『接吻』(万田邦敏)

ネタバレ注意!http://seppun-movie.com/

https://www.youtube.com/watch?v=KMpDB2AdhB8
一般の書店では残念ながら入手困難*1な雑誌「nobody 47」が『接吻』特集を組んでいる。http://www.nobodymag.com/online_shop.html
万田邦敏インタビュー、万田珠美インタビュー、仲村トオル×万田邦敏×万田珠美三者鼎談、廣瀬純・結城秀勇の二氏による論考と、非常に充実した内容になっていて、それぞれを興味深く読ませていただいた。
とりわけ万田監督のインタビューでの豊川悦司の携帯電話左投げ秘話*2と「A Liar's kiss—万田邦敏『接吻』について」と題された廣瀬純氏の論考でのラストの小池栄子が演じる「接吻」の暴力性への指摘は、当ブログでの論考の展開と多少なりとも重複する部分があるので、ここで連載(?)をいったん「2.1」と区切って、後続する論点を先取りして素描しておきたい*3
「接吻」の暴力
主人公3人が一堂に会するラストの接見場面で演じられる、小池栄子による仲村トオルへの「接吻」に何らかの暴力を見出すためには、ここで小池栄子豊川悦司仲村トオルを相手に2種類の殺人を実行し、それぞれ成功していることをまず確認しなくてはならない。控訴犯・豊川悦司の妻・小池栄子は、ここで2種類の殺人を確実に実行しているのだ。
第1の殺人は、控訴犯の夫・豊川悦司のナイフによる殺人であり、第2の殺人は、弁護士・仲村トオルの唇による殺人である。彼女は間違いなくここで2つの殺人を実行している。それもまったく違う凶器を使った、まったく違う種類、まったく違った次元の殺人を実行しているのだ。
第1の殺人については特別な説明は不要だろう。「ハッピーバースデイ」を歌い終え、誕生日を祝福する抱擁の際、小池の右手に隠し持ったナイフが豊川の胸に突き刺さった結果、豊川は呻き声ひとつあげることなく、椅子の上で安らかな死に顔を浮かべることになる。
ここで重要なことは、小池が豊川を強く抱きしめているだけではなく、豊川も小池をしっかり抱き返していることだ。これは新婚夫婦の初めての抱擁であり、抱擁後、豊川は椅子の上で安らかな死に顔を浮かべて絶命する。その寝顔のような表情から、豊川が妻・小池栄子との最初で最後の抱擁を、一種の安楽死として受け入れていたことが読み取れるだろう。
これは決して、小池による一方的な刺殺ではない。少なくともこの抱擁からは、小池が次に仲村に対しておこなう暴力的な接吻がもつ、凶暴な憎悪・殺意が感じられないことに注意しておこう。もしこの小池・豊川の抱擁で映画が終わっていたならば、この場面は一種のカタルシスを伴ったハッピーエンドとなっていたかもしれない。
しかし夫婦の抱擁が終わると、3−1=2と状況は急変し、より凶暴な第2の殺人が実行されるのだ。夫の胸から引き抜いたナイフを両手で振りかざした小池は仲村を床に押し倒す。左手で振り下ろした刃先は間一髪床にあたり、ナイフは使用不能になる。仲村も観客もナイフの動きに注意を奪われた瞬間、小池の唇が仲村の唇に覆いかぶさる。
まるで直前のナイフ攻撃がフェイントであったかのように、仲村の唇に直撃命中する垂直落下式の接吻! ナイフから唇という必殺のコンビネーションによって、小池栄子の唇は、ナイフよりも破壊的な凶器として、まるで一家3人を襲った豊川のハンマーのように、仲村トオルの唇に振り下ろされる。
こうして弁護士・仲村トオルは文字通り唇ごと魂を奪われ、殺害される。接吻後、連行される小池に向かって「ぼくが弁護する!」と叫んでいる仲村トオルは、もはや唇ごと魂を奪われた「弁護士の抜け殻」にすぎない。少なくともネクタイと弁護士バッジを付けたその肉体はもはや「弁護士さん」と呼ばれることもないだろうし、あの淀みない弁護士口調で話すこともできないだろう。
この第2の殺人では、接吻という2人の俳優の肉体が演じる最も具体的なアクションによって「弁護士」という職業が、登場人物の肉体から切断され、抽象的に殺害されるというきわめて異常な事態が生じているのだ。
しかし、なぜ接吻が「弁護士殺し」になるのか。なぜ振り下ろされた唇が、「弁護士」という職業を抽象的に殺害する凶器となるのか。逆の問いを立てれば、接吻によって、唇を奪われることによって殺害される「弁護士」とはいったい何なのか。
