『寄生獣』(山崎貴)

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山崎貴監督『寄生獣』は、山田洋次監督『小さいおうち』とともに、2014年の日本映画で最も喜ばしい「誤算」といえよう。2014年の日本映画は、Yというイニシャルによる嬉しい誤算で始まり、さらにもうひとりのYによる嬉しい誤算で年越しを迎えることになったわけだ。*1
長年の念願だったという『寄生獣』の映画化にあたって、山崎貴にとっての幸運は、染谷将太という唯一無二の主演俳優を得たことだ。本作における演出と特撮、日常と非日常の絶妙なバランスは、ミギー相手の特撮演技を完璧にこなした上で、自身も人間ならざる者へと変容していくプロセスを生身で演じきった染谷将太がいたからこそ達成できたものだろう。*2
染谷とミギー(阿部サダヲ)の会話場面の視線と声のマッチングは、演出・特撮・撮影・演技・照明・美術・編集等、すべてのバランスがとれていなければ、あれほどうまくはいかなかったと思う。
CG全開であるはずのミギーとの会話場面が、他の人物との日常会話場面と同等の日常性を得たことによって、深津絵里東出昌大ら、他の「パラサイト」たちとの議論劇の場面が、声のトーンが少し無機質に変わっただけで、異生物間対話の異様な緊張感を獲得できていることも見逃せない。
深津絵里の素晴らしい「パラサイト」演技、とりわけ無機質で深く響く声は、観念的、抽象的になりがちな、異生物と人類との共存をめぐる議論に、独特の肉声的リアリティを与えているのだが、それもまた全体的な声のアンサンブルあってのものであることに注意しなければならない。
本来は不自然で非日常的なはずである染谷・ミギー会話場面の視線・声のやり取りの自然さ、日常的な既視感がベースにあるからこそ、深津絵里が加わった「三者鼎談」、さらには東出昌大池内万作らが加わった「ネットワーク会議」が、無機質な声の絡み合いによって、シリアスなSF的議論劇として成立しているのだ。
深津絵里ひとりの声が素晴らしい、というだけではそれは成立困難なのであって、あくまでも染谷、阿部、深津、東出らによる声のアンサンブルが、SF的議論劇に必要なポリフォニックな肉声的リアリティを与えることにはじめて成功しているのだ。
所詮は絵空事であるSF的議論劇にとって必要不可欠な映画的リアリティとは、セリフの意味内容のリアリティ(真実味)よりもまず、それを論じあう複数の声のポリフォニックな肉声的リアリティ(迫真性)であることを忘れてはならない。こうした声のバランスを間違えると、議論場面は観念性、抽象性に陥って、映画的な活力を往々にして失うことになる。*3
 
(以下、ネタバレあり)
 
