『暖流』(1957)


http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2014-7-8/kaisetsu_3.html
http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2014calendar7-8.pdf
 
吉村公三郎版(1939年、松竹、脚本・池田忠雄、主演・佐分利信高峰三枝子水戸光子)に続く、岸田國士原作の病院再建ロマンスの映画化。
ブルジョワ病院所有者一族を中心とした階級社会のヒエラルキーを前提にドラマを展開できた吉村版とは違い、全員が没落・平民化した戦後を舞台にした増村版は、赤を基調としたカラー画面にテレビ映像等を絡めながら「下流」の猥雑なエネルギーを打ち出そうとしているが、この原作では正直苦しまぎれな感じは否めない。
増村版と吉村版とが決定的に違うところは、看護婦・石渡ぎん役の左幸子の人物の造形だろう。常に笑い、そして走る。病院の令嬢役・野添ひとみも、最後は砂浜を疾走する。増村版『暖流』では、女たちは男を振り切るように早足で疾走する。増村の演出も最終的には、吉村版との差異化に関しては、女たちの疾走という、その一点に賭けたのではないだろうか。
根上淳は熱演だが、吉村版の佐分利信とはやはり格が違うし、庶民派・野添ひとみの令嬢役も、高峰三枝子のエレガンスと比べると、非常に厳しい。
左幸子だけが、体育大学出身の運動能力を最大限に発揮して、東京駅の改札口ロケ(隠し撮り!)で「情婦でも二号でもいいんだから! 待ってます! 本当よ!」という名セリフ(白坂依志夫オリジナル)を叫ぶ場面は、吉村版にない感動を引き起こしている。その結果、根上淳左幸子との結婚を選ぶように描かれてはいても、左幸子の踊るような演技には、むしろ男を振り切るかのような強度と充足感が感じられてならないのだ。
根上淳野添ひとみが別れる砂浜の場面は、吉村版にもあるが、野添ひとみの全力疾走と砂浜に残る一直線の足跡が、吉村版の叙情を断ち切っている。
男優では、吉村版の斎藤達雄の道楽者の長男も素晴らしいのだが、医者からモデル事務所の経営者に転業する船越英二のドラ息子演技は笑うしかない(メケメケハモハモバッキャロ、とシャンソンの替え歌をずっと口ずさんでいる)。
ただし、1939年の吉村版で、病院の経営改革を断行をする佐分利信が、高峰三枝子と一緒に出掛けようと申し出たときに、斎藤達雄が揶揄するように高峰にいう「講座派に送ってもらいたまえ、講座派に」という、奇跡的に検閲をすり抜けた「マルクス主義的ギャグ」のギリギリの緊張感(労農派vs講座派!日本資本主義論争!)は、ここにはもうない。

暖流 [DVD]

暖流 [DVD]

暖 流 [DVD]

暖 流 [DVD]

天皇制の隠語

天皇制の隠語