『ペコロスの母に会いに行く』
http://hadasi.jp/
http://homepage3.nifty.com/~hispider/eihyo/morisaki.htm
http://culture.loadshow.jp/special/azuma-morisaki_kobe/
長崎を舞台にした森崎東の新作。それだけで映画ファンにとってはたまらない作品であるし、また岡野雄一のマンガを原作とした認知症の母とバツイチ・ハゲの息子との交流の描写は、不特定多数の観客の共感を呼ぶものだろう(渋谷の映画館では、周囲の観客の笑い声が最後にはすすり泣きに変わるという、稀有な体験をした)。
舞台は長崎。赤木春恵が演じる認知症の母みつえ、岩松了が演じるバツイチ・ハゲ・ミュージシャン・マンガ家・サラリーマン(すぐ退社)の「ペコロス」岡野ゆういち、孫のまさき(大和田健介)の三人暮らしの日常描写から、グループホームへの入居がいちおう映画の前半部と言えるのだが、その構成・編集はあらためて記述しようとするとじつに複雑きわまりない。*1
(以下、ネタバレ含む)
冒頭、原作マンガの絵柄によるアニメーションに、岩松了のナレーションで人物紹介がなされ、赤木春恵の「ボケ」エピソードとミュージシャン兼営業マンのサボリエピソードが交錯しながら描かれていくのだが、まず「昭和18年天草」という字幕が示され、教会の礼拝堂で宇崎竜童指揮の女性コーラスが「早春賦」を歌うのを、窓の外から幼い少女ふたりがつま先立ちで覗く場面が示されフェイドアウトする。*2
こうして天草の少女時代の幼馴染「ちえちゃん」、病弱な妹たつえとの記憶が断片的に挿入され、天草から長崎市内に嫁入りした女性の戦中・戦後体験が、歌声を軸として自在に語られていくさまは見事というしかない。*3
上野昂志がプログラムで書いているように、ここには<岡野雄一の実体験に裏打ちされた、認知症の母と息子のつながりを詩情豊かに綴ったマンガが物語の主線を成すが、そこには長崎という土地で戦中から戦後を生きた女の歴史もまた描きこまれているのである。>*4,*5
とりわけグループホーム入居後、赤木春恵に会いに来た妹二人に、幼くして死んだ妹たつえの記憶を確かめるとき、たつえは「ピカドン」で死んだのかと聞く赤木に、畑仕事を休むのを仮病のサボリだと責めていた妹が戦後すぐ病死してしまい、本当にからだが悪かったのに仮病だと思っていたのは申し訳ないことしたと姉妹でさめざめ泣いて抱き合う場面での手毬歌とスローモーションのフラッシュバックを使った過去・現在の往還編集の切れ味はすさまじい。*6
「いちれつらんぱんはれつして日露戦争はじまった」という少女が歌う手毬歌が響き、天草の家の庭で足をあげて毬をつく幼い妹の映像がスローモーションで挿入されるフラッシュバックは、その選曲も含めて痛切きわまりない。
日露戦争を題材にした手毬歌「いちれつらんぱん」によって甦る妹の記憶映像が歌声とともにスローモーションで拡大され、赤木春恵は妹の死を確認し号泣するのだが、この感動的な場面の直後に、妹二人も半分「ボケ」が来ているというオチをつけて笑いを取るのを忘れない演出・編集は冴えに冴えまくっていて「ボケ」とは程遠いものだ。しかもこの毬つきのスローモーションは、赤木春恵が岩松了のハゲ頭を撫でて叩く動作と、原田知世演じる幼馴染「ちえちゃん」との再会場面のスローモーションへと二重に反復変奏されていくのだから、その構成力の緻密さには、畏るべきものがある。
「ボケ」の症状が進行した赤木春恵が、帽子を取った岩松了のハゲ頭を「はげちゃびーん」と撫でて叩いて息子を確認する場面は、ホームの「同僚」竹中直人のカツラヘアの露骨さとの合わせ技でしっかり笑いを取っているのだが、眼鏡・ハゲを父親から受け継いだ息子の丸い頭を撫でて叩く動作は、ハゲヅラ眼鏡の遺影の夫・加瀬亮との交信でもあり、妹たつえの毬つきの模倣・反復でもあることに注意しなければならない。赤木春恵が撫でて叩く息子の丸い頭は、妹が遊んだ毬の等価物であり、「ペコロス」の丸いハゲ頭は二人の死者につながっているのだ。*7
