『ヒーローショー』

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監督生活35年目の新作『ヒーローショー』に臨んだ井筒和幸の新たな試みは、東京のヒーローショーのアトラクションの最中に起きた乱闘騒ぎに端を発した暴力の連鎖のドラマを、勝浦市を中心とする千葉県外房沿岸を車で彷徨するロードムービーとしてまとめてしまおうというものだ。そのために、関西出身の若手お笑いコンビ「ジャルジャル」のふたりを主演に据えながら、かっての『ガキ帝国』(1981)や『岸和田少年愚連隊』(1996)のような、関西地方を舞台に関西弁のセリフの生き生きとした応酬が物語の進行を活気付けるというスタイルを全面的に捨て、携帯電話を通したチグハグなコミュニケーションと車による移動が事態を思わぬ方向へ逸脱させていくという進行形態をとっている。*1
お笑い養成所に籍を置くフリーター・鈴木ユウキ(福徳秀介)は、漫才コンビ「フジヤマボーイズ」の元相方の剛志(桜木涼介)に誘われ、「電流戦士ギガチェンジャーショー」のバイトの面接を受け、戦闘員兼運転手として雇われる。ユウキはさっそくショーの衣装・道具一式を積んだワンボックスタイプのバンの鍵を預けられる。このとき「キー」と奇声を上げて車のキーを受け取るユウキの寒いギャグが、ロードムービーとしての『ヒーローショー』の始まりを告げる合図となっている。
 
(以下ネタバレ含む)
 
