『接吻』(万田邦敏)

ネタバレ注意!http://seppun-movie.com/

https://www.youtube.com/watch?v=KMpDB2AdhB8

蓮實重彦許されざる者たち 万田邦敏『接吻』論」が『ユリイカ2008年4月号』に特別掲載されている。*1
東京フィルメックスの『接吻』上映前の万田監督とのトークイベントで小池栄子を大絶賛していた「蓮實のおじさま」*2らしく、その『接吻』についての論考は、大方の予想通り「上映開始から五分」あまりの住宅街での豊川悦司の存在をあっさり無視して、女優・小池栄子の登場場面から話を始めている。
しかし話題が、間近からのクローズアップとして捉えられた小池栄子(遠藤京子)の表情の素晴らしさから、鋏やボールペンを握るサウスポーの左手にまで及び、とつぜん「銀行にあずけてあった古い拳銃を受け取り、それをおもむろに左手で操作し始める」もうひとりの男優兼監督が『接吻』にふさわしい固有名として、その左手とともに『ペイルライダー』(クリント・イーストウッド、1985)から呼び出されると*3、左手の連携による小池栄子から右撃ちのガンマンへの召喚の不意打ちが、嘘のように達成されてしまうさまを息を詰めて見まもるしかない者としては、たとえば、マキノ雅弘の2本の『弥太郎笠』で河津清三郎(1952、新東宝)と千秋実(1960、東映)がリピートするイカサマ師の「表返った瞬間」を目にしたときにも劣らぬ鈍い感動を覚えずにはいられない*4。 
そして左手とクリント・イーストウッドとくれば*5、話は当然のごとく、坂口秋生(豊川悦司)が携帯電話を右手から左手に持ち替えて、海に投げ捨てる場面に進んでいく。この左手による携帯投げ捨て場面と、その直後の右手で男の子に金槌を振り上げる場面での、ほんのわずかな動作に費やされる「律儀なカッティング・イン・アクションの手法」と「アクロバットを思わせもする複雑なキャメラ・ワーク」に対して、懇切丁寧ともいえる分析が施され、そこから作中人物の坂口秋生が左利きである可能性が示唆される。
しかしながら、『接吻』上映開始3分足らずのうちに、ドアの施錠をガチャガチャと確かめる右手のアップと、右ポケットから長身の凶器を突き出した後姿を見て、そこに強烈な殺気を感じてしまった者としては、この豊川悦司=坂口秋生は、その長身の凶器を右手でいつでも0.3秒で抜けるように右ポケット=右ホルダーに装着した、右撃ちの「荒野のストレンジャー」として、曇天の住宅街をさまよい歩いているのではないか、という妄想に捕らわれずにはいられない。
「こんにちわ」と見ず知らずの婦人と、路上で不用意に声を出してあいさつを交わすことも、もしこの場面を西部劇の一変種だと考えるならば、何の不思議もなくなるだろう。
小池栄子登場までの「上映開始五分」を論の冒頭で省略した代償は、残念ながら批評家蓮實重彦にとって、決して小さくないようだ。もし、これが大学の映画論のレポートならば、この「坂口=左利き説」には、間違いなく赤点が付けられるだろう。
この場合の正しい解答例は、すでにこの連載2.1で見た、左利きの小池栄子の右の掌と、右利きの豊川悦司の左の掌が仕切り窓越しに重なりあう「石鹸の匂いのする接見場面」に露呈していた、利き腕の固定性を凌駕する左右反転の主題論的力学の一端を、この携帯電話の左投げの場面にも見いだす、というものだろう。
ともに何かに強く捕らわれた存在であるかのように見えて、小池栄子豊川悦司のふたりとも、決して利き手の固定性に捕らわれた存在ではない。それに重要なのは、もともと右利きか左利きかということではない。
大切なのは、むしろ生まれつきの利き手に逆らって、左利きになること、右利きになること。『ダーティーハリー』のラストで、ふだんマグナム.44を撃つ右手ではなく、左手で警官バッジを投げ捨てたクリント・イーストウッドが偉大でかっこいいのは、まさにそのためではないだろうか*6
技法としてのカッティング・イン・アクションアクションつなぎ)といえば、ラストの3人揃っての接見場面は、小池栄子の動作を中心に追う細かいカットバックとパンによる撮影・編集が圧巻だ。
そこで例のナイフが、小池栄子の右手から両手に握りなおされ、そして左手に持ち替えて振り下ろすアクションがどのように撮られているか。そのカメラワークを確認するためだけでも、映画館に最低3度以上は通わなければならないだろう。
とにかく蓮實重彦万田邦敏も、師弟揃って(?)、小池栄子クリント・イーストウッドが大好物!