こうして赤木春恵は、ふたりが生きてる時よりも死んでからの方がよく訪ねてくれるようになったと嬉しそうに話し、死者の来訪を喜ぶ、その生死を軽々と超越した語り口で、岩松了ともども観客をも戸惑わせる。
ホームに入居した赤木春恵には、来訪を喜ぶ死者たち(夫・妹)がいる一方で、手紙を書き続ける生き別れのままの幼馴染もいる。天草の家から目撃した原爆のキノコ雲は、長崎に「口減らし」で奉公に出された幼馴染「ちえちゃん」の運命を大きく狂わせていた。
夫の加瀬亮と長崎の借家に入居した、原田貴和子演じる若き日のみつえが、さらに花街(赤線街)で原田知世演じる「ちえちゃん」に再会する回想場面から、映画はいちおう後半部に入ると言えるだろう。
天草から見合いで長崎に嫁入りしたらしいみつえと夫との結婚生活は、その初対面も死別も直接描かれることはない。丸いカンカン帽とソフト帽が異様に似合う加瀬亮は、ハゲヅラの遺影の写真と違和感のない「生前」の演技によって、赤木春恵/原田貴和子の夫役にすんなりと収まっていて素晴らしい。
その加瀬亮と、赤ん坊を背負った原田貴和子が花街を歩き、原田貴和子が夫に遅れたところで、画面奥に自転車が通りベルを鳴らす。すると、幻のように幼馴染「ちえちゃん」原田知世が通りの向かい側から現れ、通り過ぎようとする。*8
教会の窓から女性コーラスを覗いていた、似た印象の子役ふたりの顔立ちが、原田貴和子・知世の姉妹共演で甦るのも素晴らしいのだが、「ちえちゃん」という貴和子の呼びかけに一瞬だけ振り向いて、ぱっと横の通りへ駆け去っていく知世がスローモーションで見せる表情のアップの美しさと悲しみを、いったいどう表せばいいのだろうか。
そして、再会した幼馴染が逃げ去るのを茫然と見送る貴和子は、夫・加瀬亮が通りの奥から妻を急かす声によって、後を追いかけることをあっさり断念させられる。通りの奥から加瀬亮に呼ばれ、力なく歩き出す原田貴和子を捉えた縦構図の切り返しは、一瞬の再会の感動の余韻をあっさりと断ち切ってしまう。だが原田知世の一瞬のアップを捉えたスローモーションは、妹の毬つきのスローモーションと共鳴しながら、記憶をせり上がらせる。
花街での一瞬の再会から、原田貴和子は原田知世に手紙を書き続けるが、なかなか返事が来ない。ホームに入居後の赤木春恵も「ちえちゃん」原田知世宛ての手紙を、ふと思い出しては書き続け、ホームに見舞いにきた孫の大和田健介を「郵便屋さん」と呼んで、その手紙を「ちえちゃん」に届けるようにと託す。手紙は過去と現在から「同時に」発送されるのだ。
ハゲ頭を見ても岩松了を息子だと認識できないほど赤木春恵の症状が悪化する一方で、回想場面では夫・加瀬亮の酒乱と神経症は悪化し、雪の降る冬の給料日、空っぽの給料袋と共に街灯の下に泥酔して倒れ、原田貴和子の家庭生活も悪化するばかりだ。*9
酒乱で神経症の夫との生活に疲れた原田貴和子が、幼い雄一を連れて真夜中の埠頭に立っているとき、なぜか郵便配達夫が通りかかり、原田知世からの返事の手紙を手渡す。*10
広げた便箋から、貴和子の励ましの手紙を受けて「何がなんでも生きとかんば」と決意したという知世のボイスオーバーが流れ、その声に励まされ、貴和子も幼い息子を「生きとかんば」と抱きしめるのだが、ここで貴和子が受け取って便箋を取り出した封筒が、泥酔した加瀬亮が持ち帰った空っぽの給料袋と「同じもの」であることに注意しなければならない。酒乱夫が中身をぶちまけた空っぽの給料袋が、真夜中の埠頭に封筒となって、給料の代わりに幼馴染からの手紙を届けたのだ。なんという映画的奇跡!*11
岩松了のハゲ頭も識別できないほど赤木春恵のボケは進行した頃、夫の生前出かけた1995年のランタンフェスティバルのプログラムが、押し入れに隠した下着の下に保持してあるのを発見し、岩松は再び赤木をランタンフェスタへ連れて行く決心をする。
