『喜劇 男の子守唄』(前田陽一、1972)

仮装と宙吊り、この2つが前田陽一作品に一貫して見られる主題系である。
仮装の主題は『七つの顔の女』(1969)の岩下志麻の華麗な変装をはじめとして、『喜劇 右向け左!』(1970)の自衛隊体験入隊、『喜劇 命のお値段』(1971)のニセ医者、『喜劇 昨日の敵は今日も敵』(1971)の精神病患者による政治テロリスト、『喜劇 家族同盟』(1983)のニセ家族、等々、枚挙のいとまがない。
前田陽一が好んで題材にする犯罪コメディにおいて、仮装・変装による身分の偽装工作は、犯罪者にとって欠かすことのできない行動様式である。
宙吊りの主題はどうだろう。
仮装という身振りそのものが、自分自身のアイデンティティーを宙吊りにするものであることは、ここではおいておこう。
売春防止法と赤線との関係を描いた『にっぽんぱらだいす』(1964)が、『赤線地帯』(溝口健二、1956)と最も違うところは、『にっぽんぱらだいす』が売春防止法施行後の、赤線が完全に閉店するまでの3年間の転業期間という「宙吊り」の期間をその中心に据えているところだろう。
急死した父・加東大介の跡を継いで、赤線をトルコ風呂へと転業しようと画策する、にわか経営者の長門裕之は、仮装と宙吊りという主題を「赤線地帯」に持ち込んでいるのだ。
宙吊りの主題は『ちんころ海女っこ』(1965)の「御赦免花」の開花に対する浜村純と中村晃子の狂喜ぶりからも読みとることができるだろう。
江戸時代の流刑囚の子孫とされる浜村純と中村晃子は、数十年に一度しか咲かないという恩赦の徴しである御赦免花が咲くのを見て、初めてその宙吊り状態から解放される。「御赦免花」の開花に対するふたりの狂喜乱舞から、その宙吊り感の底深さを、逆に読み取ることができるのだ。
宙吊りの主題は、具体的な身振りとしても、登場人物の上に現れる。
『七つの顔の女』の有島一郎は、監獄内の煙突に登ると、ヘリコプターに宙吊りにされてあっさりと脱獄する。かと思えば、仲間を裏切って金庫破りを無断で決行し、逆に金庫の中に閉じ込められてしまう。
金庫の中で身動きのできないまま、仲間の救出を待ち続ける有島一郎の姿勢・状態もまた「宙吊り」と呼ぶべきものだろう(金庫からの救出場面で、有島一郎は再びロープで宙吊りにされる)。
『濡れた逢い引き』(1967)の郵便局長・谷幹一は、「情死」した田辺昭知と加賀まりこのどちらの葬列にも着いていけず、その態度を宙吊りにしたままエンドマークを迎える。
前田陽一においてはしかし、宙吊りとは、どっちつかずの中途半端な状態ではない。それは、前田陽一が愛用した下ネタジョーク「金冷法」のように、極端な寒さと熱さとのあいだを行き来することで睾丸の機能を鍛える、二極間の過激な往復運動でもあるのだ。*1
中原弓彦小林信彦)と共同脚本の『進め!ジャガーズ 敵前上陸』(1968)では、雪山のスキー場での暗殺劇から、硫黄島での銃撃戦、内田朝雄の『気狂いピエロ』(ジャン=リュック・ゴダール、1965)ばりの自爆から『硫黄島の砂』(アラン・ドワン、1949)の擂鉢山「国旗」掲揚場面にパンでつないだ挙句、最後は三遊亭円楽の「星の王子様」でまとめるのだから、まさに全編「金冷法」的ギャグのオンパレードというべきだろう。
こうした仮装と宙吊りという前田陽一的主題系が、怒号とビンタと炎という、前田の師である渋谷実的主題系と奇跡的に交錯したのが、傑作『喜劇 男の子守唄』である。
バスの窓から東京のビル街を捉えた映像に「今日、3月10日は東京大空襲の日だ」というフランキー堺のセリフが重なり、バスの後部座席にチンドン屋の仮装をしたフランキーと男の子の姿が映る冒頭の場面から、高度成長した戦後の東京の風景に対する激しい異化の意志が伺われる。
フランキーは、焼け跡育ちの戦争孤児で、男の子は、フランキーの面倒を見てくれたパンパン「ラクチョウのお竜」の遺児・太郎で、フランキーが養子として育てている。戦争か大地震が起これば、もう一度焼け跡時代が来るというのが口癖のフランキーは、昼はチンドン屋、夜は貸し衣装の和服姿の中年ホストで日銭を稼ぐ、その日暮らしの生活で、時代遅れの焼け跡派の生き残りとして、まさに仮装と宙吊りの主題を体現する存在である。
