『黒の超特急』とシネマスコープの瞳

『黒の超特急』(1964)


http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2014-7-8/kaisetsu_29.html
http://beta.veoh.com/m/watch.php?v=v6344564Whbj9eS8

「バカに細長く」狭いシネスコ画面

「バカに細長く買うんですな」
新幹線用地買収ブローカー・加東大介が座敷に広げた地図に印されたニセの自動車工場買収予定地を見て、主人公の不動産屋・田宮二郎がつぶやく、この「バカに細長く」という一言は、シネマスコープサイズ作品『黒の超特急』の核心をそのまま言い当てたものだ。
画面を猛スピードで横切る列車によって、その横幅を強調された『黒の超特急』のシネスコ画面はまさに「バカに細長く」左右に広がっている。長方形に印された土地の地図と、細長いベルトコンベア式の架空の自動車工場の設計図は揃って、この作品の「バカに細長く」広がったフレームそのものを示しているかのようだ。
映画は開始早々、画面いっぱいを横切る列車の映像がまず、シネスコ画面の横長サイズのフレームを、否が応でも見る者に意識させる。そして、田宮二郎の不動産屋の事務所の前に停車した車から降りてくる加東大介を、事務所内のカメラポジションから捉えた縦構図、さらに料亭の一室に移動しての密談終了後に交わされる、加東大介田宮二郎の握手の画面の横幅いっぱいのアップの横構図という、露骨な横構図と縦構図との交差・対比が、シネスコ画面の「バカに細長」いフレームを強調した画面展開になっているのは容易に見て取れるだろう。
映写フレームの横幅と縦幅の比率が2:1以上のシネマスコープサイズのワイド画面は、横縦比率が1.37:1のスタンダードサイズ画面に比べると、当然左右の幅が「バカに細長く」見える。
しかしながら、左右の広がりを強調するという、シネマスコープ撮影にありがちな構図は『黒の超特急』ではまずみられない。それとは逆に『黒の超特急』で、増村保造と撮影・小林節雄のコンビが強調するのは、そのフレームの上下の縦幅の狭さである。その結果、登場人物の顔・頭部をはじめとする身体の一部が、しばしば画面の上方で「見切れる」という、スターシステムにはふさわしくない身体表象が生じてしまう。*1
スター田宮二郎とゲストスター加東大介東宝)は、座敷や椅子から立ったり座ったりするたびに、シネスコ画面の上辺によって、その胸顔・頭部がフレームの内部と外部にいちいち切断されるばかりか、じっと座ったままの状態でも、その顔・頭部がフレームから見切れてしまうことさえあるのだ。*2
たとえば、加東大介田宮二郎が密談する、岡山の料亭の一室で、仲居が座卓越しにビールを注ぐショットを見てみよう。


