『スパイダーマン2』論‐後篇
スパイダーマンTM2 デラックス・コレクターズ・エディション(2枚組) [DVD]
- 発売日: 2007/07/25
- メディア: DVD
メイおばさんの憤りと「不在の階段」
スパイダーマン廃業を決意し、変身用コスチュームをビルの谷間に脱ぎ捨てたPP(ピーター・パーカー)は、メイおばさんとともにベンおじさんの「二周忌」の墓参りをする。サム・ライミ映画では定番ともいえる、木の葉が風に舞い散る墓地の美しい映像の後*1、パーカー家の一階のリビングで、PPはメイおばさんに向かってやっと2年前のベンおじさんの死の真相を告白する。
PPがレスリング会場で見逃した強盗によってベンおじさんが殺されたこと、つまりPPが強盗を見逃さなかったなら、ベンおじさんは殺されずにすんだのであり、その死の責任の一端が自分にあることをメイおばさんに告白するという責務を『スパ1(スパイダーマン第一作)』での事件発生から2年遅れて、PPはやっと果たすのだ。しかし、寵愛する甥からの思いもかけない「おじ殺し」の告白には、いつもは優しいメイおばさんも、さすがに態度を一変させずにはいられない。
2年前に最愛の夫を死に追いやった無責任な覆面レスラーに対する怒りからか、あるいは、2年間も告白を引き伸ばし遅らせてきた甥の無責任な裏切り行為に対する憤りからか、メイおばさんは無言でPPの手を振り払うと、テーブルの席から立ち上がり、階段を足音を響かせて二階へ駆け上がる。
この場面で、画面左端の「不在の階段」を通って二階へ駆け上がることによって、肉親の男性への憤りを無言で表明するローズマリー・ハリスの身振りは、唐突にも小津映画の原節子をはじめとする未婚のヒロインを連想させて感動的だ。それは『コクーン』(ロン・ハワード、1985)の祖父と孫の「流し釣り」の場面のように、脈絡を超えた小津への類似によって、なんともいいがたい映画的動揺を引き起こし、見る者を途方にくれさせる。*2
ローズマリー・ハリスが階段を駆け上がって、一階から二階へ消え去るこの場面で、最も注目すべきポイントは、その階段の位置と画面上での映り方である。画面の左端には、階段の上り口らしい柱と手すりの一部分がギリギリ映ってはいるのだが、ローズマリー・ハリスが階段のステップを実際に上るショットは存在しない。彼女はただ画面の左端から画面の外(オフスクリーン)に消えていくのであり、そこへ階段を駆け上がる靴音がSEとして聞こえるだけなのである。
そこには階段のセットが本当に存在するかどうかもわからない。にもかかわらず、彼女は確かにこの「不在の階段」を駆け上って二階へと消えることで、一階に取り残された、甥のトビー・マグワイアーに対して、無言のまま怒りを表明したのである。
画面に映ることのない「不在の階段」を、はっきりと足音をたてて二階へと駆け上がることで、一階に取り残された肉親の男性に、その怒りと悲しみを表明するという身振りの共通性において、この場面のローズマリー・ハリスは、小津映画のヒロインたち、とりわけ『晩春』の原節子に瓜二つである*3。「不在の階段」を駆け上がる女性の怒りと悲しみという、オフスクリーンを介した映画的表象によって、『スパ2』のサム・ライミは『晩春』の小津安二郎と、瞬間的に通じ合っているのである。
一方で、その2年遅れの告白の無責任さに対して、メイおばさんから小津的な無言の憤りの表明を受けて一階に取り残されたPPは、スパイダーマンも廃業したまま、もはや遅延・告白・負債の3つの主題系が織り成すダメージから、回復するチャンスはないのだろうか。
火事場の待ち伏せと扉の陰の少女
コスチュームを脱ぎ捨てて、スパイダーマン廃業をいったんは選択したPPは、しかし、ヒーローとしての責任を全面的に放棄したわけではない。火災現場の中に、幼い少女が取り残されていると聞けば、炎で燃え盛る建物の中に、普段着のまま未変身で飛び込んでいかずにはいられない。