岩松と車椅子の赤木に老姉妹ふたり、孫の大和田健介、ホームの介護仲間の竹中直人、ヘルパーの松本若菜がフェスティバルの会場に向かう。竹中直人はカツラを外して本来のハゲ頭に戻ると、険悪だった母(佐々木すみ江)と仲直りしている。*12
岩松たちがちょっと目を離した隙に、車椅子から赤木の姿が消える。夜のフェスティバル会場を杖をついて彷徨い歩く赤木春恵。とつぜん回想ショットに変わり、褐色の肌に着物姿の娼婦仲間(サヘル・ローズ)が原田知世が原爆症ですでに死んでいたこと、枕元に書き残した手紙を代わりに郵送したことを、花街をあらためて訪ねてきた原田貴和子に告げ、金属製の箱に入った写真と手紙を渡す。
原田貴和子が真夜中の埠頭で受け取った手紙は、死者からの手紙であり、あのとき響いた原田知世の「何がなんでも生きとかんば」というボイスオーバーも死者の声だったのだ。
その死者の手紙と声に励まされて子供と共に生き延びだ原田貴和子は、花街の夜の帰り道を通りの雰囲気とは不似合いな地味でくすんだ色の上着で歩きながら「早春賦」を泣きながら歌い、嗚咽する。*13
花街で泣き崩れる原田貴和子の「早春賦」の歌と嗚咽が、ランタンフェスティバル会場を彷徨う赤木春恵のアップとつながり、完全に「泣かせモード」に入っているこのタイミングで「ソニー生命保険株式会社」の電光看板をタイアップで出す露骨さも「巨匠」森崎東ならではのものだ。*14
ずっと無反応が続いていた赤木春恵も「早春賦」を口ずさむと、かって幼い大和田健介が迷子になった眼鏡橋の上にたどり着き、ふと振り向くと着物姿の原田知世が立っている。
橋の上では着物姿の「ちえちゃん」原田知世、妹の「たつえ」、そしてソフト帽に眼鏡の夫・加瀬亮が並んでいて、「早春賦」を歌う赤木春恵を迎え入れる。
大和田健介が、迷子になった赤木春恵を眼鏡橋の上で見つけ、岩松了に知らせる。カメラを構えた大和田は、橋の上の四人に向かって「撮るよ」と声をかけ、シャッターを押す。
夜の橋の人物再登場による記念撮影。ここで観客の大半は涙を浮かべるところだが、一見ストップモーションのように見えるこの記念撮影のショットで、じつはストップモーションを使っていないのを見逃してはならない。
このストップモーションの拒否にこそ、反小津的巨匠・森崎東の本領が発揮されているのだ。小津安二郎はもちろん、ジョニー・トーでもストップモーションを使うであろう写真撮影の場面で、画面を決して止めることなく、素早く岩松了のアップに切り返してショットを写真の枠の中に閉じ込めない(記念撮影のメンバーに子供時代の岩松了「ゆういち」が入っていないことにも注意)。出来上がった写真の中には、「何がなんでも生きていかんば」と生き残った生者・赤木春恵がひとりだけで映っている。そんな彼女にストップモーションは許されない。「何がなんでも生きとかんば」は「何がなんでも動き続ける」という、森崎東の映画宣言でもあるのだ。ノンストップ・モーション・ピクチャー。生きてるうちは動くのよ、死んだらまた来るよ。*15、*16
手毬歌や再会場面では、あれだけ見事なスローモーションを駆使しながら、クライマックスの写真撮影では、あえてストップモーションを拒否する。それは「動きを止めることのうちに最大の映画的運動が生きられるという小津的な逆説」*17に本能的に抗うことである。
本能的というのは、ひょっとしたら、ただ単にじっとしていられない動きたがり屋なだけなのかもしれないからだ(生まれながらの活動屋!)。
原作と題材のせいで、一見万人受けする人情喜劇であるかのように仕上がってはいるが、スローモーションの使い分け、サヘル・ローズの起用、ストップモーションの拒否、等々、森崎東自身はいまだに「ボケ」とも枯淡とも無縁な、成長と変化を続けて止まない作家である。*18
「大好物」のエロに関しても、老母の隠した下着をタンスの引き出しから精液まみれのティッシュのようにあふれさせたり(センズリの母子相関?)、さらには介護士役の長澤奈央に紙オムツ試用ネタを笑顔で言わせたりと、こっちも瘋癲老人には程遠い現役バリバリである。*19
- 発売日: 2014/07/02
- メディア: Blu-ray