この一連のショットでは、田宮二郎の後ろ姿が画面左端に、そして座卓の角を挟んで加東大介の左肩がわずかに画面右端に映っている。田宮の向かい側の席には仲居が正座し、田宮のグラスと加東のグラスに順々にビールを注ぐのだが、ここでは画面の左上隅がちょうど田宮の首根っこの部分に固定されている。最初に田宮のグラスにビールを注ぐときには、田宮の右手のもつグラスが画面の中央部に位置し、画面の左半分はグラスを持った田宮の右手が覆い、次に加東のグラスに注ぐときには、仲居の女性はビール瓶を持った手元しか映っておらず、加東は左肩とグラスを差し出した右手しか映っていない。
ここでは登場人物三人全員の頭部がフレームから見切れていて、画面内では顔・頭部が切断された存在と化している。画面右端の加東大介はわずかに左肩しか映っていないのだから、ここでは明らかに、シネスコ画面は、その左右の拡がりよりも、フレームの上下の狭さをあからさまに露呈している。
この登場人物全員の頭部が見切れたショットの極端な構図の狙いは、本筋とは関係のない仲居を顔のない匿名の存在として扱い、グラスにビールを注ぐ行為を非人称的な運動として描くことだったのかもしれない。しかし、ただ仲居の顔を画面に映したくないのならば、カメラポジションを逆にして、仲居の背後から撮ればいいだけのことだったのだから、あえて登場人物全員の頭部をフレーム上辺で切断するこのショットには、シネスコ画面によって強調された映画的身体表象の暴力性が、ほとんど意図的に露呈されていると感じられてならないのだ。*3*4
このショットの直後に、例の「バカに細長」いニセの工場買収予定地の地図と設計図が示され、加東大介田宮二郎のあいだに、シネスコ画面いっぱいを使ったアップの握手が交わされると、重厚なテーマ音楽とともに作品のタイトルが示され、その次の場面では、もう田宮二郎は地主たち一行を連れて超特急で東京の土地売買契約式へと向かっているのだから、物語はすでに暴力的なあっけなさでスタートしているのだ。
アバンタイトルで示された、シネスコ画面の上下の狭さからくる「バカに細長」いフレームによって生み出された圧力が、物語展開の有無を言わさぬスタートダッシュを可能にしたかのようだ。
この「バカに細長」いシネスコ画面による上下の切断(首切り画面!)に特徴的に現れているように、新幹線用地買収に絡む、汚職と恐喝と殺人をめぐる男女のドラマを描いた『黒の超特急』は、一方で、映画における身体表象をめぐる暴力のドラマにもなっているのだが、それをさらに詳しくみていこう。
 
(以下ネタバレあり) 
 

ルノワールの切断

「バカに細長」いフレームから見切れることによって、身体損傷を被るのは田宮二郎加東大介ばかりではない。田宮二郎が、ヒロイン藤由紀子のアパートを突き止め、脅迫から肉体関係を結ぶ場面でも、「バカに細長」いフレームは、登場人物の身体を圧迫する。
加東大介田宮二郎とのシネスコ画面いっぱいに広がる握手のアップが、『黒の超特急』の物語を強引に始動させていたように、田宮の脅迫にあっさり応じて、藤由紀子がシネスコ画面に全身を収めるようにベッドに身を横たえることで、物語は新たな展開を迎えることになる。
ここで藤由紀子がその全身を横たえたベッドのすぐそばで、意外な人物の頭部が切断されていたことを見逃してはならない。それは、寝室の壁にかかったルノワールの裸婦像の複製画であり、シネスコ画面の「バカに細長」いフレームで捉えられたその裸婦像は、顔・頭部をフレーム上辺で画面の外に切り取られ、まさに「無頭化」されている。

この裸婦像の「首切りショット」には、ジャン・ルノワールの父親の絵に対する増村の悪意がはっきり表れている、というだけではない。そこには、金のために自分の肉体を汚職工作の道具として切り売りする、新幹線公団理事・船越英二の「二号さん」藤由紀子の生き方が反映されているともいえるだろう。*5*6
この裸婦像の「首切りショット」に続いてタオル姿の藤由紀子も、ベッドに座る田宮二郎の視線に合わせて、上半身のほとんどがフレームから見切れていたりと、相当「バカに細長」いフレームの影響を被っている。
しかし藤由紀子の場合は視覚表象レベルだけでなく、物語内での生死においても、身体に最も激しい暴力を受けて殺害されてしまうのだから悲惨である。しかもその殺害場面の描写が、視覚面と聴覚面の両方において二重に残酷なものになっているという点で、彼女は増村映画において最も特権的なヒロインとなり得ているのだ。

テープレコーダーの悲鳴と写真機の瞳

汚職ブローカー・加東大介は、大物政治家・石黒達也の命令により、藤由紀子を深夜のアパートで絞殺する。*7
名優・加東大介の熱演と、それに応えた藤由紀子の見事な殺されっぷりによって、この絞殺場面は凄惨なものになっているが、この場面で最も印象的なのは、藤由紀子の断末魔の悲鳴と、死体と化した藤由紀子の瞳が見開いたままであることだ。「美人女優」としての見栄も外聞も捨て去った、断末魔の悲鳴と見開いた死体の瞳。