前作『スパ1』の火災現場で、助けを求める女性の悲鳴に釣られて飛び込んだ建物の炎の中で、グリーン・ゴブリンの待ち伏せを喰らって負傷した苦い経験は、PPには教訓として生かされていないようだ。幸いにも、今回建物の炎の中でPPの助けを待っていたのは、クローゼットに隠れて炎と煙を避けていた中国系の幼い少女で、PPはクローゼットの木の扉を開けると、炎に包まれた建物の中から少女を無事救出して、両親に引き渡す。
一見、PPの英雄的行為によって、幼い少女を火事から救ったように見える、この火事のエピソードはしかし、サム・ライミ的主題系という観点から見直すならば、『スパ1』でグリーン・ゴブリンがスパイダーマンを待ち伏せしていたように、中国系の幼い少女の方が、炎で燃え盛る建物の木の扉の陰で、PPを待ち伏せしていたと見做すことも可能なものだ。
では、炎の中で、クローゼットの木の扉の陰に隠れていた少女は、いったいいかなる目的・理由でPPを待ち伏せしていたのだろうか。それは、木の扉が、サム・ライミ的主題系においては、本来存在を保護するものであって、決して敷居越しに20ドル札紙幣を奪い取るための開閉装置ではないことを、身をもってPPに伝えるために、少女は燃え盛る炎の中、わざわざ木の扉の陰に隠れてPPを待ち伏せしていたのだ。
木の扉の陰の少女は、PPに炎の中から救われることによって、一瞬の扉の開閉からディコヴィッチ氏に「家賃(Rent)!」としてメイおばさんの20ドル札紙幣を毟り取られたダメージから回復するきっかけを、木の扉に関する主題論的な啓示によって、PPに逆に与えているのである。
サム・ライミ的主題系にあっては、火事とはまず待ち伏せの場所であり、また、木の扉とは窓ガラスとの対比において、最終的には存在を保護する装置であって、決して家賃を取立てるだけ取り立てて、部屋の外に締め出すことなどありえないのだから。この扉の陰の少女の主題論的啓示によって、PPはディコヴィッチ氏に扉の敷居越しに20ドル札を奪われたダメージに始まったスランプから脱出するきっかけをつかむのである。
窓ガラスと扉の対位法
『死霊のはらわた』『続・死霊のはらわた』『死霊のはらわた3/キャプテンスーパーマーケット』において、死霊が登場人物たちを襲撃するスタイルと、その襲撃を避けるためにブルース・キャンベルがどこに隠れていたかを思い出そう。
明確な実体のない死霊の襲撃は、窓ガラスを派手な音を立ててぶち破って侵入することで、小屋の中の人間たちを怯えさせていた。小屋の窓ガラスが次々と破られるなか、ブルース・キャンベルは木の扉の陰に身を隠すことで、かろうじて死霊の襲撃を避けていた。ギシギシと音を立てる木の扉は見た目もボロボロになりながらも決して崩壊することなく、最後までブルース・キャンベルの存在を保護していた。
このように『死霊のはらわた』シリーズでは、窓ガラスと木の扉は、ともに建物の内部と外部を分節するものでありながら、窓ガラスはその透過性と破砕のイメージ、破砕のクラッシュ音という視覚的、聴覚的な特異性・破局性によって、木の扉の持つ、地道な耐久性によって存在を保護する機能を、対比的に際立たせる役割を演じていたといえる。
『スパ2』においても、そうした窓ガラスの役割は、核融合装置の実験場面での、破砕するガラスに映った、ドクター・オクタヴィアス夫人ロージーの最期の表情に見ることが出来るだろう。核融合装置の炎のコントロールに失敗したオクタヴィアスは、最愛の妻ロージーを失い、自らもドク・オクに変身して、怪物科学者として暴走しはじめる。
ロボットアームと合体したドク・オクの捨て鉢な暴走の本当の原因は、最愛の妻を自分の実験によって殺してしまったことにあるのだから、悲鳴を上げるロージーの表情が映った窓ガラスの破片のイメージをさらにロージーの瞳孔の中に映した残酷な二重イメージは、『スパ2』において最も悲痛な映像的カタストロフィを成しているのだ。