 
バンの管理と運転をまかされたユウキは、剛志から「アニメの声優学校でオトコをダマす勉強してる」美由紀(石井あみ)を「オレの彼女」として紹介される。その美由紀は俳優志望のノボル(松永隼)との仲が怪しい。バイト仲間でノボルと同じ大学生のツトム(米原幸佑)はゲームにばかり熱中している。翌日、ノボルと美由紀の浮気に腹を立てた剛志は、アトラクションの最中に、ノボルと大乱闘を起こしてしまう。ツトムの加勢を受けたノボルに裂傷を負わされた剛志は、極道ヤンキーのサーフショップ店員・鬼丸(阿部亮平)に報復の相談をもちかける。*2
剛志と鬼丸と鬼丸・弟(ミルククラウン)は、ノボルとツトムの大学に乗り込み、ふたりに計60万円の慰謝料を払うよう恐喝する。剛志に「フジヤマボーイズ」再結成をエサに同行を誘われたユウキは、元相方の暴力沙汰に否応なく巻き込まれていく。*3
鬼丸たちに恐喝されたふたりは、ツトムの兄・拓也(林剛史)が経営する出会い系サイトの事務所に相談に訪れる。勝浦市の市会議員を父にもつ拓也は、地元勝浦で配管工をしている、元自衛隊レンジャー部隊の同僚で「最強」の友人・石川勇気(後藤淳平)を携帯で呼び出す。青い海が背景に広がる配管工事現場で携帯電話を受けた勇気は、鬼丸たちを勝浦に呼び出して「ブッ殺す」相談を嬉しそうに始める。
この携帯の会話で、慰謝料の金額が60万円から100万円に意味もなく膨らむのは、拓也のいい加減さを表しているというより、携帯電話によるコミュニケーションそのもののいい加減さ、チグハグさを表しているというべきだろう。携帯電話によるコミュニケーションのいい加減さは、ユウキのバイト先のバナナ食品工場の責任者・光石研からユウキの携帯への呼び出しの場面で、すでにじゅうぶん描かれていた。
バイトを無断欠勤していたユウキは、東中野のアパートで電話を受けながら、母親が死んで山梨に帰っていると答え、自らクビを宣言する。住宅展示場でのヒーローショーの場面でも、山梨の母親からの携帯電話に対して、ユウキは遊園地のお笑い営業に来ていると、デタラメな返事で答える。携帯電話は、東京、山梨、勝浦にいる個人をダイレクトにつなぎながら、その話の内容も居場所も、すべてをヴァーチャルでいい加減なものにしてしまうのだ。*4
ロードムービー用の車としては、鈴木ユウキが鍵を預けられた、ワンボックスタイプのバンが、すでに一台用意されていた。ユウキが運転するこのバンが、剛志と鬼丸、そして人質のノボルを載せて勝浦市に向かうことで、外房沿岸ロードムービーとしての『ヒーローショー』は本格的な段階へと入っていくのだが、その前に石川勇気が運転する乗用車と、もう1つの鍵の存在について確認しておこう。
勇気が運転する車は、袖ヶ浦ナンバーのごく普通の乗用車である。しかし、ロードムービーで重要なのは車種よりも、その車が誰を乗せるか、そしてどこへ乗せていくかということだ。母親(結城しのぶ)が自分と同年代の友人・星野(永田彬)と半同棲している実家での生活から脱出しようとしている勇気は、バツイチの彼女あさみ(ちすん)を、勤務先のコンビニの短い休憩時間に夜のドライブに誘い出すと、海沿いの道を通って一軒の賃貸アパートにたどり着く。
自衛隊炊事班仕込みの料理の腕で調理師免許を取って、あさみと一緒に石垣島にレストランを開く夢を持っている勇気は、彼女への愛の証しとして、アパートの部屋の鍵を彼女に手渡して、激しく抱き合う。しかし、次の瞬間、あさみの携帯が鳴ると、彼女の前夫の死亡事故を知らせるメールが入る。そのとき初めてあさみは勇気に、自分には6歳になる息子がいて、その子を鴨川の前夫の実家に、接見禁止のまま預けていることを告白する。気まずい雰囲気のなか、前夫の葬儀に出席するあさみは、渡されたばかりのアパートの鍵を勇気に返す。
この短い夜のドライブの場面だけで、勇気の運転する乗用車が、恋人のあさみという特別な女性を乗せるための車であることがわかるばかりか、やがては彼女の幼い息子を乗せるために鴨川にまで向かうであろうことも予感させて、それがユウキが運転するバン以上に、ロードムービーにおいて特権的な車となるであろうことを強く確信させるのだ。
ロードムービーにおいては、車に乗っている時間とともに、車から降りた時間をどこでどう過ごすかも、重要なポイントとなる。車から降りた勇気とあさみが、ふたりきりで過ごす場所である、海沿いの道路わきのアパートは、まさにそのポイントとなる場所である。窓の外に海が見え、波の音が響くアパートのロケーションは、海から離れた勇気の母親の住む家との距離感においても絶妙である。勇気からあさみに渡そうとして渡せなかったアパートの鍵は、ユウキが預けられたバンの鍵とともに、沿岸ロードムービーとしての『ヒーローショー』作品全体の鍵となっているのだ。
翌日、東京から勝浦に向かう鬼丸軍団のバンを待ち受けて、勝浦の埠頭に拓也とツトムの兄弟の赤いスポーツカー、トランクに武器類を積んだ勇気の乗用車、そして彼女と二人乗りで現れた勇気の弟分のヒロトのオートバイが集合する場面では、ジャージ姿の勇気と拓也が「やっぱ勝浦はジャージだよな」と抱き合って、あらためて『ヒーローショー』が勝浦沿岸ロードムービーであることを印象づけている。