この絞殺場面は、隠された2台のテープレコーダーによって録音され、その1台は加東によって発見・破棄されるが、予備のもう1台のテープから再生される藤由紀子の断末魔の悲鳴によって、田宮二郎加東大介を殺人犯として追い詰めていく。このテープレコーダーから繰り返し再生される、藤由紀子の断末魔の悲鳴によって、『黒の超特急』はその残酷さの水準を、それまでのシネスコ画面の「首切りショット」に見られた視覚表象的な枠組みから、聴覚的かつ体感的な音響レベルへと一気に移行する。
藤由紀子の「美人女優」としてのイメージを捨てた、断末魔の悲鳴・絶叫は、テープレコーダーの再生音として増幅・反復されることによって、新たに残酷な音のドラマを生み出している。
一方、藤由紀子がアパートで絞殺されている同時刻に、ヤクザに襲われた田宮二郎は、ボコボコに殴られたうえ、路上に横たわったところを足蹴にされる。血まみれの田宮が路上に横たわったショットは、ヤクザの足元に横たわった田宮二郎シネスコ画面の「バカに細長」いフレームに、初めてその全身像をスクリーンいっぱいに収めたものだ。

見切れる/見切れない、ということでいえば、靴とズボンの裾だけしか映らないヤクザ役の俳優たちと、主演スターとのヒエラルキーがシニカルに現れたのがこの横臥ショットだが、物語の水準からいえば、藤由紀子を救いに行こうとして血まみれで這いつくばる田宮二郎の無力さを表していて、悲痛なショットである。
殺害されて遺棄された藤由紀子の死体は、東京湾で引き上げられ、そこでも瞳は見開いたままで閉じられることはない。死体と対面した田宮二郎は、その瞼を閉じることなく、死体からすぐに離れてしまう。
「美人女優」としての見栄も外聞も捨てた、藤由紀子の断末魔の悲鳴は、テープレコーダーに録音され、殺人犯・加東大介を追及する証拠となる。聞くに堪えない悲鳴は、テープレコーダーの再生音として反復・増幅されることで、『黒の超特急』に新たな音のドラマを生み出すことに成功していた。
それに対して、見開いたままの藤由紀子の死体の瞳は、物語に新たな運動を引き起こすこともなく、唯一の身元確認者・田宮二郎にも瞼を閉じられることなく、置き去りにされてしまう。この開きっぱなしの死体の瞳は、ただ「美人女優」としての彼女のイメージを損なうだけでしかなかったかのように見える。*8

この死んで見開かれたままの藤由紀子の瞳は、強請りのネタの記念写真を撮ろうとして加東大介に逆に取り上げられ破棄された写真機のようだ。音声的な証拠として有効活用されたテープレコーダーとは対照的に、視覚的な証拠装置としては何の役にも立たなかった、あの写真機である。
強請りの決定的なネタとして、船越英二と藤由紀子との「情交写真」を撮ろうとして、田宮二郎は写真機を新たにもう1台、テープレコーダーとともに用意して藤由紀子に渡していた。しかし、証拠として残ったのは、テープレコーダーとそこに録音された悲鳴だけであり、田宮が用意した2台の写真機は、結局最後まで、視覚的な記録装置として機能することなく終わったのだ。
テープレコーダーが殺人現場の音声を録音していたように、藤由紀子の死体の瞳には、写真機のレンズが捉えることができなかった、殺人現場の映像が映っていたはずなのだ。だからこそ、田宮二郎は藤由紀子との死体との対面場面で、劇映画の通例に逆らって、開いたままの瞳の瞼を閉ざすことなく死体から離れたのではないだろうか。
藤由紀子の死体の見開いた瞳は、田宮が強請りのために用意しながら役に立たなかった2台の写真機のレンズに対応しているのだ。
そして田宮二郎が本当に欲しかったものは、殺人の証拠としてのテープレコーダーなんかではなく、強請りのネタとしての写真だったはずなのだ。そしてその写真をネタに強請り取った金を藤由紀子と山分けすること。それこそが本当の望みだったのだ。*9
その写真を撮ることができず、金も奪えず、藤由紀子の生命を救うことの出来なかった田宮は、二重三重の意味で敗残者なのだ。
田宮二郎はテープレコーダーで藤由紀子の最後の悲鳴を聞くことはできても、彼女が最後に見たものは決して見ることができない。劇映画の通例に逆らって、女性の死者の瞼を下ろすことなく、田宮二郎を藤由紀子の死体から離れさせる増村の演出は、田宮二郎が視覚的な敗残者であることを、まず強調している。
そして「美人女優」藤由紀子の死体の瞳の瞼を閉ざすことなく、開きっぱなしのまま放置し、葬儀もなしに画面から退場させる増村の演出は、映画における眼球/視覚体験の強度という点において、『清作の妻』(1965)での若尾文子による田村高広の「眼球釘刺し」以上に残酷なものがある。