ガラスの破砕に反映した女性の死の表象は、ここで炎のイメージを仲介として、中国系の幼い少女の命を救ったクローゼットの木の扉と、生と死をめぐる対位法を形成しているといえるだろう。*4
ガラスに映った死と炎のイメージを介して、木の扉の陰の少女を救出する火事の場面と核融合実験の場面とが、主題論的な対応関係を持つことはこれでいちおう確認できただろう。だがしかし、木の扉と炎との結びつきは、もうひとりのチャーミングな女性によって、もっと早い段階で提示されていたことを思いだそう。
その女性とは、あの憎たらしい大家のディコヴィッチ氏のやせっぽちの娘である。娘のファースト・ネームは『スパ2』の劇中ではいっさい名指しされていないので、ここではとりあえずディコヴィッチ嬢(Miss Dikovitch)と呼んでおこう。*5
ディコヴィッチ嬢は2度扉を開ける
ディコヴィッチ氏が扉の敷居越しにPPから20ドル札紙幣を奪い取っていた部屋の奥の調理場で、やせっぽちの目の大きい娘が「ハイ、ピーター」と失意のPPに声を掛けた瞬間、フライパンから火柱を上げていたことを思い出そう。父親とは正反対の好意あふれる眼差しと挨拶とをPPに送った娘のディコヴィッチ嬢がフライパンの上に立てた火柱が、『スパ2』における最初の炎のイメージであることの重要性は、いくら強調しても強調しすぎることはないだろう。
『スパ2』の最初の炎のイメージが、木の扉の開閉と敷居越しの20ドル札紙幣の奪取の近傍で、ルビッチ的なアパートの大家の娘によって燃やされたことの重要性。炎のイメージと木の扉の開閉は、このときからすでに、やせっぽちの大家の娘によって、あらかじめ主題論的にカップリングされていたのだ。そう考えると、火事の場面の木の扉の陰の中国系の少女の待ち伏せもひょっとしたら、このルビッチ的アパートの大家の娘によって、主題論的に仕込まれた可能性だって考えておくべきかもしれない。
火事の場面で示された木の扉に関する主題論的啓示は、その直後に続く、ディコヴィッチ嬢がPPの部屋を訪ねてくる場面によって補完され、PPは扉の敷居越しの20ドル奪取のダメージに始まったスランプから一気に脱出することになるのだから、そのタイミングのよさは、まるで仕込まれたようなものとしか思われない。
そんな見事なタイミングによる、火事場での木の扉の主題論的啓示を補完する、PPの部屋の扉を開けるディコヴィッチ嬢の身振りと、それを描くサム・ライミの演出は、このうえなく繊細きわまりないものだ。
憂鬱な表情で窓の外を眺めるPPの背後で扉が開き、ディコヴィッチ嬢が現れる様子を、窓の外に置かれたカメラが、窓ガラス越しの縦構図で捉える。縦長の窓枠が室内を二分割するかたちになっていて、左枠はPPのアップ、右枠はPPの肩越しにぼんやり見える、シャツとパンツのあいだにおなかが見える着こなしのディコヴィッチ嬢のウエストサイズショットになっている。PPが振り返ると、ノックをしてなかったと、恥ずかしげにいったん扉を閉じて外に出て、PPの「Come in」というセリフに応じて再び扉を開けると、ようやく打ち解けた笑顔でPPと「ハイ」「ハイ」と簡単だが親愛の情のこもった挨拶を交わす*6。
大きく胸の開いた半袖のストライプのシャツの下にお腹が見え、細い腰の線がぴったり見えるパンツルックという着こなしが少しもセクシーでなく、かえって清楚な印象を与えるディコヴィッチ嬢は、チョコレートケーキとミルクをPPに勧めると、PPもそれをご馳走になる。PPの正面に座り、彼が満足げにチョコレートケーキを食べ、ミルクを飲み干すのを切り返しショットで確認すると、ディコヴィッチ嬢は不器用そうにケーキの皿とミルクのコップを抱えて、部屋を立ち去ろうとする。
そのとき初めて、彼女はメイおばさんから電話があったことをPPに伝え、その伝言メモをパンツのポケットから取り出して、この場面の真の目的が、チョコレートケーキとミルクをご馳走することではなく、2年遅れの告白をメイおばさんに赦しをもって受け入れられたことを、扉の繊細きわまる開閉とともにPPに伝えることであったことを、PPと観客に告げているのだ。