明るい沿岸ロードムービーとは反対に、陰惨な夜の暴力映画でもある『ヒーローショー』は、海辺の道路の対極項として、夜の山中のショベルカーによる生き埋め場面を用意している。勝浦グループによる、鬼丸と剛志に対する凄惨なリンチが、海岸から離れたトンネル脇の夜の山道で繰り広げられ、瀕死の剛志が生き埋めにされるのも、山中の工事現場であることに注意しよう。
全員が車から降りての夜の山道でのリンチでは、ロードムービーとしての運動は停止し、全員が非日常的な暴力に過度に没入しすぎたために、決定的な過失を犯してしまう。意識不明に陥った鬼丸と剛志が助からないと考えた拓也は、犯罪そのものを隠蔽すべく「裏ハローワーク」でショベルカーの運転手を緊急募集し、瀕死のふたりの「死体」を土の中へ生き埋めにしようと画策する。
しかし、ふたりの「死体」をショベルカーのある工事現場に移動中、鬼丸はバンから脱走し、剛志ひとりを生き埋めにする破目になる。鬼丸が脱走した時点で、隠蔽工作は半分無意味になっているはずなのだが、たとえひとつの「死体」でも埋めないわけにはいかない。
ギガチェンジャー・レッドのコスチュームのまま、バンの運転手として無理やり同行させられたユウキは、元相方の剛志を穴の中に蹴落とすよう強制される。そのショベルカーによって剛志の「死体」が生き埋めにされる工事現場が、海から離れた山中にあるのはいうまでもない。ショベルカーによる剛志の生き埋め場面の悲痛さは、それが海から離れた夜の山中で行われていることからきている。*5
夜が明けて、ようやく全員が冷静さを取り戻すが、過失は取り返しがつかない。ショベルカーの運転手に請求された追加料金30万円の工面と、ふたりの「死体」を運んだバンの始末をすぐにしなければならない。まず、30万円を工面するために、勇気はユウキを市内の消費者金融会社に連れて行き、勇気の連れのヒロトは、バンを知り合いの解体業者に運ぶため別行動をとる。映画はロードムービーとしての活気を再び取り戻し始める。
30万円の工面は、消費者会社の窓口でユウキがお笑いネタを披露している最中、元相方を見殺しにした罪悪感から錯乱・逃走したために失敗する。この消費者金融の窓口審査の場面では、ユウキが語る山梨の実家のタイヤキ屋のローカルな事情を通して、外房沿岸の勝浦とは対照的な、内陸部の出身の「人間のクズ」ユウキの姿が浮かびあがってくる。
親元の市議会議員の家に戻った拓也が30万円を立て替えることになり、勇気はユウキの「後始末」をまかされる。しかし、その「後始末」に乗り気ではない勇気は、海岸に車を止めて思案に暮れる。この車を海岸に停めたロングショットがまた素晴らしいのだが、そこへあさみから涙声の電話が携帯に入り、車は鴨川の葬式会場へ一気に移動する。
喪服姿に真珠のネックレスを着けたあさみのストッキングは破れ、別れた息子には会わせてもらえなかったらしい。ふたりの事情を察したユウキが自分にまかせろと提案し、ギガレンジャー・レッドのコスチュームで、葬式の会場から息子の健太(巨勢竜也)をうまく誘い出す。こうして不思議な「親子4人連れ」が鴨川シーワールドに登場する。久しぶりのママと、ジャージにランニングシャツのママの恋人と「レッドのお兄ちゃん」とシャチのショーを見物できて、幼い健太は大喜びである。
勝浦から鴨川へ、ユウキとあさみは初対面、勇気と健太も初対面という4人組が道連れになって、一台の車に成り行き任せに同乗する、これこそ外房沿岸ロードムービーの醍醐味というものだ。どうしてレッドがいるの、という健太の素朴な質問に、拉致同然に連れてこられているユウキは急に落ち込むが、健太を葬式から無断で連れ出した行為も、一種の連れ去りに当たることはいうまでもない。
健太と一緒に買い物に行った隙に、ユウキはツアーバスにまぎれて東京への脱出を図る。迷子の預かり場で、勇気が健太に「レッドのお兄ちゃん」の行方を問いただすと、あさみさんと石垣島でお幸せに、という伝言を幼い口から聞かされる。ユウキの脱走計画は出発直前、ツアーバスから追い出されて失敗し、再び4人で勇気の車に同乗することになる。
迷子と脱走劇に続くトラブルは、路上での警官の検問で、シートベルトの不着用を見咎められた勇気の車は、警官に誘導される(助手席のあさみもお揃いでシートベルトをしていないというのが、ふたりの普段の運転マナーを表していてよろしい)。
まず真珠のネックレスをはずそうとして、うまくはずすことができず、後部座席の健太に、お願いだから黙っててと頼む、あさみの怯えた態度が緊迫感を高める。子供の連れ去りの連絡を受けているらしい警官の尋問態度は、シートベルトの違反への注意、エンジン停止、運転免許証の提示、とあくまでも事務的、形式的なものだ。車内の4人の関係についての質問も、ていねいな口調で、少しも高圧的でないのだが、勇気は答えにつまってしまう。
