側に立ったままのPPから、部屋の中の椅子に座ったディコヴィッチ氏が、一瞬の「伸ばしてつかむ」早業で20ドル札紙幣を奪い取るさまを、切り返しで描いたうえ、部屋の奥の調理場に突っ立ているやせっぽちの娘にも「ハイ、ピーター」という挨拶と同時に、フライパンに火柱を上げさせて、PPに好意的な大家の娘の存在を、名前もわからないまま、一瞬で印象付けるという芸当までやってのけているのだから、21世紀の「扉の魔術師」の名はサム・ライミにこそふさわしい。
だがしかし、ルビッチを思わせる、扉の敷居越しのコミュニケーションの演出が見事だからという理由から、この場面が重要だ、といいたいのではない。ここで「1ヶ月遅れの家賃」として20ドル札紙幣をPPから奪い取ることが、『スパ2』における遅延の主題系と負債の主題系との結合を、あらためて強調している点、その構造的な重要性をこそ指摘しておきたいのだ。
作品冒頭から、PPの遅刻の連発として提示されてきた遅延の主題系が、ここでは単なる遅刻から「1ヶ月遅れの家賃」として、「遅延+負債」というかたちで、負債の主題系と結合していることに注目しよう。*3
負債の主題系は、誕生パーティー後のメイおばさんとの会話場面でも、銀行からの「抵当権喪失通知」の手紙というかたちで呈示されていた。そこでも銀行へのローンの返済の遅れがメイおばさんのセリフのなかで言及されてはいたが、遅延と負債の主題系の結合は、まだメイおばさんを介していて、PP本人に直接及ぶ気配はまだなかった。
ディコヴィッチ氏による、扉の敷居越しの「伸ばしてつかむ」アクションによる20ドル札紙幣奪取という必殺の一撃は、この遅延と負債の主題系の結合が、PP自身を直接襲うものであることを、肉体的に思い知らせているのだ。
ディコヴィッチ氏というルビッチ的人物が『スパ2』において占める重要性はそれだけではない。アパートの大家という、境界線的なポジションからPPに敵対することによって、この遅延と負債の主題系の結合の起源ともいうべき、前作『スパ1』からの2年間の告白の遅れを、あらためて照射する役割を演じているからこそ、このルビッチ的人物は『スパ2』の作品構造において最も重要な存在なのだ。

