『エクソシスト3』(1990)

黒沢清・篠崎誠が『CURE』(黒沢清、1997)の元ネタの1本として絶賛するサイコホラーの傑作(黒沢清『恐怖の映画史』青土社、2003年、271-78頁参照)。

シリーズ第1作でリー・J・コッブが演じていたキンダーマン警部役をジョージ・C・スコット、悪魔祓いで死んだはずのダミアン・カラス神父役をブラッド・ダリフが引継ぐ。
ジョージタウンで起こる連続首切り殺人事件を捜査中、事件現場の病院の隔離病棟で、キンダーマン警部(ジョージ・C・スコット)は事件現場の病院の隔離病棟で、15年前に悪魔祓いで死んだはずのダミアン・カラス神父に再会する。しかし、そのカラス神父そっくりの精神病患者(ブラッド・ダリフ)は、自分のことを15年前に処刑された連続殺人鬼だと名乗り、複数の実行犯による今回の連続殺人についても、自分の犯行だと主張し、その手口(筋弛緩剤・血抜き・首切り等)の詳細を警部に語るのだった…。

ジョセフ・ロージー作品の名手ジェリー・フィッシャーを撮影監督に起用した、ウィリアム・ピーター・ブラッティによる演出は、まるでリチャード・フライシャーサミュエル・フラーを合わせたように素晴らしい。凶行や死体そのものを直接的に映すのではなく、その直前・直後の状況を詳細に描くことによって、悪夢のような恐怖を全編に醸し出すことに成功している。
とりわけ『CURE』のラストシーンを凌ぐといってもいい、夜勤の看護師が病院の廊下で殺人鬼に襲われるプロセスを描いた場面はあまりにも素晴らしい。
この場面の素晴らしさ、恐ろしさは、それが病院の長い廊下を縦構図のフィックスのロングショットで捉えることによって、一種のトンネル、さらには「直線状の迷路」として提示していることにある。
その縦構図で示された廊下の一番奥には警備の警官(守衛?)が出入りしているのが遠くに見え、画面右手の中ほどに位置するナースステーション、奇妙な物音が聞こえる画面左手の手前の3つのドアと、縦構図の画面の中で絶妙な位置関係・距離関係・遠近感を形成している。
この廊下が一種のトンネルとなっているというのは、ここで廊下は無人のナースステーション以外に逃げ場がない、外部と遮断された無人の閉鎖空間となっているからで、じっさい看護師が物音のする左手のドアに入ると警備の警官が「本当にこれ以上はありえないってタイミングで奥に消える」(篠崎誠、前掲書)。
室内を確認した看護師は無人の閉鎖空間となった廊下に戻りドアの鍵を掛けるのだが、そのドアに背中を向けた瞬間、鍵を掛けたはずのドアから白い布で全身を覆った人影が、大型の植木バサミを振りかざして彼女に近寄るのだから、この廊下を映画的空間として考えると、殺人鬼が側溝に潜むトンネルとほぼ同じものといっていいだろう。
この廊下が「直線状の迷路」になっているというのは、すなわち、その縦構図の画面上で、カメラから一番遠い奥の人の動きは直接はっきり見えるのに対して、カメラの一番近くに位置する、奇妙な物音が聞こえてくる左手のドアは、いわば画面の外側(オフスペース)につながっていて、そのオフスペースから聞こえる音源を確かめるためには、ドアを開けてカットを変えなければならないという、映画的知覚の遠近感上の微妙な混乱を生じさせているからだ(遠くより近くが知覚困難)。
ドアを開ける看護師の手のアップから、カメラが左手の部屋の中に入ると、奇妙な物音の音源はコップの中の氷が溶ける音だとわかり一安心する。
ここで仮眠中の男性医師に看護師が怒鳴られ、「エミー・キーディング」という被害者のフルネームを名乗らせる演出も見事だ。とにかくここでの縦構図の見通しのよさは、画面左手のドアから聞こえる音源について、何の視覚的情報も与えてくれず、その見通しのよさは死角となる左手のドアに対して、逆に無用な錯覚に基く安心感・全能感を与えるという意味で、この縦構図の廊下は、直線状の迷路・迷宮と化しているといえるのだ。
さらに、この廊下はもはやスクリーンそのものでもある、とさえいえるだろう。
看護師が2番目に開く、左手の手前から3つ目のドアは明らかにスクリーンの外に通じている。そのドアからは「外部の光」としかいいようのない、眩い光が廊下に差し込んでくるのだ。
ここではドアのアップを映すだけで、その室内にカメラが入ることはない。開いたドアの隙間から不自然なまでに明るい光が廊下の床を照らすのを、ジェリー・フィッシャーのカメラはフィクスの超ロングショットで捉え続ける。その眩い光を浴びた看護師は廊下に戻ると、ガチャガチャと音を立てて、ドアの鍵を掛ける。
このアフレコで強調された鍵を掛ける音は、シークエンス冒頭の氷の溶ける音から始まった不安と緊張の終了を告げるものでもあり、ここで観客は看護師「エミー・キーディング」の無事を確認して一息つくことができる。
しかし、彼女がたった今しっかり鍵をかけたドアに背中を向けた瞬間、効果音とともに閉めたはずのドアをまるで通りぬけたように(ドアを閉める数秒前まで眩かった内側の照明が落ちている!)、全身白い布を被った人影が大型の植木バサミを振りかざして彼女の背後に近寄る姿の全身ショットへズームインすると、画面は首のないキリスト像のアップに切り替わる。
この殺人鬼の登場が恐ろしいのは、それが廊下(スクリーン)の内側から鍵を掛けたにもかかわらず、鍵を掛けたドアを通りぬけるようにして、スクリーンの外から現われたことだ。
ここではスクリーンの外部から内部への侵入、いや外部が内部を侵犯する瞬間までのプロセスが「原理主義的映像」(黒沢清)によって捉えられているのだ。
それはただ単に「原理主義的映像」というだけでなく、氷の溶ける音、鍵を掛ける音、ドア越しの照明の明滅、等の音と光に関する繊細な配慮によって裏打ちされたものなのだ。
だが一番決定的なのは、あの眩い光だろう。
看護師「エミー・キーディング」は、ドアの向こう側(オフ・スクリーン)で「外部の光」を全身に浴びてしまったために、鍵をかけたにもかかわらず、画面の外へ連れ去られてしまったのだ。
この「外部の光」はジョージ・C・スコットとブラッド・ダリフの最後の対決場面で、今度は下側から、床に穴を開けて輝く光(地獄の光?)となって再び現れ、映画を締めくくる。
ウィリアム・ピーター・ブラッティにとって映画とは、スクリーンの中よりも、その外に光あふれるものなのだろうか。

黒沢清の恐怖の映画史

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