- アーティスト:サントラ
- 発売日: 2013/11/13
- メディア: CD
- 作者:雄一, 岡野
- 発売日: 2012/07/07
- メディア: 単行本
- 作者:森崎 東
- メディア: 単行本
KYOTO, MY MOTHER'S PLACE キョート・マイ・マザーズ・プレイス [DVD]
- 発売日: 2014/01/25
- メディア: DVD
- 作者:東 浩紀
- 発売日: 1998/10/01
- メディア: 単行本
*1:『時代屋の女房』(1983)で、旅先の「耄碌ばあさん」(村瀬幸子)が渡瀬恒彦と夏目雅子が訪れた昨日と半年前とを取り違える場面で、森崎東は老人の「ボケ」を「記憶と認識の取り違え」として映画的に活用していたが、今回はそれを全面的に発展させ、応用したものだとも言える。また、その同じ村瀬幸子が三国連太郎と認知症の夫婦を演じた、吉田喜重『人間の約束』(1986)は、『ペコロス』にとって重要な先行作品である。原爆を被爆した女性の戦後体験ということでは、広島を舞台にした『鏡の女たち』(2003)とも強く関連するし、また『さらば夏の光』(1968)のヒロインは長崎出身の被爆者であることが暗示されている。松竹時代の元同僚(森崎東監督デビュー時はすでに退社済)では、京都大学法学部同窓の大島渚との因縁(すれ違い)が取り上げられがちだが、こと『ペコロス』に関しては、吉田喜重作品との関連の方を重視すべきだろう。
*2:女声コーラス場面は、字幕で年代・場所が示されフェイドアウトで終わる唯一のシークエンスとして、注目すべき個所である。また特別出演・宇崎竜童は、同じく認知症患者介護の問題を扱った『任侠ヘルパー』(西谷弘、2012)でも好演していた。一匹狼ヤクザと子持ちの鉄火女と優柔インテリ議員と童貞チンピラが、海辺の介護施設を舞台に祝祭的騒乱を引き起こす『任侠ヘルパー』は、森崎東作品と相通じる部分が多い。なおテレビドラマ版『任侠ヘルパー』第5話で、28年前に家庭を捨てて男と逃げた挙句、介護施設で主人公と再会する母親役を、倍賞美津子(役名「さくら」)が演じているのもまた因縁か。http://d.hatena.ne.jp/jennjenn/20130616/p1
*3:天草は熊本県だが、距離的には長崎市に近く、長崎とのつながりが深い。
*4:上野昂志「現在と過去を自由に往還することで見えてくるもの」、『ペコロスの母に会いに行く』パンフレット、14−15頁
*5:『ペコロス』を海外で公開する場合の英語タイトルにふさわしいのは『NAGASAKI, MY MOTHER'S PLACE』だろうか。「ペコロス」では表記も意味も不明だし、怪獣映画に間違えられるおそれもある。
*6:本ブログ2013年度「勝手に編集賞」受賞作『Playback』(三宅唱)を最初に見た時は、これで日本映画の編集の歴史が変わると思ったのだが、『ペコロス』の「超絶まだらボケ編集」があっさりひっくり返してしまった(笑)。赤木春恵が二日続けて岩松了の車の帰りを待つ、駐車場での昼夜の時間圧縮編集、ホーム入居時のバックミラーの視線の編集もお見事。また「ここしかない」というべき坂の途中の駐車場は、ロケハンの勝利。
*7:ハゲ頭、眼鏡、バンジョー、帽子、車椅子の車輪、毬、トンビの描く輪と、丸い形態物が頻出する『ペコロス』は、眼鏡橋に登場人物を集合させることで、円形の主題系を形成するが、その始点には冒頭のラジオ放送が語る「昭和の扇風機」が存在する。また円形とは別に、加瀬亮の遺影の写真、原田知世の写真と手紙の入った金属性の箱が示す四角い形は、人が生きた記憶を閉ざす矩形の枠であるかのように思われる。
*8:<この花街のセットが素晴らしい。ロケ先の街路を美術(若松孝市)が造り込んだのだろうが、売春防止法が適用される前の花街といった風情(実際に見たわけではないが!)が匂い立つようだ。>、上野昂志、同前。