そのとき、後部座席のユウキが、レッドのヘルメットを被り、勇気はヒーローショーの助手で、自分は嫁と息子と危篤の母親に会うため病院へ急いでいるんだと叫ぶと、運転席の勇気に向かって、早く降りて早く(違反キップを)切ってもらえ、早くしないと母ちゃんが死んじゃうんだよ、と、泣き叫び続けることによって、シートベルト違反だけで、検問を通過するのに成功するのだ。ここで勇気の窮地を救ったユウキのパフォーマンスこそ、タイトルの『ヒーローショー』にふさわしいものだ。
この検問の場面は演出、演技のすべてがかみ合っていて、本当に素晴らしい。レッドのヘルメットをかぶって泣き叫ぶ福徳秀介、それまでの強面がウソのように(普段のコントのボケ役のように*6)、警官に対してひたすら恐縮する後藤淳平、怯えと驚きの混じった表情で事の推移をじっと見守るちすん、絶妙なタイミングで「急いでくださあい」と警官に叫ぶ巨勢竜也、演技陣のアンサンブルが、ここに来て最高点に達している。
「母ちゃんが死んじゃうよ」というユウキのセリフは、バナナ工場を無断欠勤した際の「母親が死んだ」という携帯電話でのウソトークを反復・変奏しているのだが、前回は携帯電話での無断欠勤の虚偽の言い訳だった母親の死が、今回は警官を前にしての虚偽の緊急通過理由として、勇気ひとりだけでなく、数年ぶりに再会した母と息子を同時に救っている点が、またなんとも素晴らしい。*7
検問する側の警官の態度を、完全に事務的なものとして描いていることも、この場面の素晴らしさを増幅させている。ここに出てくる警官は、権力のイヌでもなければ人情家でもない、ただの実務担当者である。
淡々と職務を遂行する警官の検問だからこそ、検問を受ける側のちょっとした怯えや逆上といったリアクションを前面に出すだけで、より高度な緊迫感が画面にあふれ出ているこの場面は、ロードムービー的な路上でのトラブルと、偽装による検問突破のサスペンスとが見事に融合した例として、日本映画史に記憶されるべきものとなるだろう。また、ここで真の「ヒーロー」として、勇気とあさみと健太の「親子3人」の窮地を救ったユウキは、自分自身の窮地も救うことになり、東中野のアパートへの帰還を許されることとなる。*8
健太を鴨川の前夫の実家に送り届けたあと、勇気とあさみは勝浦のアパートに戻るのだが、勇気の車とロードムービーの両輪を成す、バンの行方を映画はこのタイミングで提示する。一度は友人の解体工場にバンを運んだ勇気の舎弟のヒロトは、ギガレンジャー・ブルーの衣装を着ると、友人にはイエローの衣装を着せて、バンに乗って海水浴場脇の道路へ繰り出す。
そこで遊説中の市長候補(枡毅)の選挙カーに並走し、ピース100円にしろと、怒鳴りながらロケット花火を打ち込むが、交差点で前方を横切る乗用車の側面に正面衝突し、ブルーもイエローも運転席から路上に放り投げ出される。
この衝突事故場面の映像は、バンが乗用車の側面にぶつかる瞬間をごまかしなしで撮っていて、ブルーとイエローが路上に投げ出されるアクションも危険なため、路上に倒れたブルーのヘルメットの中からしたたる血が、とても生々しいものに見えてくる。
この衝突映像の一瞬の破壊力に比べれば、延々と続くリンチ場面や、ショベルカーでの生き埋め場面の迫力など児戯に等しいものだ。この目的も動機も自己防衛本能もない、一瞬のクラッシュこそ、ロードムービーにふさわしい暴力である。このロードムービー的暴力である事故のニュースは、テレビ番組で報道され、山中での暴力犯罪とその隠蔽工作を露呈の危機にさらすものとして、拓也とツトムの兄弟を怯えさせる。
 だが、この事故場面で本当に重要なのは、その生々しい暴力性ではない。このバンの衝突場面がフェードアウト・フェードインで、勇気とあさみのアパートの場面につながっていることが映画的に最も重要なポイントなのだ。これほど素晴らしいフェードアウト・フェードインは、最近の日本映画ではあまり記憶にないものだ。
しかも、このフェードアウト・フェードインの素晴らしさは、その技術的な達成だけから来るものではない。このフェードアウト・フェードインによる場面転換が、バンの車の鍵とアパートの鍵という2本の鍵の主題論的な対応関係が『ヒーローショー』という湾岸ロードムービーの鍵となっていることを、あらためて告げているからこそ、それは素晴らしいといえるのだ。
波の音が聞こえる、薄暗いアパートの部屋で、勇気はあさみに自分の犯罪行為を告白し、3人一緒にはすぐに暮らせないと告げる。バンの事故の場面とアパートの勇気の告白場面をフェードアウト・フェードインでつなぐことは、バンとアパートの2本の鍵の主題論的な対応関係を示すことであり、また事故による犯罪の露呈と勇気の罪の告白との説話論的な連動性を示すものでもある。
このような主題と説話と視覚技法に関する形式的洗練の同時達成を、井筒和幸のような「頓着しない人」がやってのける奇跡的な瞬間がごく稀にあるから、映画は怖ろしいのだ。
テレビのニュースで事故を知った拓也からの携帯で、勇気は呼び出される。拓也と勇気が落ち合う夜の海辺のテラスは、波の音の響きで、勇気のアパートとひとつながりに続いているかのように抽象化されている。アパートの外で携帯を受けた勇気は、まるでアパートからこのテラスまで歩いて来たかのように現れる。二つの場所が、夜の海と波の音でつながっているかのような演出も、まるで井筒和幸らしからぬものだ。