これに続くパーカー家からの引越し作業の場面で、メイおばさんが前にも増して愛情あふれる身振りでPPを赦し励まし、PP/スパイダーマンは墜落・不能のスランプから脱出し、復活を果たすことになるのだが、その復活に至るまでのプロセスに、ディコヴィッチ嬢の繊細な扉の開閉がどれだけ貢献を果たしているかは、じゅうぶん感じていただけただろう。
メイおばさんからの伝言を渡したディコヴィッチ嬢は、そっと扉を閉めてPPの部屋を出る。このディコヴィッチ嬢が静かに扉を閉めるショットが、父のディコヴィッチ氏に敷居越しに20ドル札紙幣を奪われた場面の終わりにPPの目の前で扉が音を立てて閉まるショットと対応していることに注目しよう。
対応しているのは、終わりのショットだけではない。メイおばさんからの伝言をディコヴィッチ嬢がPPに伝えるこの場面全体が、大家のディコヴィッチ氏が「Rent(家賃)!」の掛声と共にPPから扉の敷居越しに20ドル札を奪い取る場面全体と対応し、それを補償するものとなっているのだ。
父・ディコヴィッチ氏がPPから扉の敷居越しに20ドル札紙幣を奪う場面では、木の扉は「Rent(家賃)!」の掛け声とともにいきなり開き、20ドル札を奪取後は、PPの目の前で残響音を立てて閉じると、PPを最初から最後まで室内に入れることなく廊下に閉め出していた。
ディコヴィッチ嬢は、そうした父の非礼を償うために、いったん開いた扉を閉じると、やさしくノックしてあらためて開きなおし、さらにPPの「Come in」という招きに応じて、敷居を越えて部屋の中に正式に招き入れられると、今度はディコヴィッチ嬢の方がPPにチョコレートケーキとミルクをご馳走するのだ。この大家の娘のノックによる二度の扉の開閉とPPの「Come in」による正式の招き入れという繊細なコミュニケーションが、父親の「Rent(家賃)!」による突然の扉の開閉と敷居越しのPPからの20ドル札紙幣奪取という凶暴なコミュニケーションによるダメージを癒し、補償するものとなっていることは、もはや明らかだろう。
チョコレートケーキとミルクのご馳走は、父が奪った20ドル札紙幣に対する、娘からの償いのしるしなのだ。この娘の誠意があふれた扉の主題論的啓示とともに渡された、メイおばさんからのPPへの伝言に、悪い知らせが含まれているはずがないのは、当然のことだ。
ディコヴィッチ嬢がやさしく扉を閉めるショットの後、メイおばさんがパーカー家から引越しの準備作業に追われる場面に切り替わる。
PPが先日の告白のことに触れると、メイおばさんはいつもの大いなる愛情でPPの告白に感謝の念を表して、過去の事は水に流そうと、逆にPPを励ますのだ。このメイおばさんの偉大な愛情に満ちた赦しによって、PPは2年遅れの告白、その遅れによるメイおばさんへの債務感情からようやく解放されようとしている。
偉大なのはやはりメイおばさんである。「Oh,they gave me another few weeks but I decidede the hell with it.」
銀行の抵当に入っているパーカー家を、与えられた期限より先に出ることで、遅延・告白・負債の3つの主題系の悪循環から一気に脱け出そうとするのだ。彼女は、2年遅れのPPの告白を赦すことで、PPを遅延・告白・負債の主題系の悪循環から解放するだけではない。これまでは負債の返済に遅延を重ねてきたのに対して、いまやfew weeksという債務の猶予があるにもかかわらず、みずから先にパーカー家を出ることで、夫の死後苦しんできた、負債の返済の遅延から、彼女自身をも解放するのだ。
PP/スパイダーマンはこうして、遅延・告白・負債の3つの主題系の悪循環から脱け出して、復活を果たす。その復活は、火事場の扉の陰の中国系の幼い少女、ルビッチ的アパートの大家の娘、そして相変わらず偉大で愛情深いメイおばさん、といった女性たちの助力なしにはありえないが、その復活のプロセスになぜか「ヒロイン」MJの姿が見当たらないことが『スパ2』という作品の最も興味深い特徴だろう。