*9:日本のカラー映画史上最高級の雪がここで降る。地面に倒れた加瀬亮の白いシャツを暗闇に照らし出す照明と街灯の美術も素晴らしい。なお姉妹愛、幼馴染の友情に対して「夫婦愛」が明確には描かれない、というのが『ペコロス』の重要なポイントのひとつである。
*10:この場面は岩松了が竹中直人に語る、幼い日の母との記憶。『ペコロス』の回想場面は、赤木春恵の歌によるフラッシュバックと、岩松了のマンガと語りによる過去の再構成に大別できる。録音・整音はほぼ完璧で、劇中の歌声と劇伴の音楽の音のバランスが実にいい。豊田裕子によるテーマ曲のワルツも、まるでニーノ・ロータのように魅惑的だ。
*11:花街の再会場面では自転車のベルが重要な役割を演じていたが、ここでも郵便配達夫は自転車に乗って現れる。なお四方田犬彦「もっとも低い場所から森崎映画がまた生まれる」(キネマ旬報11月下旬号、2013)では<精神分析の説くところによれば、母親にペニスを見られてからかわれるというのは、実は男性にとってきわめて深刻かつ決定的なトラウマ体験であり、長じて男性性の危機をもたらす原因となる>とあるが、もしかりに『ペコロス』に「精神分析の説くところ」を見出そうとするならば、給料袋と封筒の奇跡的なすり替わりによって具体化された「手紙は必ず届く」というジャック・ラカン的命題だろう。もちろんそれは森崎東にのみ可能な映画的奇跡であって、「手紙は宛先に届かないこともある」というジャック・デリダ的命題を否定するものではない。まあ精神分析もラカンもデリダも「くそくらえったら死んじまえ」で構わないのだが。
*12:竹中直人のバレバレのカツラと最後に見せるハゲ頭は『ロケーション』(1984)の殿山泰司のカツラ姿とハゲ頭の露呈の反復・変奏ともいえる。
*13:「ちえちゃん」原田知世の死と手紙にまつわる感動的なエピソードに比べると、夫・加瀬亮はいつの間にかハゲヅラで遺影の写真に納まっているだけで、その生死の扱いはじつに軽い。また原田知世の原爆症による死を伝える娼婦仲間の役を、イラン・イラク戦争の戦災孤児であるサヘル・ローズが演じていることの意義は決して小さくない。彼女の流暢な長崎弁は、長崎の戦争体験を現在の世界状況につなげているのだ。みつえが10にんきょうだいの長女であるのに対して、サヘルは11人きょうだいの末っ子で全滅した家族の唯一の生き残り。「生きとかんば。何がなんでも生きとかんば」は、彼女にこそふさわしい言葉でもあるのだ。
*14:NHKでの放映が危ぶまれる露骨な企業名タイアップには、サイレント時代の「クラブ歯磨」「強力わかもと」以来の松竹の伝統の継承を見るべきだろう。なお森崎東がいわゆる「松竹大船調」の破壊者であるという見方は、映画史的にはいささか短絡的だと思う。『愛染かつら』(野村浩将、1939)を戦前最大のヒットとする松竹映画の伝統の中での「父系血縁イデオロギー」の位置づけは、慎重な再検討を要する。
*15:死者の記憶と言葉と歌が生きてる者を訪れ、励まし動かし続ける『ペコロス』は『死んだらそれまでよ党宣言』からさらに一歩先へと進んでいる。
*16:ジョニー・トーと小津安二郎の記念写真の共通性については、鈴木則文が『エグザイル/絆』(2006)日本公開時の推薦コメントで鋭く指摘している。http://www.youtube.com/watch?v=N6cly2xvQdc
*17:蓮實重彦『監督小津安二郎[増補決定版]』、146頁、筑摩書房、2003
*18:とはいえ、大方の好評を得て、2013年「キネマ旬報」「映画芸術」両誌のベストテン日本映画第1位を獲得したことはじつにめでたい。この種のベストワンは交通事故のようなもので、『ペコロス』のダブル受賞は、NHKの特番まで使って「当たり屋」を演じたうえで獲るべきものを獲った「名ボケ役」森崎東とプロデューサーの作戦勝ちと言えるだろう。新年早々、まことにおめでとうございます。
*19:日本映画界が誇る現代最高のアクション女優・長澤奈央に抱えきれないほどの紙オムツを持たせたうえに試用中の姿を想像させた、なんて贅沢なオムツプレイ! http://www.009-1.jp/