『トウキョウソナタ』
『トウキョウソナタ』は、冒頭の縁側の窓から雨風が吹き込む場面を見てもわかるように、小津安二郎に劣らず成瀬巳喜男からの色濃い影響を見て取ることができる、黒沢流ホームドラマといえるだろう。*1
ここで、くたびれかけた専業主婦を演じている小泉今日子が、夫・香川照之が寝室に去ったあと、深夜ひとり、リビングのソファに横たわったまま両手を宙に伸ばして「引っ張って、誰かあたしを引っ張って」と呟く印象的な場面がある。この場面が印象的なのは、この小泉今日子の横たわったまま空しく両手を宙に伸ばす仕草が、明らかに『めし』(成瀬巳喜男、1951)で同じ姿勢から上原謙に両手を引っ張って起こしてもらう島崎雪子の仕草を反復している(し損ねている)からだろう。
『めし』で、叔父・上原謙と原節子夫婦が暮らす大阪の長屋を頼って、東京から家出してきた島崎雪子は、原節子の同窓会の日に、留守番と夕食の準備を頼まれながら、二階の部屋で熟睡してしまう。夕方、会社から帰宅した上原謙に起こされた島崎雪子は、畳の上に横たわったまま両手を伸ばした姿勢で「ねえ起こして」と呟く。誰からも引き起こされることのない小泉今日子の両手とは違って、島崎雪子が伸ばした両手は、ダンディな叔父・上原謙につかまれて優しく抱き起こしてもらうという幸運にあずかる。島崎雪子は、さらにそこで急に鼻血を出して上原謙のワイシャツを汚してしまうという、エロチックな失態まで演じてみせる。
この二階での目覚めから鼻血の治療中の間に、鍵を架け忘れた一階では上原の新品の靴が靴泥棒に盗まれ、この靴泥棒騒動が長屋じゅうに広がる。やがて同窓会から帰宅した妻の原節子は、夫が新品の靴を盗まれたことに怒るばかりでなく、二階で横たわる姪と夫の鼻血騒動も知り、夫と姪との間にあらぬ疑惑と嫉妬を抱くことになるのだが、こうした鼻血から靴泥棒、不機嫌妻の帰宅に至る一連の騒動が、島崎雪子が横たわった姿勢で宙に伸ばした両手を契機に始まっているのを見て取るのは、容易なことだろう。
ともに横たわったまま両手を宙に伸ばしながら、上原謙に優しく引っ張り起こされる『めし』の島崎雪子の両手が引き起こす、喜劇的な映画的運動の連鎖と、誰にも引っ張ってもらえず空しく宙をさまよう『トウキョウソナタ』の小泉今日子の両手がもたらす不全感との差異を、果たして黒沢清がどこまで意識しながらこの場面を演出したかは、今さら知る由もないだろう。
ここでは監督の「意識/無意識」には一切ふれることなく、島崎雪子と小泉今日子という2人の女優の宙に伸びた2本の手のあいだで交わされた、同形のフォルムの反復・変奏が、成瀬巳喜男と黒沢清とのあいだに、ひとつの映画史的な流れを形成していることだけを指摘しておきたい。*2
このような微妙な差異と同形性とが入り混じった、映画作家のあいだでの反復・変奏関係は、時代や状況設定の差と決して無関係ではないが、やはり独立した映画的な価値を持つものとして考察しなければならないと思う。
こうした映画的関係性のあり方は、『トウキョウソナタ』の黒沢清においては、成瀬巳喜男とのあいだに限ったことではない。最もわかりやすいところでは、小津安二郎との関係が挙げられるだろうが(井之脇海の階段落ち!)*3、ここでは小津の盟友であった山中貞雄との関係についてふれておきたい。
山中貞雄との関係を考えることによって、たとえば津田寛治が演じるリストラ社員が、リストラされたことを妻と娘に隠し続けたあげく、夫婦でガス心中するという一見現代的なエピソードが、じつは『人情紙風船』(山中貞雄、1937)の浪人夫婦の無理心中のエピソードを、時代背景・状況設定の差異を超えて反復・変奏しているということが見えてくるのだ。
生き残った娘の土屋太鳳の存在のために、『人情紙風船』との関連は気づかれにくくなっているが、『人情紙風船』のラストを踏まえるならば、死因がガス中毒であるということしか詳細が語られていないこの夫婦心中事件の主犯者は、失業しながら会社勤めを演じ続けていた夫の津田寛治ではないだろう。ガス栓を開いた主犯者は、夫の偽りの振る舞いをすべて受け入れたうえで、ニセ同僚を演じた香川照之に豪華な手料理を振舞いながら、監督・共演者をも圧倒するほどの荒廃感を漂わせた、妻の杉山彩子の方であるのは間違いない。*4
(初出、2010、05.13)
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*1:http://movie.geocities.jp/dwgw1915/newpage152.html参照。
*2:たとえば、香川照之が帰宅するきっかけとなる交通事故場面は、ゴダールはもちろん、リチャード・フライシャーの影響を公言している黒沢清が繰り返し描いてきたものであるが、それがホームドラマという文脈に置かれると、成瀬的な主題としての交通事故と大きくオーバーラップしてくる。また女性性という文脈でいえば、自動車の運転場面も黒沢作品では欠かせないものだが、『トウキョウソナタ』では自動車(四輪)の運転者が男性ではなく女性の小泉今日子だというのも注目すべきところだろう。
*3:この階段落ちは『風の中の牝鶏』(小津安二郎、1948)と共に『サイコ』(アルフレッド・ヒッチコック、1960)とも関わる場面でもある。
*4:DVDの副音声に収録された黒沢清のオーディオコメンタリーの、黒須家の食事場面に関する部分を参照。ただし、女優さんの名前はちゃんと言わなければいけませんよ、黒沢さん。