黒のブラインドの瞼

藤由紀子の死体の瞳の瞼を閉じることなく、東京から岡山へ帰ろうとする田宮二郎が乗る列車は、当然のことながら、超特急ではなく、各駅停車の鈍行である。
その窓の外を、超特急列車が通過していく。金のために新幹線公団を辞めて、赤坂の「二号さん」アパートと母子家庭の実家との往復生活を送っていた藤由紀子は、超特急はおろか鈍行列車の旅行さえしたことはなかったかもしれない。少なくとも、劇中で彼女が乗った乗り物は、タクシーと、加東大介が彼女の死体遺棄に使った乗用車だけなのは確かである。
その超特急の映像を遮断するように、田宮二郎は窓のブラインドをいきなり下ろすと、座席で自らも目を閉じる。
田宮二郎が下ろすこの黒のブラインドこそ、閉じられなかった藤由紀子の瞳の瞼なのだ。視覚的な機能を何も果たすことなく虚しく開かれたままだった死者の瞳の瞼は、映画が終わる直前に、窓に映る超特急の映像を遮断するために、黒のブラインドとなって閉じられるのだ。*10
その閉ざされたブラインド=瞼が画面を覆う黒さは、作品そのものの視覚的機能を遮断しようとするかのようだ。*11


劇中、藤由紀子が乗ることも見ることもなかった超特急の映像を遮り、『黒の超特急』という作品の持続を遮断するために、田宮二郎はブラインドを下ろす。横切る超特急の映像を、縦に下ろすブラインドがピシャリと遮る。ここで初めて、フレームの上下の縦幅の狭さが、田宮にとって救いになって現れたかのようだ。
虚しく見開いたまま死んだ藤由紀子の瞳は、田宮二郎が無言で下ろす黒のブラインドによって、ようやくその瞼を閉ざすことができたのだ。しかもその閉じたブラインドの横で、パートナー田宮二郎もまた静かに目を閉じて、作品全体の視覚機能を停止させようとしている。*12
上下のフレームによる「見切れ」という、シネスコ画面による「身体損傷」を共有したあげくに、最後に一緒に瞼を下ろし瞳を閉ざすことでシネスコ画面の視覚そのものを遮断しようとするふたりは、増村作品において最も特権的なパートナーと化している。*13
『黒の超特急』の「バカに細長く」狭い画面を見続けてきた観客の瞳も、主人公ふたりとともに、ここでゆっくりとその瞼を下ろすことができる。
エンドマークを横切る超特急の「バカに細長」い映像を見る瞳はもはや存在しない。
画面の上下の切り捨て、人体/死体の不自然な横臥にシネマスコープの本質を見出し、死者の瞳の瞼を閉ざすことと作品/映像の遮断を重ね合わせた『黒の超特急』の増村保造こそ、真の意味で暴力的で残酷な映画作家なのである。*14
(2013年6月15日初出)
http://www.veoh.com/watch/v6344528YWTpTbWm

黒の超特急 [DVD]

黒の超特急 [DVD]