フランキーのボロアパートの窓の真向かいのアパートに、倍賞美津子演じる「三流ホステス」が住んでいて、太郎は彼女になついているが、真向かい同士のフランキーと倍賞は、もちろんお定まりの犬猿の仲だ。(フランキーは倍賞の着替えを覗こうとして、窓と窓の間に宙吊りになって転落する)。
そんなフランキーに「ラクチョウのお竜」の昔のパンパン仲間で、今は金貸しとして成功しているミヤコ蝶々が訪ねてきて、太郎を養子にほしいと言われる。
フランキーは、この養子の申し込みを断るために、馴染みの婦警・生田悦子に母親役を頼むが、彼女は急用で来れなくなり、仕方なく倍賞美津子に、母親兼内妻役を急遽演じてもらうことになる。(仮装の主題)。
「三流ホステス」扱いにカチンときた倍賞美津子は、ミヤコ蝶々を成金の「クソババア」呼ばわりして、女のバトルがヒートアップしかけたところへ「もうひとりのかあちゃん生田悦子が現れ、どっちが本妻でどっちが2号か、フランキーは大慌て。2号呼ばわりされた倍賞美津子は怒って隣の窓へ飛び移り、自分の部屋に帰ってしまう。
太郎の養子の件は、ミヤコ蝶々が1億円の債権のかたに差し押さえたスーパーマーケットの権利を、フランキーと焼け跡仲間連中が、300万円の頭金で手に入れるための「担保物件」として、あらためて商談成立となり、フランキーは、かって焼け跡の「青空マーケット」があった場所のスーパーマーケットの新社長に就任が決まるが、倍賞美津子は子供を売ってスーパーを買ったのかと、フランキーにビンタを食らわす。
その社長就任式の日、太郎がミヤコ蝶々の家から失踪してしまう。
どうやら倍賞美津子に連れ去られて、彼女と一緒にいるらしい。フランキーは有線放送で流れる3人の愛唱歌『星の流れに』のリクエスト元から、ふたりの居所を突き止める。そこへミヤコ蝶々生田悦子も駆けつけるが、酔っ払った倍賞美津子が、生田悦子を「メスポリ」、ミヤコ蝶々を「人買いババア」と呼びつけると、ミヤコ蝶々も負けじと、倍賞にドテッパラに穴開けて新幹線通すぞ、と威勢のいい啖呵を返しているところへ、スーパーマーケットが火事だという知らせが来る。
1億円の債権のかたに、スーパーを取られた元店主の森川信が酔って点けた炎が、店全体に広がっている。その炎を、フランキーに、ミッキー安川田端義夫太宰久雄ら、焼け跡仲間が見守っている様子は、空にB29が飛んでいないだけで、かっての東京大空襲の再現である。
戦争孤児をめぐる、ビンタと罵声の応酬から失火による炎。
これはまさに前田陽一の師・渋谷実の大傑作『やっさもっさ』(1953)の20年後の反復/変奏である。この「青空マーケット」の炎は、『やっさもっさ』で炎上した日米混血児収容施設「双葉園」新館の炎と共に、東京大空襲の炎を映画的に反復しているのだ。*2
全焼したスーパーマーケットの焼け跡で開かれる、焚き火を囲んでの焼け跡仲間による、当時の服装に戻っての宴会場面では、前田陽一的な仮装と宙吊りと渋谷実的な炎の主題系との見事な融合が見られて、それだけでも感動的だが、そこに黄色いスカーフのパンパン姿の倍賞美津子と浮浪児姿の太郎が現れることで、その感動は渋谷実をも超えて、マキノ雅弘(正博)へとつながっていくのだ。
焼け跡の回想場面で、戦争孤児だったフランキー堺を、「ラクチョウのお竜」の遺児・太郎が一人二役で演じ、黄色いスカーフのパンパン「ラクチョウのお竜」を倍賞美津子一人二役で演じていたのだが、最後の焼け跡場面に来て、このマキノ的一人二役の「そっくり」と、前田陽一的仮装との融合がもたらす感動を、どう表現したらいいのだろうか。
しかも、ここで歌われる『星の流れに』は、マキノ正博版『肉体の門』(1948)のヒロイン轟夕起子が奔放に歌い踊っていた曲でもあるのだ。*3
前田陽一は『喜劇 男の子守唄』において、自らの仮装の主題系に、渋谷実の「炎」、マキノ雅弘の「一人二役」をミックスすることによって、戦後社会の風景そのものを宙吊りにしてしまったのだ。
仮装による宙吊りに、渋谷実のビンタと罵声と炎、そしてマキノの一人二役による「そっくり」とのアナーキーな結合。ここには、前田陽一による戦後映画の主題論的な総決算というべきものがある。
『喜劇 男の子守唄』は、渋谷実『やっさもっさ』と共に、速やかなDVD、Blu−rayの発売を松竹に希望したい。
(2011年1月1日初出)

