『ザ・ウォード 監禁病棟』

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炸裂!懐中電灯パンチ

ゴースト・オブ・マーズ』(2001)以来、約10年ぶりとなるジョン・カーペンターの長編新作は、精神病院の監禁病棟に収容された5人の女性患者が謎の「ゴースト」に次々に襲われる、サイコサスペンスホラーだが、その一方で、病院からの逃走を何度も試みるヒロインの不屈の闘いを捉えた「エスケープ・フロム・ザ・ウォード」ともいうべき、女性脱走アクション映画になっているのは、なんともうれしい限りだ。
しかも今回の戦闘スタイルは、飛び道具なしで自動車も列車も使わない、脚力勝負の追っかけっこが主のシンプルなもので、そのアクションを流れるように裁くカーペンターの演出・編集は、これまでにない切れ味を見せていて、最高に素晴らしい。
ヒロインは必殺の「懐中電灯パンチ」を武器に*1、病院の廊下を駆け抜け、昇降機に乗り込み、病院スタッフがそれを追っかける。ただその動きをカメラが捉えるだけで、最高級の活劇的躍動感が達成されているのだから、全力疾走とその「コース設定」(動線設計)が、映画にとっていかに重要なものであるかが、あらためて痛感させられる。
(以下、ネタバレ含む。)

靴を履きっぱなしのヒロイン

全力疾走には靴が必要だ。下着姿で林を駆け抜け、農家に放火して、警察に保護されたクリステン(アンバー・ハード)は、そのまま精神病院の監禁病棟に送られる。膝から上はスリップ一枚の衣装で林を走る彼女の足元は、裸足ではなくちゃんと靴を履いている。上はスリップ、下はスニーカーという、上下間の見た目の不均衡が、そのまま彼女の精神状態を示しているかのようである。*2
病院に収容されたクリステンは、下着を脱がされ、患者服、そして私服のジーパンとシャツへと着替えを繰り返すが、その着替えの過程で、彼女は裸足の足を見せないことに注意しよう。収容初日、早速「ゴースト」が彼女に接触を試みる。ベッドで眠る彼女の毛布が緩やかに引きずり下ろされる官能的なショットで、「ゴースト」の訪問が示される。ここで驚くべきなのは、ベッドで就寝中にもかかわらず、毛布の下から現れる彼女の足が裸足ではなく、靴を履きっぱなしのままであることだ。まるでいつでも走って逃げ出せる準備を、24時間ずっと足元に課しているかのようだ。
翌朝、クリステンは主治医に服用を命じられた錠剤を、その靴底で踏み潰す。クリステンにとっては、靴が走るだけでなく、薬を拒否する道具でもあることを示すこの場面に至って、『ザ・ウォード』における靴の主題系は明白なものとなる。投薬拒否と脱走の武器としての靴。この靴の主題系の明確化に伴って、その反対項としての裸足の主題もまた、あらためて浮上してくる。

