『接吻』(万田邦敏)

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(2の続き)
ノートから手紙へ
テレビモニタに映し出された、警察に逮捕・連行される豊川悦司の笑顔を見た小池栄子は、ハサミ*1で事件の新聞記事を切り抜き、その切抜き(スクラップ)を糊でノートに貼り付け、さらに雑誌から豊川の関連記事をボールペンで書き写すことで、その「左利きのエクリチュール」を始動させる。小池栄子はこうしてノートに事件のスクラップを収集し、そこへ豊川悦司の生い立ちと経歴をすべて書き込もうとする。
万田邦敏が、手紙の執筆場面の撮影にあたって参考にしたという『アデルの恋の物語』(フランソワ・トリュフォー、1975)のイザベル・アジャーニの、筆先に全身全霊をこめた純粋な手紙魔ぶりと比較すると、ハサミと糊とボールペンを器用に使いこなして、一家3人殺人犯のスクラップをノートにまとめる小池栄子とでは、そのエクリチュールのタイプの差は、あまりにも歴然としている*2
はじめにノート*3、次に手紙、そして婚姻届への署名、これが小池栄子の「左利きのエクリチュール」の主題論的な発展段階をなしている。
ところが、である。そのエクリチュールの第1段階であるノートを一通り書き終えた小池栄子は、なかなか豊川に手紙を書こうとしない。豊川の公判を傍聴した帰りに、弁護士・仲村トオルを呼び止めると、小池は「坂口さん(豊川悦司)に差し入れがしたいんです」という予想外の申し入れをして、仲村と観客の両方を驚かすのだ。
差し入れがしたいんです
ノート・手紙・婚姻届への署名、このエクリチュール/文字コミュニケーションの主題論的発展段階に関して、ノートから手紙への移行を構造的に阻害するような要因は特にないはずだから、この段階での小池の豊川への手紙の書き渋りは、じつに不可解なものだ。しかもここで「差し入れ」という、エクリチュール/文字コミュニケーションとは無縁な、なんとも中途半端なコミュニケーション手段が採られるのだから、困惑の念は深まるばかりだ。
まず不審に思うのは、仲村トオルである。被告人への差し入れに、弁護士の仲介は不要なのだから、直接拘置所の窓口に申し込めばいいはずだ。だいいち、差し入れなんかするよりも先に豊川に手紙を書いて送るのが、構造的に正しい順序というものだろう。歯磨きセット、スウェット、みかん、こうしたグッズが差し入れられなくても、小池が豊川に手紙を書き送り、やがて二人が婚姻届に交互に署名することになるのは、もはや時間の問題なのだから。
この差し入れのエピソードは、全編緊密な構成をしている『接吻』のなかでは珍しく、ノート・手紙・婚姻届の署名という、エクリチュール/文字コミュニケーションの主題論的な観点からも、また、小池・豊川の獄中結婚という説話論的な観点からも、構造的に不要で省略可能な細部をなしているかのように思われる。
ラストの「接吻」と並ぶ、この「差し入れがしたいんです」の謎は、豊川悦司の「同志」であり、また「手紙魔」であるはずの小池栄子が、豊川へ直接手紙を書くという、最も小池らしいコミュニケーションをすぐに実施しようとせずに、弁護士・仲村トオルに豊川宛の差し入れの仲介を申し込むという、なんとも回りくどい、間接的なコミュニケーションをわざわざおこなうことによって、その危険な三角関係を開始していることなのだ。
この差し入れによる迂回には、いったいどんな罠が隠されているのか。

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*1:彼女の左利きはこのハサミで一層際立っている。

*2:東京フィルメックス会場で、万田監督に『アデル』と『接吻』とを安易に関連付けて軽薄な質問してしまった者として、ここで反省の弁を述べておきたい。トリュフォーが愛好する古典的な手紙・日記類のエクリチュールと『接吻』の現代的なエクリチュールとでは、何よりも戦略的なタイプが違うのだから、短絡的な混同は慎まなければいけません。

*3:脚本・万田珠美による作品の最初の仮タイトルは『Notebook』である。