犯罪の発覚を恐れる拓也は、勇気に山中の剛志の「死体」を掘り起こして焼き捨てること、東京に帰したユウキの後始末を改めて依頼すると、パニックで泣き崩れる。山中に埋めた剛志の「死体」と東中野のアパートに帰したユウキ。沿岸ロードムービーにとっての、この2つの異物に対して、勇気はあらためて決着をつけなければならない。
山中にひとり生き埋めにされた剛志の「死体」は、静岡・山梨出身の「フジヤマボーイズ」の片割れであるユウキにとっても、放って置くわけにはいかないものだ。
東中野のユウキのアパートの部屋に勇気はとつぜん現れると、レッドの衣装をユウキに渡し、ドライブに付き合え、と誘い出す。行き先はもちろん、剛志の「死体」を埋めた山中の工事現場だ。勇気はタバコに火を点け、地面に線香のように立てる。事件の夜と同様にレッドのコスチュームを着たユウキは、夜の闇のなかで地面に座り込むと、怒号する勇気に殴り殺される幻覚/フラッシュフォワードに襲われて、錯乱状態に陥る。*9
自分には生きる資格はない、山梨でタイヤキとタコヤキを売っている母ちゃんに、入学金出してもらって、お笑いの養成所入ったけれども、やりたいことなんか何にもない。そう泣き喚くと、同じ養成所の先輩だった剛志が埋まっている穴の上にすべり落ちて、自分自身を埋葬しようとするかのように、自分のからだに土をかける。
土まみれのユウキを残して、夜の山中の場面はここで終わる。画面がディゾルブで朝の勝浦市の俯瞰ショットに変わると、車を走らせる勇気のショットがまたディゾルブで続く。勇気の車は実家の近くの道に立ち寄ると、路上で抱き合う勇気の母親と若い恋人の星野の姿をロングショットで確認する。
海沿いの道路を通って、アパートの部屋に立ち寄ると、連絡して、とあさみの伝言メモがある。勇気がその紙に「シアワセニナ」と書いたところへ、複数の足音が響き、開いたドアの向こうに、包帯姿で不気味に笑う鬼丸と鬼丸・弟が現れる。そのすぐ後に、アパートを訪ねてきたあさみは、血まみれで部屋のドアの前に倒れた勇気を見つけると、その場で気を失って崩れ落ちる。
勇気とあさみの勝浦での映像はここで終わるが、もう一方のユウキの行方は、じつにあいまいで微妙なものだ。
レッドのコスチュームのユウキは、電車の座席に座り、後ろの窓の光に溶け込むように寄りかかる短いショットがディゾルブで示される。場面はすでに山梨に移ったらしく、駐車場の一画にあるタイヤキを売っている屋台に、レッドのコスチュームのユウキが、横からただいま、と入っていく。母と父は、お帰りともいわず、ユウキを無視して仕事を続けようとする。ユウキは父からタイヤキの道具を取り上げると、自分に店をまかせて食事に行くよう、両親に勧める。母と父はユウキの勧めで仕方なく、といった感じで屋台から出て行き、その場から遠ざかっていく。
ここで山梨の実家に帰郷を果たしたユウキが、果たして本当に生きて帰ってきたのかどうか。映画は何も保証しない。昨夜の幻覚/フラッシュフォワードのなかで勇気に殴り殺され、また自らを剛志と同じ土の中へ埋葬しようとしたユウキが、どうやって山梨の実家にたどり着いたのかは、その具体的な描写はいっさい存在しないからだ。
確かに電車の座席に座り込んだユウキのショットはあった。しかし、それはディゾルブで編集され、最後は窓の外の逆光に溶け込むという、まるで白昼夢か幽霊のような映像でしかなかった。*10
バンと乗用車による沿岸ロードムービーという、具体的な交通機関に支えられた移動を描き続けた作品の最後で、このようなあいまいなかたちでの生還が、映画的に許されていいはずはないだろう。
もう一方の勇気は、暴力の応酬の論理と沿岸ロードムービーの帰結にふさわしく、勝浦の海辺のアパートで、生死不明のまま倒れて、その映画的存在を全うした。またその横では、パートナーのあさみも一緒に倒れこむことで、ふたりは心中のイメージを形成することに成功したともいえるだろう。
そう考えていくと、富士山の見えるこの屋台に、レッドのコスチュームで現れたユウキもまた生死不明の幽霊でないという保証はどこにもない。じっさい、タイヤキを買いに来た高校生らしい客に混じって、「フジヤマボーイズ」の相方だった剛志の幽霊も一瞬姿を映すと、ユウキを指差して笑っていたではないか。
富士山の見えるこの屋台こそ、幽霊となった「フジヤマボーイズ」再結成に最もふさわしい場所というべきだろう。
東京から勝浦・鴨川と、外房沿岸ロードムービーを描いてきた果てに、富士山の見える山梨にたどり着いた井筒和幸は、監督生活35年目にして、生と死の境界線もいつの間にか越えてしまったようだ。
IN MEMORY OF 加藤和彦 と言う文字が、エンディングクレジットの最後に掲げられているが、この生死の境を越えた沿岸ロードムービーは、期せずして見事なデニス・ホッパー追悼作品になっていることを最後に指摘しておきたい。*11