「ゴースト」の靴音と裸足の犠牲者

まず映画冒頭、夜の廊下に響く「ゴースト」の靴音に恐怖した女性患者タミーは、背後から首を掴まれ、宙吊りにされて「絶命」する。
硬直した裸足のつま先を、宙吊りのまま画面に晒すことで、彼女は「ゴースト」とその犠牲者のあいだにある、靴と裸足との主題論的な対立関係を示そうとしていたかのようだ。映画冒頭部に、(死後)硬直した裸足のつま先を晒すことで、裸足の主題の無防備さを、他の患者たちに身をもって示していたといえるだろう。
思い思いの服装の女性患者たちが「共同生活」を送る、この女子寮めいた監禁病棟で注目すべきなのは、冒頭のタミーを除いて、裸足の患者が一人もいないことだ。『ザ・ウォード』では、裸足の患者が病棟内をさ迷うといった、「精神病院もの」にありがちな紋切り型描写は存在しない。この病棟では「ゴースト」さえもが、ロングスカートの正装に靴を履いて、夜の廊下を歩きまわるのだ。そして、この監禁病棟で裸足になることは、「ゴースト」の靴音の餌食になることを意味するのだ。
タミーのいた部屋に入室させられたクリステンは、夜の廊下をさ迷う「ゴースト」の気配に気づくが、ベッドで寝るときも靴を履きっぱなしの彼女は、毛布をいたずらされるだけで、いったんは「ゴースト」をやり過ごすことができる。
しかしながら、ベッドでは靴を履いたままのクリステンも、シャワー室では裸足にならないわけにはいかない。カーペンター自身が「お色気シーン」と認める、シャワー室の場面で、クリステンは「ゴースト」に襲撃を受けて錯乱・絶叫してしまう。若い女優たちの濡れた肩や背中に目を奪われがちなこのシャワー室の場面で、本当に重要なのは、すぐにタオルで覆われてしまう裸の上半身ではなく、初めて靴を脱がされ、いつもの脚力を失った、クリステンの裸足の足元のほうなのだ。
このシャワー室の襲撃は決定的だ。「ゴースト」の白昼の襲撃に錯乱したクリステンは、病院スタッフに手足を拘束されると、むりやり電気ショックを浴びせられる。拘束された足はもちろん裸足だ。電気ショックを浴びたクリステンは、冒頭のタミーのように裸足のつま先を硬直させると、失神し、仮死状態に陥る。こうして、靴を脱いで裸足になったとたん、クリステンは「ゴースト」の襲撃を受け、さらには電気ショックまで浴びせられてしまうのだから、この無防備な裸足にとって、靴は「ゴースト」の襲撃から身を守る、防護装置の一種でもあったのだ。
もちろん、シャワー室で裸足になったのはクリステンだけではなく、他の患者たちも同様だ。クリステンへの襲撃を皮切りに、アイリス、サラ、エミリー、ゾーイと、女性患者たちは順々に襲われ、姿を消していく。患者がひとり、またひとり、姿を消していくなか、クリステンは「ゴースト」の脅威と自らの正常を訴えながら、脱走を繰り返すが、病院スタッフと「ゴースト」の妨害にあい、途中で失敗してしまう。

靴音とメトロノーム

シャワー室でのクリステンの次に「ゴースト」に襲われて姿を消すのはアイリスだ。彼女は姿を消す直前に主治医の診察を受けるが、そのときおこなわれていたメトロノームによる催眠療法は、靴の主題系と関わりがあることに注意しよう。
メトロノームの規則的な律動音による催眠は、このシークエンスでは、アイリスへの「ゴースト」の襲撃の呼び水となっているということだ。メトロノームが刻む音と「ゴースト」の靴音は、その規則的なリズムにおいてパラレルであるだけでなく、どちらも患者を「消滅」に導くという点において、機能的な面においてもパラレルな関係になっているのだ。この「消滅」は最後にクリステンと「ゴースト」にも及び、作品は最終段階を迎えることになるだろう。

裸足のバニー

「ゴースト」をめぐって、裸足の主題は、思わぬところにも現れている。「ゴースト」の正体は、患者たち全員が共同で「処置」した、アリス・ハドソンという名の患者であること、ゾーイの持ってるバニーのぬいぐるみがアリスの「形見」であることを、クリステンは突き止める。患者全員によって抹殺されたアリスの「ゴースト」が、他の患者全員を復讐・抹殺しようとしているわけだ。そのアリス・ハドソンの「形見」であるバニーには「AH」というイニシャルが刺繍されているのだが、その「AH」のイニシャルが縫いこまれている箇所が、なんと足の裏なのだ。
「AH」の文字が縫いこまれたバニーの足の裏を捉えたショットは、まぎれもなく裸足の主題の一環を担っている。結局『ザ・ウォード』において、裸足を画面に見せるのは、冒頭で宙吊りにされたタミー、電気ショックで仮死状態になったクリステン、そしてアリスの「形見」のバニーの3体、ということになるわけだ。*3