  • 発売日: 2006/09/22
  • メディア: DVD
清作の妻 [DVD]

清作の妻 [DVD]

  • 発売日: 2006/08/25
  • メディア: DVD
68年の女を探して―私説・日本映画の60年代

68年の女を探して―私説・日本映画の60年代

映画 1+1

映画 1+1

しとやかな獣 [DVD]

しとやかな獣 [DVD]

  • 発売日: 2005/09/23
  • メディア: DVD
アウトレイジ [DVD]

アウトレイジ [DVD]

  • 発売日: 2010/12/03
  • メディア: DVD

*1:「見切れる」という云い回しは本来、画面のフレーム内に映ってはいけないものが入っている状態を示す映画業界の用語だが、ここでは、フレームによって、写真の被写体の身体が途中で切れた状態で映るという、世間一般で流通している意味に準じた用法で用いる。ここでいう「見切れ」とは、画面内の被写体が、フレームの線によって、画面の内外に切断された状態での身体表象のことを指している。切断という含意の重みと、他に適当な言い換えがないことを考えると、「見切れる」という云い回しについては、世間一般の用法の方が、語感として正しい。業界用語としての「見切れてる」の本当の意味は「ジャマだ、どけ/どかせ、このボケ!」だろう(要するに「画面のジャマ」)。

*2:筒井武文による小林節雄インタビューによると、『黒の超特急』は全編望遠レンズを使い、そのためにステージ中央にワンセットだけ組んで、それを四方からカメラを引いて撮影したとのこと。画面の上下での「見切れ」が目立つのは、この全編望遠という無茶な撮影方式と関係があるのかもしれない。増村保造著・藤井浩明監修『映画監督 増村保造の世界 《映像のマエストロ》映画との格闘の記録1947-1986』、1999、ワイズ出版

*3:もし、このショットがスタンダードサイズ画面で撮影されていたならば、田宮二郎の頭部と仲居の顔・頭部が、すべて見切れることはなかったと思う。また、どんでん(180度切り返し)は増村の常套手段であったから、この後姿の田宮二郎加東大介に仲居を正対させたショットのカメラポジションも、入念に計算されたものだったはずだ。筒井武文による詳細きわまる増村組インタビューによると、増村保造小津安二郎と同様に、毎回カメラのルーペを覗いては、数センチ単位で構図を指示していたとのことだから、この「頭部切断ショット」も、増村自身によって数センチ単位で指示されたものだと、ここでは推測しておこう。増村・藤井、同書

*4:なお増村作品における「無頭性」の表象という問題に関しては、阿部嘉昭が『妻は告白する』(1961)で「亡霊化」する若尾文子の<「顔を消す」ということで生じる「無頭性」>について鋭く指摘している。阿部氏の「無頭性」についての指摘は、増村映画における「女性性」の問題とは別に、映画における身体表象の暴力性の問題に関わっていると思われる。阿部嘉昭『私説・日本映画の60年代 68年の女を探して』、「1章.動物性を付与された女の分類不能性について 増村保造『妻は告白する』の若尾文子」、7−38頁、論創社、2004

*5:もっと具体的にいえば、それは決して画面には顔の映ることのない、主演女優・藤由紀子の代役のヌード女優に対応するかのように、女性の首から上の部分は画面の外に切り捨てられ、首から下の匿名の裸体だけが画面に映されてるという見方もできる。この首切りルノワール裸婦像は、増村映画に出演した、無頭・無名のヌード女優たちの「胴体」を集約したものでもあるのだ。

*6:なおルノワールの裸婦像をシニカルに扱った映画に『しとやかな獣』(川島雄三、1962)がある。『しとやかな獣』については、松浦寿輝「ダブルベッドと贋作名画 ― 川島雄三」(『映画1+1』、173−181頁、筑摩書房、1995年)、加藤幹郎「倫理なきホームドラマ川島雄三『しとやかな獣』(一九六二年)」(『日本映画論 1933−2007 テクストとコンテクスト』、192‐200頁、岩波書店、2011年)を参照。愛人のアパートにルノワールの絵を飾るという映画的な習慣(紋切型)は、1960年前後に成立したのだろうか。