*1:『ヒーローショー』と、関西を舞台にして井筒和幸が撮ってきた従来の不良映画とのタイプの違いについては、以下の解説が的確で参考になる。http://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/20100603。またジャルジャルの二人は、セリフが関西弁ではないために、『岸和田少年愚連隊』のナインティナインの二人と比較すると、より難度の高い演技を強いられていると思う。

*2:沿岸ロードムービー『ヒーロショー』において、鬼丸がただのヤクザではなく、サーフショップ店員であるという設定は無償のものではない。鬼丸が山中に埋められず、最後に海辺のアパートで勇気を返り討ちにすることと、サーフショップ店員という設定は無縁なものではない。

*3:「フジヤマボーイズ」という名前は、ともに富士山が見える静岡県出身の剛志と山梨県出身のユウキの二人がコンビを組んだことに由来する。

*4:『ヒーローショー』の携帯電話というコミュニケーション・ツールの描き方は非常にシニカルで、独特なものがある。東中野のアパートの福徳秀介とバナナ工場の光石研の携帯電話の会話のカットバックは、パソコン画面の妹ゲームと福徳秀介の会話のカットバックに受け継がれる。バンで移動中の阿部亮平を、チワワの仮病で激高させる林剛史の携帯電話での演技は「(日本)アカデミー賞もの」で「堤真一よりウマイ」と自画自賛されるウサンクサイものだが、その一方でこの場面は、携帯電話が現代のロードムービーにとって欠かせないコミュニケーション・ツールであることも印象づけている。だがしかし、携帯電話に関して最も注目すべき細部は、夜の山道でのリンチの最中に、林剛史が3人の携帯電話機を夜空に向かって投げ捨てる場面だろう。林剛史は拉致したバンの3人の携帯電話機を1台づつ夜空に向かって3連投するのだが、そのピッチングフォームが右投げではなく左投げであることが、この場面を一気に『接吻』(万田邦敏、2008)の一家三人殺害犯・豊川悦司が携帯電話を投げ捨てる場面に近づける。『ダーティーハリー』(ドン・シーゲル、1971)のラストでクリント・イーストウッドが左手で警察バッジを投げ捨てたのに倣って、右利きの豊川悦司にあえて左手で携帯電話を投げ捨てさせたのが『接吻』の万田邦敏の倒錯性だったが、井筒和幸がその倒錯性を3倍に増幅させて反復しているかのような錯覚を抱かせるのが、この夜空の携帯電話左投げの場面なのである。金属バットを構えるバッティングフォームや、ファミレスでのフォークの持ち方から、林剛史がもともと右利きではなくサウスポーであるらしいことがわかって、その錯覚はとりあえず解消する。しかし、この携帯電話左投げ3連発や、左打席で金属バットを構えるフォームから浮かび上がってくる拓也というキャラクターの独特のねじれ方は、サウスポー林剛史のキャスティングによるところが大きい。『接吻』の豊川悦司の携帯電話左投げ、サウスポー小池栄子の圧倒的な存在感とあわせて考えてみると、21世紀の日本映画における暴力と携帯電話とサウスポー(左投げ/左利き)との強固な関連性については、あらためて考察する必要があるだろう。なお、これはまったくの余談になるが、自信過剰なお調子者の拓也を好演する林剛史の容貌と声の調子から、かって試合中に、一塁ベース上で相手チームの選手に来季の予定を訊かれて「Movie Star」と答えた、日本人元大リーガーをどうしても連想してしまう。ちなみに「ファイナル・アンサー?」という拓也のセリフは、かって「クイズ・ミリオネア」で1千万円の最高賞金をゲットした元大リーガー兼ベストドレッサーへのオマージュに違いあるまい。 www.youtube.com