「ゴースト」の「消滅」

最後の脱走で、いったんは「ゴースト」を退治し、監禁病棟からの脱出には成功したクリステンは、主治医から、自分自身の「本当の正体」を知らされ、あらためて「ゴースト」との最終決着を迫られる。
主治医が仕掛ける、メトロノームの音のリズムが、ゴーストの靴音と主題論的に融合し、クリステンをも「消滅」に導こうとする。*4クリステンと「ゴースト」は共に窓から外に転落するが、この転落において、靴とその脚力は完全に無力化されている。クリステンも「ゴースト」も共に「消滅」するしかない。
「消滅」の後にはエピローグしか残っていない。エピローグに再生するアリスは、ほぼベッドに横たわったまま、周囲の祝福を受けるのに忙しい。*5
ラストショットにサプライズ(?)で再登場するクリステンは、上半身しか姿を見せない。足があるかどうかもわからない彼女は、ある意味、きわめて日本的な幽霊と化している。そこにはもう、カーペンター的な「ゴースト」の靴音は聞こえない。
約10年ぶりの全力疾走の果てに、ジョン・カーペンターは、靴と裸足の主題論的対立を見事に使い果たし終えて、エンドロールを迎えるのである。*6

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*1:一発は問答無用の顔面直撃、もう一発は走りながらの横殴りボディーブローと、見事な打ち分けを演じている。なお「懐中電灯パンチ」の最初の一撃が「看守役」ロイの顔面に浴びせられる際に、拘束服のクリステンにロイが言ったセリフ「sleep tight sugar」がそのままクリステンからロイへと返されるのだが、こうしたハードボイルドな決め台詞の応酬は、ぜひ日本映画も見習ってほしいものだ。

*2:宇田川幸洋蓮實重彦の両氏がともに、下着姿で登場するアンバー・ハードを裸足だと誤認しているのは、じつに興味深いことだ。靴と裸足の主題論的対立ということからいえば、宇田川氏、蓮實氏のような見巧者が、ブロンド娘の下着姿に目が眩んで(?)、こんな見間違いを犯してしまうとは、精神分析的に何か問題があるのだろうか、それともただの「久米仙人」か。宇田川幸洋「シネマ万華鏡」日経新聞夕刊2011年9月16日号。蓮實重彦「映画時評35」、「群像」2011年11月号、336-338頁、講談社。(蓮實氏は単行本収録時にコッソリ修正済。蓮實重彦『映画時評 2009−2011』、178頁、講談社、2012年)

*3:厳密には裸足ではないが、サンダル履きのサラは、裸足同様の生足を見せていた。彼女の電気ショックによる長めの処刑場面では、サンダル履きの裸足のつま先が痙攣するショットが強調されていた。なお、バニーの持ち主ゾーイだけが、直接的な殺害場面抜きに映画から消えていたが、「癒し系キャラ」のゾーイの惨殺描写を省略したあたりに、カーペンターの円熟ぶりのビミョーさが感じられる。10年前なら斧でメッタ斬りの首チョンパされてたはずだから、これは年を取って丸くなっただけとも言える。

*4:これを「消滅」ではなく、蓮實重彦のように「変身」と呼ぶことも、もちろん可能である。蓮實重彦「映画時評35」同上。

*5:「懐中電灯パンチ」の傷跡が鼻に残る「看守役」ロイが、はにかむような表情でアリスに私物を手渡す場面には涙を禁じ得ない。ロイが修理したブレスレットを、アリスが手首に巻くショットには、それ以前の拘束の主題にまつわる不幸な記憶を一掃するだけの幸福感にあふれている。なお『ザ・ウォード』の唯一最大の欠点は、最後のエピローグに、左利きの看護婦長が出てこないことだろう。もし、彼女がブレスレットをしたアリスの腕に優しく注射をする場面があったなら、嗚咽を堪え切れなかったかもしれない。

*6:以上のような靴と裸足をめぐる主題系をカーペンターが提示するとは、ある意味驚きである。カーペンターがこれほどまでに精緻なテマティックを展開したのは、今回が初めてだと思う。これもやはり10年がかりの成熟の表れということか。