その答えはすでに「左利きのエクリチュール」「黙秘パフォーマンス」「弁護士口調」の3項の構造的対立関係によって素描してあるが、ここではさらに弁護士・仲村トオルが全編を通して、文字をまったく書かないだけでなく、飲食物をいっさい口にしていないこと*4、仲村から小池に対する、仕切りなしの接見と控訴の連絡が、今どきのメール(文字メッセージ)ではなく留守番電話の音声メッセージによるものであることを付け加えておこう。
『接吻』において弁護士とは、文字を書くことも、飲食物、タバコ類を口にすることも禁じられたまま、ひたすら淀みない弁護士口調で話すことを義務付けられた、一種の呪われた職業なのである。そして弁護士であるということ以外、経歴不明、年齢不詳、住所不定で、豊川の控訴に異常なまでの執着*5を見せる仲村トオルは二重に呪われた存在だといえるだろう*6
そんな弁護士・仲村トオルを殺すのにふさわしい凶器が、ナイフなどでないことだけは確かだろう。また「弁護士殺し」とはある意味、仲村にとって弁護士という呪われた「職業」からの解放でもある。とにかく、弁護士殺すにゃ刃物は要らぬ、唇奪えばそれでよい、ということだ。事実、仲村トオル小池栄子に唇ごと魂を奪われてしまったのだから。
弁護士・仲村トオル小池栄子の唇によって殺害されただけではない。それと同時に、小池の唇によって仲村は、弁護士という呪われた職業から解放されたのでもあるのだ。
豊川の左手・小池の右手
もう1つのポイント、右利きの豊川悦司の左手だが、それは携帯電話を投げる場面以外でも、思いもよらぬかたちで重要な役割を演じている。
石鹸工場勤務帰りの小池栄子が、豊川悦司と接見する場面を思い出そう(小池は豊川と接見するために拘留所近くの石鹸工場で働き始める)*7
「(石鹸の匂いが)する?」という官能的な台詞とともに、小池栄子は接見室の仕切りのガラスの空気孔の開いた部分に右の掌を押し当てる。豊川はガラスの空気孔に鼻を寄せて、小池の掌の匂いを嗅ぐ。
この接見室のシークエンスは、慣れない工場での立ち仕事に疲れて眠たげな小池が、あくびを右の掌で押さえるのを豊川が見て微笑むところから始まるのだが、この小池のあくびを抑えた右の掌が仕切りのガラスに押し当てられ、その掌の石鹸の匂いを嗅ごうとして、豊川がガラスの空気孔に鼻を近づける(当然唇も近づく)動作は、お互いの唇と唇、さらにはその媒介となる小池の掌と豊川の唇が直接接触してないにもかかわらず、まぎれもなく「接吻」として成立している、まさに奇跡的に美しい場面だ。
だが本当の奇跡が起こるのは、次の瞬間だ。ガラス近くから鼻・唇を離した豊川は、小池の右の掌に自分の左の掌を重ね合わせる。左利きの小池栄子の右の掌と右利きの豊川悦司の左の掌が、左右逆転してガラス越しに重なり、それまで小池にまとわりついてきた「左利きのエクリチュール」の呪いが画面から嘘のように消失する(作業服・マスク姿の小池が石鹸工場のラインで働くドキュメンタリー風の労働場面を直前に見ているぶんだけ、自宅でノートや手紙に文字を書いていた小池の左手のアップの印象は薄くなっている*8
この場面の奇跡的な感動は、左利きの小池栄子があえて右手を差し出すことによって、右利きの豊川悦司の左手を引き出していることから来ている。このガラス越しの左右逆転劇によって、豊川の利き手でないほうの左手、すなわちハンマーによる一家3人殺害=撲殺の凶行を犯していないほうの手を引き出すことに成功しているのだ。しかもそれは、ハンマーを握った緊張状態とは反対の、掌を広げた最もリラックスした状態、武装解除した状態においてである。
『接吻』の映像に手のアップはいくつかあるが、それは何かを握り締めたものかまた手の甲の側のアップであって、掌のアップが出てくるのは、ここだけであることに注意しよう。
小池の利き手である左手もまた、ボールペンやハサミといった武器(凶器)を握りしめ、過度の緊張状態・武装状態にあったことを思い出そう。その小池が右の掌であくびを押さええ、ガラス越しの間接キスと左右逆転の手合わせを演じたあと、豊川が仕切りの向こう側から見守る前で居眠りし、その安らかな寝顔を見て豊川が微笑む。全編を通して最も抒情的な音楽が優しく静かに響き続ける。
左利きの小池栄子の右の掌と右利きの豊川悦司の左の掌が、左右逆転してガラス越しに重なった瞬間、少なくともその瞬間だけ『接吻』は奇跡的な幸福感に満ちあふれた恋愛映画となっている。
そして忘れてならないのは、この小池の安らかな寝顔を、豊川が最後の小池との抱擁後に模倣反復することによって1つの「夫婦愛」のかたちを完成させている、ということだろう。