この復活のプロセスで、最も感動的なのは、父親の与えたダメージを繊細な扉の開閉によって主題論的に補償しながら、あくまでもメイおばさんからのメッセージの媒介役に徹したディコヴィッチ嬢のPPに対する無償の好意だろう。それは愛情というよりは、むしろ無償の主題論的誠意と呼ぶしかないもので、これほど慎ましい愛情を秘めた女性から男性へのコミュニケーションを描いた例はほとんどないだろう。*7
すべてのポイントとなるのは、やはり扉である。扉は「Rent(家賃)!」の掛け声とともに突然開いて、敷居越しに20ドル札紙幣を奪う暴力的な開閉装置にもなれば、火災現場では、幼い少女を炎と煙から保護する安全装置にもなる。それはさらに、一度閉めてからノックして再び開けなおすことで、それはその開閉それ自体がかけがえのないコミュニケーションであること示す再帰的コミュニケーション装置にもなる。
こうした扉の主題論的ヴァリエーションをヒーローの成長物語とシステマティックに連携させて、アメリカ映画ならではの、映画的な形式性と運動性との高度な統一を達成した『スパ2』のサム・ライミこそは、エルンスト・ルビッチの跡目を継ぐ、21世紀の「扉の魔術師」といっても間違いはないだろう。
『スパ2』の扉はルビッチにつながっているのだ。
(2012年10月4日初出)
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*1:こうした墓地の映像の先駆は、たとえば『私の殺した男』(エルンスト・ルビッチ、1931)の墓参りの場面に見ることができる。
*2:『コクーン』の祖父と孫の「流し釣り」の場面の『父ありき』(小津安二郎、1942)との局所的な類似には、何度見ても不思議な動揺を覚える。
*3:昼間の能楽堂で、戦争未亡人・三宅邦子と父・笠智衆の見合いに、知らぬ間に同席させられた原節子は、その夜あらためて聞かされた父の再婚話に、怒りと悲しみで体を震わせる。一階に居たたまれなくなった原節子は、『スパ2』のローズマリー・ハリスとは反対の右方向から「不在の階段」を二階の部屋へと駆け上がる。『晩春』では、笠智衆がやや間抜けな表情で、そのあとを追って二階へ一瞬だけ現れるショットがあるのだが、原節子は「お父さんこないで!下行ってて…下行ってて!」と、すぐに追い払う。もしも『スパ2』で、トビー・マグワイアーがローズマリー・ハリスを追って、二階へ上がったとしても、『晩春』の笠智衆と同じように、「ピーターこないで!下行ってて…下行ってて!」と、すぐに追い払われたことだろう。
*4:MJがドク・オクにさらわれるシークエンスも、PPとMJがキスする寸前のカフェの窓ガラスがドク・オクの投げ込んできた自動車によっていきなり破砕する映像から始まっていた。
*5:クレジットには「Ursula Ditkovitch Mageina Tovah」というキャスティングが表記されているが、「アースラ」という名前が劇中で呼び名として使われるようになるのは次作『スパ3』になってからである。
*6:ここでふたりの交わす「ハイ」という挨拶の不器用な応酬を、まるで『お早う』(小津安二郎、1959)で佐田啓二と久我美子が交わす、紋切り型の挨拶「お早う」のオウム返しのように美しいと感じてしまう神経は、やはり変なのだろうか。
*7:ディコヴィッチ嬢がPPの部屋を訪れる場面は、『スパ2』全編で、照明・音楽ともに最も繊細で抒情的なものに仕上がっている。ラストのMJがPPの部屋を花嫁衣裳で訪れる場面と比べても、それははっきりしている。MJがPPの部屋の前に現れるとき、扉はすでに開いているのだが、これはMJには扉をノックして開ける繊細さの欠けた証拠としか思えない。MJはPPに「誰かがあなたを救うときだ」と言うのだが、彼女は足手まといにこそなれ、PPの救いにならないのは明白だろう。