*5:「サメの餌にするぞ」という勇気のセリフはあるが、実際の「死体」の処理にあたっては、山に埋めるという案に対して海に捨てるという提案はまったく出てこない。バンの処理も「海に沈めるか」という勇気の提案は一蹴される。暴力犯罪とその事後処理に関する場面は、沿岸ロードムービーの明るい映像とは明らかに切り離されたブロックをなしている。

*6:http://www.dailymotion.com/video/x5zigj__funhttp://www.dailymotion.com/video/x8pnsc_yyyyyy-yyy_fun#.UOiDcHfUzjs

*7:虚言とはいえ、2度も母親の死/危篤が口にされる『ヒーローショー』には、息子の母親に対する嫌悪感以上のものを窺がうことができるだろう。息子の友人と恋愛関係にある勇気の母親、蒸発して借金を作って戻ってきた夫と再び結婚生活を送るユウキの母親、俳優志望の息子の友人に「イケメンね」と色目を使う、拓也とツトムの母親。いずれの母親に対して息子が抱く嫌悪感からも、潜在的な母殺しの欲望のようなものを読み取ることが可能だろう。

*8:勇気がユウキを検問の直後に解放する理由は、恋人のあさみとその息子の健太と接するユウキに情が移ったから、というものでは断じてない。検問の時点で、ユウキは警官に事情を訴えて「人殺し」の拉致・監禁から解放してもらうこともできたのに、ユウキはそれをしなかった。検問でのユウキの必死の演技は、あさみと健太の母子を守っただけではない。すでに「人殺し」に成り下がった勇気の体面を、恋人とその息子の前で傷つけることなく守り通したのである。ユウキはまた、そうすることで自分が「人間のクズ」でないことを、勇気に対して証明してみせたのである。勇気がユウキを解放したのは、その恩義に応えるためであり、またユウキが決して事件を警察に通報しないという確信、信頼を得たためでもある。解放時にユウキを見送る勇気の表情に、感謝の念が表れているのはそのためである。勇気とユウキはこの時点で、強い信頼で結ばれた共犯関係にある。だからこそ勇気は、拓也にユウキの解放を「脳ミソねえんじゃねえか」と咎められたとき、拳を振りかざして、強い怒りを示したのである。検問通過の場面で、警官を前にして無力な勇気にとって「最強」なのはユウキだったのだから。

*9:この幻覚/フラッシュフォワードによる錯乱の描写は、いかにも井筒和幸らしい(?)ベタでコテコテなもので、妙に安心させてくれる。

*10:ユウキがいったんは解放されて、東中野のアパートに戻るときも、電車に乗る具体的な描写はなかったが、このときは、西大原駅のバス停で勇気たちに見送られて別れを告げるショットと、その後の夜の東中野の駅からアパートに戻る描写があるので、西大原駅から東中野駅までの電車移動の描写は、昼から夜への時間経過も含めて、省略されたものとみるべきだろう。

*11:加藤和彦の思い出に捧げているはずの映画のエンディングテーマとして、『SOS』(唄・ピンクレディー、作詞・阿久悠、作曲・都倉俊一)をラジオから流して、それを『パッチギ』(2004)での『イムジン河』のラジオ放送よりもはるかに感動的に響かせるあたりは、井筒和幸がやはり「頓着しない人」である証拠なのだろう。www.youtube.com