nobody 27

nobody 27

接吻 デラックス版 [DVD]

接吻 デラックス版 [DVD]

カフカ―マイナー文学のために (叢書・ウニベルシタス)

カフカ―マイナー文学のために (叢書・ウニベルシタス)

*1:東京近辺の方は、アテネフランセ文化センターでペドロ・コスタ特集のついでに、または日仏学院ジャック・リヴェット特集のついでに購入することをお勧めします。『接吻』特集+ジャック・リヴェット特集+ジム・オルーク小特集(?)という盛りだくさんの内容に、千円札1枚でお釣りが来るという超良心的な価格設定ですから、今号に限って、買って絶対損しません。

*2:万田 あそこは『ダーティハリー』(71、ドン・シーゲル)のラストの警官バッジ投げなんですよ。…中略…あそこはイーストウッドが左で投げたいと監督に言ったらしいんです。…中略…それで、「ああそうか、左でやるのがかっこいいのか」と思いましてね。その発見からあそこで携帯を左で投げさせた、それだけのことなんですけどね。こういうことはもうやめたいんですけどね(笑)。…後略… 万田監督、そういうことはまだやめないでください!

*3:1,2,3…などと小分けの連載にせずにさっさと全部書き上げてしまえばそれで済む話なのだが、『接吻』の強固に絡まった三角関係/3項関係が安易な2項関係への分解、2項分析の適用を受け付けてくれないので、非常に苦労しています。廣瀬氏の論考は直感的な正確さと力強さとを兼ね備えているが、こうした3項関係の構造的複雑性を一挙に超越しているために、論理的な整合性に関して「いたるところに穴が穿たれて」いるように思う。それにしてもドゥルージアンの書く文章はアナーキーでカッコイイ。

*4:小池栄子は残業のオフィスでコーヒーを啜っているし、拘置所内の豊川悦司の食器は完食した形跡があり、篠田三郎はためらいがちにコップの水を口につける。また小池・豊川の結婚は、差し入れのみかんが食べられたことの当然の結果である。弁護士・仲村トオルだけが飲まず食わず吸わずのまま、自分については語ることなく、例の弁護士口調で被告人の権利を代弁し続ける。また服装に関しても、仲村は全編を通じて「いかにも弁護士風」のスーツ姿(+コート姿)のネクタイを緩めることはない。何でもオシャレに着こなす豊川の「いかにも囚人風」のラフなシャツ姿や、地味な範囲のなかで繊細にドレスアップする小池の「いかにも恋する女風」の衣装チェンジ、同じワイシャツにネクタイでも篠田三郎の「いかにも工場長風」のジャンパー姿のリラックスした着こなしと比べると、仲村の職業的緊張に絶えず首元を縛られた高級スーツ姿は、孤独なまでに対照的だ。なお、小池栄子の地味かつ繊細なドレスアップを中心とした、衣装・高橋さやかの仕事は賞賛に値する。

*5:仲村が控訴を渋る豊川に切ってみせる啖呵「それが私の職務だからです!」には異様な感動を覚えずにはいられない。

*6:弁護士・仲村トオルが「掟の番人」であるかどうかは非常に疑わしい。『接吻』において、掟=法はすべて小池栄子の書棚に並べられた法律書のなかに書き込まれているのではないだろうか。

*7:石鹸の匂いのする接見…こういうダジャレは『夫婦刑事』シリーズで使ってください。

*8:こういう場面にも「労働の主題」を見るべきではないだろうか。立ち仕事/座り仕事の対立、等々。