「家賃(Rent)!」は前作『スパ1』の無賃同居を告発する

『スパ2』では、前作『スパ1』であいまいなままにやり過ごされていた事柄が、次々と明確化され、その意味が再定義されていく。それはまるで、前世の罪を徹底して告白し、悔い改めようとしているかのようだ。そこには、シリーズの続編につきものの、既存の設定の安易な流用、無批判な継続というものが、まったくといっていいほど感じられない。
『スパ1』であいまいなままにやり過ごされていた事柄のうちで最大のものが、ベンおじさんの死の真相とそれにまつわるPPの責任(responnsibility)の告白だ。
PPがレスリング大会の会場で見逃した強盗によって、ベン・パーカーは殺され、メイ・パーカーは最愛の夫を失う。もし、PPが強盗を見逃さなければ、ベンおじさんは殺されずに済んだろう。ベンおじさんの死に対して、PPにも責任があるといえるのだが、PPはその死の真相をメイおばさんに告白を怠ったまま、高校卒業と同時にパーカー家を離れ、親友ハリー・オズボーンのアパートに同居する。
こうしてPPは薄情にも(!)、夫を殺されたばかりのメイおばさんをパーカー家にひとり残し、ベンおじさん殺しの真相にも口をつぐんだまま、ハリーのアパートに居候を決め込むのだ。『スパ1』という作品の最大の弱点は、それが「責任(responnsibility)」をキーワードとしながら、ベンおじさん殺しの真相とそれにまつわるPPの責任(responnsibility)をあいまいにしているところだ。
『スパ1』で、ベンおじさん殺しの真相を告白する責任を果たさないままパーカー家を離れるPPの道徳的無責任さ、ハリーとの同居というメイおばさんとの「住み分け」によって、その無責任さをあいまいにする非倫理性は、ハリーのアパートへの「無賃同居」という「友愛経済」によって、巧妙にボカされたままだったことをあらためて注意しなければならない。
『スパ1』でPPが簡単にパーカー家を離れ、メイおばさんとの住み分けを可能にしたのは、ハリーのアパートへの「無賃同居」という無責任な経済的依存によるものだったことを忘れてはいけない。
前作『スパ1』になくて『スパ2』に新たに出てきた経済的概念、それが「家賃(Rent)!」である。
ディコヴィッチ氏の「家賃(Rent)!」というセリフが素晴らしいのは、その声が扉越しにPPを呼び止めるばかりではなく、その響きが作品間の境界線をも跳び越えて、前作のハリーとの「無賃同居」の経済的な無責任を暴き出してみせる倫理=経済的な強度をみなぎらせているからだ。
それはまた、その無責任が可能にしたメイおばさんとの「住み分け」に潜むPPのうしろめたさを、心理的な深みや道徳的な罪悪感としてではなく、あくまでも速やかに決済すべき「債務感情」としてドライに浮かび上がらせてみせるという効能も持っている。*4
独りぼっちのおばさんが心配だといいながら、「ベンがいなくてとても寂しい(it's just that I miss your uncle Ben so much.)」というメイおばさんを独りパーカー家に残し、「家賃(Rent)!」が毎月遅れている(You're a month late again.Again.)と請求されながら、PPがわざわざボロアパートを借りて、メイおばさんとの「住み分け/ひとり暮らし」を続けている理由は、ベンおじさん殺しの真相の告白を前作から2年間もズルズルと遅らせている、PPのメイおばさんに対する罪の意識にある。
ベンおじさん殺しの責任(responnsibility)をあいまいにごまかし続けているPPが、ベンおじさんのいないパーカー家で、メイおばさんと一緒に暮らせるわけがないのだ。
それは、ベンおじさんの死そのものに対し特定の刑事責任があるからではない。その死の真相について、メイおばさんに告白する責任をPPが放棄したまま、すでに2年間を離れ離れに暮らしているという、倫理的な無責任さが問題なのだ。
もし、PPが今さらメイおばさんと同居したところで、ディコヴィッチ氏のアパートで毎月毎月家賃を遅らせたように、毎日毎日告白を遅らせて、その罪の意識を増大させるのが、関の山だろう。
告白・遅延・負債の主題系の相関関係/複合作用という点から見て厄介なことは、告白の遅れが新たな負債を生み、それがまた告白の遅れを引き伸ばすという悪循環が、ここで生じているということだ。
告白の遅れは、前作『スパ1』からすでに始まっていたが、それが遅延として顕在化するのは2年後の『スパ2』になってからである。告白の遅れに伴う負債感情は、PPにメイおばさんとの「住み分け」を促していたが『スパ1』ではハリーとの「無賃同居」により、新たな負債を生じることはなかった。
しかし『スパ2』では、メイおばさんとの「住み分け/ひとり暮らし」は「家賃(Rent)!」の遅れによる新たな負債の増加となって、PPを苦しめる。PPが仕事、大学で遅刻を繰り返すのも、つまるところ、この「家賃(Rent)!」という新たな負債の支払いに追われていることによるものだろう。
新聞社では、スパイダーマンの写真の報酬の300ドルの小切手も、前貸し分を差し引かれ、払ってもらえない。ここでは告白の遅れが、債務感情によるメイおばさんとの「住み分け/ひとり暮らし」を介して、アパートの家賃の遅れという新たな遅延・負債を生み出し、そのために遅刻と前貸しという、新たな遅延と負債を再び生みだすという、典型的な悪循環が見られるのだ。
この告白・遅延・負債の主題系の悪循環が、スパイダーマン廃業にまで至る、PP/スパイダーマンのスランプを副作用として生み出していることを見逃さずにおこう。PP/スパイダーマンの能力のスランプは、一見すると、MJとの恋愛関係の不調からきているように感じられるが、その根本的な原因は、告白・遅延・負債の3つの主題系が織り成す悪循環によるものと考えるべきである。
PPがスパイダーマン廃業に追い込まれるのも、告白の遅れに端を発した遅延と債務の悪循環から、何とか免れようとするためであって、MJとの交際の好不調の方が、そうした悪循環から生じる結果の1つに過ぎない。この告白・遅延・負債の悪循環を解消するプロセスに、「ヒロイン」MJがまったく関与していないことからも、そのことは明らかだろう。スパイダーマン廃業とは、すなわちスパイダーマンのコスチュームを捨てることだが、このスパイダーマンのコスチュームが初めて披露されたのが、ベンおじさん殺しのきっかけとなるレスリング大会での会場であったことを忘れてはならない。PPにとって、スパイダーマンのコスチュームを着続けることは、すなわちベンおじさん殺しの責任=汚名を背負い続けることでもあるのだ。PPは、おじさん殺しの責任=汚名から逃れるために、コスチュームを脱ぎ捨て、スパイダーマン廃業を一度は選択するのだ。
ディコヴィッチ氏の「家賃(Rent)!」と「伸ばしてつかむ」アクションによる20ドル札紙幣奪取をトリガーとして起動する悪循環は、「ヒロイン」MJとの甘いロマンスの関与する隙を与えることなく、PPをひたすら主題論的に追い詰めていく。
『スパ2』という作品の特異性、それは告白・遅延・負債の悪循環から主人公PP/スパイダーマンが女性たちによって救済され、スパイダーマン廃業という危機から復活・再生するにもかかわらず、その女性たちによる救済のプロセスに「ヒロイン」MJがまったく関与していないことだ。
後篇では「ヒロイン」MJが関与していない、他の女性たちがPPを救済する興味深いプロセスについて、詳しく見てみよう。
(2012年10月3日初出)