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ユリイカ2008年4月号 特集=詩のことば

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映画崩壊前夜

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*1:http://www.seidosha.co.jp/index.php?%BB%ED%A4%CE%A4%B3%A4%C8%A4%D0蓮實重彦『映画崩壊前夜』、95-111頁、青土社、2008

*2:『監督小津安二郎』の著者には、林加奈東京フィルメックスディレクターによる松竹映画の台詞のようなこの呼び方のほうが、ネットに流通する「御大」などという東映撮影所的な敬称よりも、はるかにふさわしいものだろう。http://filmex.net/broadcast/2007/11/1122.html

*3:小池栄子さんご本人は、イザベル・アジャーニと比べられるのと、クリント・イーストウッドと比べられるのと、いったいどちらが嬉しいのだろうか?

*4:イーストウッド自身は、幼少時に左利きを右利きに矯正させられたらしいが、拳銃は右撃ちなのだから、ここで『ペイルライダー』の左手による弾込め場面を切り札に使う「総長」の札さばき(イカサマ?)は、神技に近いものだ。また『ペイルライダー』の「牧師」イーストウッドは、まず右手によるガンアクションで連邦保安官ジョン・ラッセルの副官連中を打ち倒すと、最後には左手でベルトに直接挿した拳銃を抜いて、ジョン・ラッセルに「とどめの6発」を左手で撃ち込む。なお『ペイルライダー』が、アカデミー賞受賞作『許されざる者』よりも西部劇として、より神話的な風格を備えている理由は、この『リオ・ブラボー』(ハワード・ホークス、1959)の名悪役のキャスティングによるところが大きい。名作『太陽は光り輝く』(ジョン・フォード、1953)では、主役の1人を演じたこともあるジョン・ラッセルの眼光と風格に比べると、『許されざる者』のジーン・ハックマンリチャード・ハリスさえもが「格下」に感じられるのは、明らかに「世代の差」によるものというしかないだろう。また神話的といえば、かって『ペイルライダー』日本公開時に、ガラガラなロードショー館の、あまりの客の少なさに義憤を露わにした洞口依子の「こんなことなら公開されない方が逆に神話化されてよかった」という、女神ならではの神話的なコメントは、忘れようたって忘れられるもんじゃない。

*5:万田 あそこは『ダーティハリー』(71、ドン・シーゲル)のラストの警官バッジ投げなんですよ。…中略…あそこはイーストウッドが左で投げたいと監督に言ったらしいんです。…中略…それで、「ああそうか、左でやるのがかっこいいのか」と思いましてね。その発見からあそこで携帯を左で投げさせた、それだけのことなんですけどね。こういうことはもうやめたいんですけどね(笑)。「nobody issue.27」19ページ

*6:ダーティハリー』の身代金受け渡しの場面では、イーストウッドは「左手を使え」という犯人の命令通り、マグナム.44を左手でホルダーから抜いて捨てる。犯人からの暴行に耐えた末、上司から「刑事がナイフとは世も末だな」と呆れられた、右足に密かにテープで巻きつけていた細長いナイフを、尾行してきた助手の刑事相手にマシンガンを乱射する犯人の右足に、地面に倒れたままの姿勢から突き刺し、さらに右手でマグナム.44を拾いなおすと、右足を引きずりながら逃走する犯人の背中に向かって発砲してから意識を失って倒れる。この一連のシークエンスでは「左手(への持ち替え)」と「(隠し)ナイフ」がせりふと映像の両方にハッキリ出ている。