*7:石黒達也の命令により殺人実行犯となる加東大介の本来の役割は、田宮二郎を物語に引き込む「誘惑者」(詐欺の勧誘)である。物語後半、彼らに生じる敵対関係は前半の共犯関係から転じたものである。田宮二郎も藤由紀子も、加東大介によりあらかじめ身元調査をされたうえ、一定の報酬で新幹線用地買収の「工作員」として勧誘・利用されたのであって、約束通りの手数料を田宮に支払う加東は「悪党」としては良心的(?)ともいえる。良心的な証券マン・中條静夫の忠告を無視して無謀な株取引で失敗した挙句に恐喝犯に転じる田宮と加東との違いは、「成功した小悪党」と「失敗した悪党の成り損ない」のそれであって、そこに本質的な差はない。『黒の超特急』で一番の「大悪党」は実行をためらう「小悪党」加東大介に平然と殺人を命じる「大物政治家」石黒達也である。

*8:母子家庭の藤由紀子には病気の母親がいるはずだが、画面にはまったく登場せず、田宮二郎が藤由紀子の唯一の「遺族」であるかのように描かれている。

*9:田宮二郎加東大介による録音テープの買収に応じないのは、殺人の告発のためというよりも、それが本来田宮が目論んでいた写真による強請りと主題論的に対立するものだからである。藤由紀子と山分けするために視覚装置によって強請り取るはずだった金への執着、それこそが音声装置の証拠品によって得られる大金、彼ひとりが空しく独占するしかない大金を拒絶させたうえ、加東に激しく殴打を加えさせるのだ。そこには死者と金銭をめぐる、視覚的なものと音声的なものとの決定的な対立がある。

*10:ブラインドは瞼の「代補」であり、それが最後に閉じられることで「差延」が生じる、という言い方も可能だろう。

*11:このブラインドの黒さは、おそらく実物の列車のブラインドの色よりも、美術および撮影によってその黒さを映画的に強調されたものだろう。この「黒」のブラインドが窓に映る超特急の映像を遮るショットは『黒の超特急』というタイトルそのものでもある。世界映画史に残る、リテラル(字義通り)なショットである。

*12:田宮二郎がブラインドを下ろすのは、死者の瞳の瞼を閉ざす行為であると同時に、彼女が撮りそこねた写真機のシャッターを押すことでもある。ブラインドをピシャリと下ろす音は、彼女が押せなかった写真機のシャッター音なのだ。最後の最後で、ブラインドと瞼と写真機のシャッターが一体化することで、死後反復されるテープレコーダーの悲鳴の呪いは、ブラインドのシャッター音によってようやく断ち切られるのだ。

*13:他作品での「お嬢様イメージ」を完全に払拭し、死体まで演じきった藤由紀子と田宮二郎のふたりが結婚したことには、一種の映画的必然性を感じずにはいられない。『黒の超特急』の俳優陣は全員素晴らしいが、加東大介船越英二を小物扱いする、大物政治家役・石黒達也の貫禄は圧巻。

*14:たとえば『アウトレイジ』(北野武、2010)のような作品と比較すれば、『黒の超特急』の特異な暴力性、残酷さはより明確になるだろう。『アウトレイジ』は最近の日本映画では、シネマスコープサイズの特性を生かした「暴力映画」の傑作といえるだろうが、その暴力描写と視覚体験の残酷さという点では、増村的な強度とは遠く離れたものになっている。『アウトレイジ』の続編『アウトレイジ ビヨンド』(北野武、2012)もまたレコーダーの録音を鍵とする「声の活劇」(上野昂志)になっていたが、中高年のヤクザと刑事の怒号と罵声と悲鳴が飛び交う『アウトレイジ』2作と、女と男の棒読み気味のリズムでたたみかける増村的な「声のドラマ」との対照性、その強度の違いは明らかだろう。