前田陽一監督作品 SELECTION(3枚組) [DVD]

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進め!ジャガーズ 敵前上陸 [DVD]

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赤線地帯 [DVD]

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甘い夜の果て [DVD]

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硫黄島の砂 [DVD] FRT-042

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肉体の門 [DVD]

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本日休診 [DVD]

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*1:「金冷法」は前田陽一が脚本に参加した『甘い夜の果て』(吉田喜重、1961)でもセリフに使われている。このセリフを吉田喜重が書いたとは考えにくい。

*2:渋谷実『やっさもっさ』の凄さは、『ゴジラ』(本多猪四郎、1954)の大火災を凌ぐその白い炎が、東京大空襲の炎を通時的に反復しているだけではなく、さらに朝鮮半島での戦火の炎を共時的に反映しているところだろう。倉田マユミが熱演するパンパン「バズーカお時」は、父親不明のまま産んだ混血児トムを、朝鮮で全身火傷を負って死亡した黒人兵シモンとの子供として引き取り育てることで、渋谷実ならではの反日本的な「気違い母性」を体現している。また後年のイビリ役のイメージからはとても考えにくいが、保母役の山岡久乃が、園長・淡島千景よりも園児養育に強い情熱を注ぎ、不良外人バイヤー相手のサイドビジネスに熱中する淡島園長に、ギリギリのローキーの闇の中で対峙して、園児へのより真剣な愛情を純真な眼差しで訴える『やっさもっさ』は、戦後「松竹フェミニズム」の最高傑作といえるだろう。(なお戦前「松竹フェミニズム」の最高傑作は『暁の合唱』(清水宏、1941)であり、共に脚本=脚色は斎藤良輔である。)

*3:戦後の青空マーケットの回想場面は、鈴木清順版『肉体の門』(1964)を連想させる。また『肉体の門』のパンパンたちの縄張りは、有楽町(ラクチョウ)のガード下である。なお轟夕起子が歌った『星の流れ』は、『男の子守唄』で菊池章子本人が歌ったオリジナル曲とは歌詞が相当変えられていたと思う。http://www.youtube.com/watch?v=Xa0Jl71N7aghttp://www.youtube.com/watch?v=bzCHVuaKcTk