スパイダーマン2 [Blu-ray]

スパイダーマン2 [Blu-ray]

  • 発売日: 2012/11/14
  • メディア: Blu-ray
スパイダーマンTM [Blu-ray]

スパイダーマンTM [Blu-ray]

  • 発売日: 2012/11/14
  • メディア: Blu-ray
街角 桃色の店 [DVD] FRT-143

街角 桃色の店 [DVD] FRT-143

  • 発売日: 2006/12/14
  • メディア: DVD
入門・現代ハリウッド映画講義

入門・現代ハリウッド映画講義

  • 発売日: 2008/03/01
  • メディア: 単行本
ルビッチ・タッチ

ルビッチ・タッチ

*1:藤井仁子は「才能というありがたくない贈り物」という適切な言葉によって、優れた『スパ1』『スパ2』分析を展開している。(藤井仁子(編著)『入門・現代ハリウッド映画講義』第三章、67−94頁、人文書院、2008)。必読文献!

*2:もちろんこれは錯覚だが、錯覚ついでに書いておくと、PPの「サンクス、ミスター・ディコヴィッチ」というセリフは『街角/桃色の店』の独立心の強い店員ジェイムズ・スチュアートが独断的なオーナーの質問に答えるときに、先頭に儀礼的に必ず付ける「イエス、ミスター・マトゥチェック」と実によく似ている。

*3:これはテマティックにまつわる余談だが、告白・遅延・負債の3つの主題系が織り成す主題論的構造から、『スパ2』こそ21世紀アメリカ映画の最高傑作であることを論証しようとして悪戦苦闘している者としては、『東京から 現代アメリカ映画談義』(黒沢清蓮實重彦青土社)のオープニングの言葉には、あらためて驚きを禁じることができない。<私も、もっと堂々と、アメリカ時代のフリッツ・ラングを理解できなければ、映画など理解できるはずもないといってみたかった。しかし、黒沢さんと初めてお会いした当時は、ごくわずかな彼の作品しかヴィデオで見ることができませんでした。『マンハント』(1941)の画質の悪いヴィデオを見せたように記憶していますが、教室に数ヵ所設置されていたテレビのちっぽけなモニターでは、アーサー・ミラーキャメラの素晴らしさを論じることさえできない。そこで、ごく普通に映画館で封切られていたオルドリッチやフライシャーやドン・シーゲルの作品の中に、フリッツ・ラングに代わるべき名前を見出すことが私の急務となったのです。それは「遅れてきた」批評家としての歴史的な振る舞いでもあったといえます。『映像の詩学』におさめられた短いリチャード・フライシャー論に見られる「遅刻者フライシャー」という概念は、ある意味で、わたくしの自画像のようなものでした。「遅れてきた」批評家としての出自のいかがわしさをあえて告白してしまったのは、ことによると、私の目にはとりわけオルドリッチ的と映り、フライシャー的な痕跡をもとどめているとさえ見えた傑作『アカルイミライ』(2002)の作者なら、その「遅刻」の歴史的な意味を理解してくれはしまいかという思いがあったからかもしれません。>(18頁−19頁)。この「わたくし」と「私」との主語の書き分けが妙に生々しい、蓮實重彦による「遅れてきた」批評家としての、アメリカ映画に対して負っている歴史的な負債についての、約35年遅れの告白には、不思議な戸惑いと同時に、やはり映画はアメリカ映画しかないのだという熱い共感を覚えずにはいられなかった。私も…わたくしも、もっと堂々と、『スパイダーマン2』のサム・ライミを理解できなければ、アメリカ映画など理解できるはずもないといってみたい…。でも、2人の口から、なぜサム・ライミの名前がぜんぜん出てこないんだ!

*4:「家賃(Rent)!」というセリフが告げるように、『スパ2』では、すべての負債が速やかに決済すべき債務として請求され、経済的なごまかし・無責任が一切許されないという点において『スパ1』よりもはるかに過酷な環境となっている。しかし、それはまた『スパ2』が『スパ1』よりも、経済的責任と道徳的責任の両方において、真の意味で倫理的であろうとしている証しでもある。『スパ2』においてこそ「責任(responnsibility)」と倫理との一致が本格的に問われているのだ。