本作で最も評価すべきポイントは「右手」にまつわる主題系の一貫性だろう。
人間の脳に寄生し、頭部を自在に凶器に変形させて攻撃してくるパラサイトに対して、ミギーの右手だけが勝手に変形し、その変形右手と通常の左手のコンビネーションによって勝機を得るミギー・染谷コンビにおいては、まず左右の独立性、非中心的な不均衡性が際立っている。
パラサイトによる「顔割れスプラッター」は一見異常な動きであるが、あくまでも一つの意志(脳)によって統御された中枢的な動きであるのに対し、ミギー・染谷コンビは意志、視線、声、動作形態的において右往左往しながら共闘することで、画面を変則的に活気づけているのだ。
クライマックスのひとつである、東出昌大による美術室での暴走スプラッター事件では、廊下に転がる血まみれの死体の群を前にして過呼吸に陥りへたり込む染谷将太を、ミギー(阿部サダヲ)が「君の心臓はこんなことでは壊れない」と励ます場面は、そうした左右の「両頭性」が現れていて不思議な感動を与える。
染谷の心臓はすでにミギーの細胞によって修復されたものであるのだから、ここでの「心臓」の一語に融合の主題を見出すことも可能だろう。だがミギー=阿部サダヲの励ましによって、声を引き攣らせながらも眼はしっかりと坐ったまま廊下の奥へ進んでいく染谷将太の表情は、どんなパラサイトの「顔割れ」CGよりも不気味で恐ろしく、そこには単なる異生物との融合を越えた「人間ならざる者」への変容と進化を体感させられるほど、ここでの染谷将太の異貌ぶりには鬼気迫るものがある。
そして窓から橋本愛を抱きかかえての空中への大ジャンプ、さらには別棟の屋上に上ってからのとどめの一撃までのシークエンスは、かって染谷将太が「屋上が似合う傷だらけの不死身の異能少年」を演じた『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』(瀬田なつき、2012)を改めて演じなおしているかのような、不思議な映画的感動を与えてくれるのだ。
原作ではミギー独力による投石だった「とどめの一撃」は、左手と右の手の対等な共同作業として、弓矢という左右均衡のフォルムに改変されているが、それもまた右手に伴い左手も進化した「屋上が似合う傷だらけの不死身の異能少年」染谷将太の新たに達したステージを表すものなのだろう。*4
右手(左右)の主題系はまた「母性の神秘」という問題ともつながっていく。
主人公の母・余貴美子の右腕には火傷の跡があり、それは幼い息子を守ろうとして出来たものだと、その火傷の由来は染谷とミギーの会話の中で明かされる。「大事なのは自分の命だけだ」と主張するミギーは、そうした母親の犠牲的行為に理解不能な神秘性を見出す。
寄生主の父母との面会時に母親にだけその正体を直観的に見抜かれた深津絵里は、自ら人間の子を妊娠して「理論を越えた母性の神秘」を実験的に追求しようとする。
他のパラサイトの反対を押し切ってまで、ミギー・染谷コンビを異生物と人類の共生に不可欠なモデルと主張する深津絵里が「顔割れスプラッター」で両親殺害後に、元通りに戻ったはずの自分の顔を一瞬確認する鏡のショットでは、鏡の中で左右反転した自分の顔を注視する無機質な視線から母性を介して異生物と人間とのあいだで揺らぐ彼女の特異性が読み取れる。
母・余貴美子に寄生したAとの河川敷での最終対決直前、ミギーは睡魔に襲われ、右手に剣の形状だけを残し、入眠・活動停止してしまう。染谷将太は母・余貴美子の脳に寄生するパラサイトAと独力で戦わなければならない。すでにミギーの細胞との融合が進み、超人的な身体能力でパラサイトと互角に戦う染谷だが、パラサイトの策略によるものかマザコン少年ゆえの怯みからか、戦闘中に母・余貴美子の息子に懇願する声と顔を幻視して一瞬攻撃の手を止めてしまう。その瞬間を狙って、かって染谷の心臓を破壊した槍状の凶器がパラサイトの顔から伸びてきて、再び染谷にとどめの一撃を刺そうするのだが、余貴美子の右手が勝手に動いてその方向を逸らす。母親の右手によって間一髪で刃先をかわした染谷将太は、余貴美子=パラサイトAを倒し、母親のボディ(死体)を取り戻す。
協力者の力でAを倒す原作からのこの映画版の改変は、右手の主題系の一貫性という観点からみて賞賛に値するものだ。
染谷の窮地を救う余貴美子の右手の動きは、決して感傷的な母性愛の表現などではない。それはまずミギーの入眠によって入れ替わりに覚醒した「もうひとつの右手」として『寄生獣』における右手の主題系の一環を担っていることに注意しなければばらない。それは個人的な意志や感情を越えた、システマティックな主題論的運動なのである。*5
頭部からの攻撃を勝手に逸らした右手の動きには、余貴美子(の頭部)も茫然としていたが、それはまさに人間や異生物の意志を越えた、非人称的な主題系メカニズムの一貫性に対する驚きの現れなのだ。
過去から現在まで主人公が「右手に守られ続けてきた存在」であること。これこそが映画『寄生獣』で山崎貴古沢良太コンビが仕掛けた主題論的一貫性である。それはまた、なぜ主人公が右手だけを異生物に寄生され、それが「ミギー」と名乗るようになったかということに対する、映画からの主題論的回答でもある。
その主題系に理論を越えた「母性の神秘」や「利他性」という問題系(プロブレマティック)がどう関わり発展していくかは、完結編でのお楽しみということになる。*6
なお、これだけの内容を109分にまとめた編集は、最近の日米映画の中では「GOOD JOB!」。完璧に近いキャスティングを実現したプロデューサーの努力も賞賛に値する。

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*1:作品の批評的価値はともかく、山崎貴は『永遠の0』『STAND BY ME ドラえもん』の二作で興業成績でベストワン監督になったことも、さすがというしかない。両Y監督作品の生み出す興行的価値は、曖昧な批評的価値よりもはるかに強力で貴重なものだ。

*2:ミギーとの会話場面では『ただいま、ジャクリーン』(大九明子、2013)の腹話術人形遣い役の経験が生かされたのではないかと思う。また染谷将太が「屋上の似合う傷だらけの不死身の異能少年」を演じた『嘘つきみー君と壊れたまーちゃん』(瀬田なつき、2012)と本作は主人公をめぐる流血と蘇生、屋上からの跳躍といった主題系を深く共有している。映画的間テクスト性の実例として興味深い。http://d.hatena.ne.jp/jennjenn/20110124/p1

*3:その点で『寄生獣』の人類と異生物の共存をめぐる議論の「映画的リアリティ」は、たとえば『X−メン』シリーズを上回っていると思う。また声のトーンやリズムはまったく異なるが、『日本の夜と霧』(1964)をはじめとする大島渚の議論劇も、そうしたポリフォニックな肉声的リアリティによって、いまだに新鮮さを保っている。

*4:染谷将太には監督としてもぜひ、新たなステージに進んでほしい。なお染谷将太東出昌大共演のドラマ『ホリック xxxHOLiC』では東出昌大弓道部員役だった。そのころ東出昌大は、染谷将太ロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書』(松浦寿輝訳、筑摩書房)をプレゼントされて何度も読み返したそうだ。http://d.hatena.ne.jp/jennjenn/20110130https://www.youtube.com/watch?v=EbhLOooTlJshttp://www.mgoon.com/ch/amishinny/v/5379768http://members2ami-go.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-e646.html

*5:「テマティックとはシステマティックであると同時にサイバネティックである」(ジャン=ピエール・リシャール)。

*6:マティスム批評が真に狙うものは、主題系・説話系・問題系の相関構造の解明である。主題系それ自体の分析や主題系相互の相関関係の分析は、とりあえずの入り口にすぎない。むろん、その入り口を抜けるのが一番厄介なのだが。なお2015年4月公開の完結編では、原作にはなかった「3・11」以降にまつわるプロブレマティック(問題系)が、おそらく展開されることになるだろう。