『イングロリアス・バスターズ』

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ユダヤハンター」SS大佐クリストフ・ヴァルツが、フランスの酪農家の床下に隠れていたユダヤ人一家を虐殺した際、ひとりだけ生き残った少女ショシャナが草原を走り去る後ろ姿を開いたドア越しの構図で見出し、一度は拳銃で狙いを定めるが、撃たずに見逃す。
切り株に父親が斧を打ち込み、娘が白いシーツの洗濯物を干し、牛の鳴き声が響く、西部劇から抜け出たようなフランスの酪農家にSS(ナチス親衛隊)の車が到着する場面から始まる、この第1章のユダヤ人一家虐殺の生き残りの少女をめぐる運動と視線の力学は、ちょうど『捜索者』(ジョン・フォード、1956)で「インディアン・ハンター」ジョン・ウェインが、インディアン襲撃を受けた白人一家の生き残りで今は酋長の妻となっている姪ナタリー・ウッドを、最初は撃ち殺そうと洞窟の入り口まで追いかけるが「家に帰ろう」と抱き上げ、親族たちが待つ故郷の家に連れ帰って来る姿をやはり、開かれたドア越しに家の中のカメラポジションから捉えられていた、運動と視線の力学を圧縮・反転させるようなかたちで演じなおしたものとなっているのを見て取ることができるだろう。
草原を必死で走り去るユダヤ人少女ショシャナの後ろ姿が一瞬、『捜索者』でジョン・ウェインから必死に逃げ去ろうとする「インディアン妻」ナタリー・ウッドの後ろ姿と重なり、第二次大戦中のフランスに西部劇的空間が一気に広がる第1章は、やはり『イングロリアス・バスターズ』全編を通して、演出として最も充実している。
開いた扉越しに屋内から屋外の空間の人影を捉えたカメラポジションの類似、そして何よりも床下に隠れていた少女が、家族が虐殺されるなかひとりだけ生き残るという状況設定の共通性において、これは『ウェスタン』(セルジオ・レオーネ、1968)や『許されざる者』(ジョン・ヒューストン、1959)よりも、まず第一に『捜索者』が参照されるべき場面だと思う。
『捜索者』的主題は、第2章以降でも、ナチス狩り部隊のバスターズ隊長「アパッチ」ブラッド・ピットによって「ナチの頭の皮剥ぎ」というかたちで継承されている。
アルド・レイン中尉というブラッド・ピットの役名の由来は、もちろん俳優アルド・レイから来ているものだろうし、そのアルド・レイ主演『裸者と死者』(ラオール・ウォルシュ、1958)では、アルド・レイが敵兵の頭の皮を剥ぐという場面もあるらしい。*1
だが頭の皮剥ぎという主題に関していうならば、『捜索者』でも、ジョン・ウェインが復讐のため追い続けてきたインディアンの酋長スカーの死体の頭の皮を剥ぐ場面があったことを忘れてはならない。
しかもそのスカー役を演じていたのは、ベルリン出身のドイツ系インディアン役者ヘンリー・ブランドン(本名 Heinrich von Kleinbach!)なのだから、「ドイツ人の頭の皮」を剥ぐアメリカ人俳優ということでは、ブラッド・ピットは『捜索者』のジョン・ウェインの立派な後継者(?)に位置づけられるのだ。*2
そう考えてみると、なぜユダヤ人少女の生き残りメラニー・ロランが、最後のプレミア上映の夜に「ダニエル・ダリューみたい」にドレス・アップしながら、頬にインディアン風ペイントを一瞬描き入れていた理由も納得できるだろう。
ブラッド・ピットメラニー・ロランとは、劇中では一度も出会うことはないまま、第二次大戦中フランスを舞台に『捜索者』のジョン・ウェインナタリー・ウッドの役柄を、アルド・レイダニエル・ダリューの名を借りて密かに再演・変奏するという、壮大な時代錯誤、緻密な映画史的倒錯を共犯・競演することによって、タランティーノ流のジョン・フォード的連帯を表明しているのだ。*3
オープニングに流れる『アラモ』(ジョン・ウェイン監督・主演、ジョン・フォード監修、1960)のテーマ曲は、何よりも「ジョン・ウェインのテーマ曲」として引用されているとみなされるべきだろう。*4
ちなみにアルド・レイは、ジョン・ウェインの『アラモ』に次ぐ監督作品『グリーン・ベレー』(1968)にも出演している。
このフランスを舞台にしたアメリカ人映画作家による大胆なフォード的連帯の表明に対して、最も激しく嫉妬しているのはジャン・リュック・ゴダールではないだろうか。
追記(2010・05・01)
冒頭のクリストフ・ヴァルツによるフランス語・英語の使い分けをはじめとして、この映画での英語・フランス語・ドイツ語の3ヶ国語併用は見事なものだが、プレミア会場でイタリア映画人に変装したバスターズによるイタリア語による会話場面はあまりいただけない(これは確かにおかしい場面なのだが)。
「ボンジョルノ」以外、イタリア語をまったく喋れないブラッド・ピットイーライ・ロスが「エンツォ・ゴラーミ」「アントニオ・マルゲリーティ」と、イタリアB級映画の巨匠の名前を偽名として、クリストフ・ヴァルツのナチ将校の質問に対して繰り返し名乗るあたりは、いかにもタランティーノ的な「B級映画愛」にあふれたものとして評価されているようだが、類似の危機的状況における外国語使用例として、たとえば『スプラッシュ』(ロン・ハワード1984)のスウェーデン語のポルノ映画のセリフ一発による鮮やかな脱出劇と比べてみると、このB級イタリア語会話は、その運動性と展開力の欠如において、映画的には自堕落な笑いに陥っているような気がしてならない。

*1:季刊『真夜中』№7 2009「映画長話」126頁、蓮實重彦の発言による。

*2:バスターズ隊長ブラッド・ピットがナチから付けられたあだ名は「アパッチ」なのだが、『捜索者』でジョン・ウェインに頭の皮を剥がれるヘンリー・ブランドンが演じていたのがコマンチ族酋長であったことを考えると、これは正しくは「アパッチ」ではなく「コマンチ」であるべきなのだが、幸か不幸か「コマンチ」というあだ名は『その場所に女ありて』(鈴木英夫、1962)の水野久美が独占しているために、簡単に使えないという事情がある。この広告会社を舞台にした「東宝女性映画」の傑作で、病気の恋人に貢ぐために借金を重ねたうえ会社の金に手を出して、最後は鉄道へ飛び込み自殺する水野久美は、「クール・ビューティ」司葉子をはじめとする同僚たちに一貫して「コマンチ」というあだ名で呼ばれているのが印象的だ。しかし役名が「吉村ミツ子」である彼女のあだ名がなぜ「コマンチ」なのかは、再評価が著しい『その場所に女ありて』の最大の謎である。ちなみにタランティーノの「スーパー・クール・フェイヴァリット」である『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』(本多猪四郎、1966)のDVDのオーディオコメンタリーで『その場所に女ありて』の「コマンチ」役について訊ねられた水野久美さんの答えは「それもね、どんな役やったかわかんないんです」「そんな役でした?」とのこと。残念!

*3:間違っても、ジョン・フォードの名前も作品名も、ジョン・ウェインの名前も、ナタリー・ウッドの名前も口にせずに、『ヨーク軍曹』やGWパブスト、アンリ・ジョルジュ・クルーゾー、レニ・リーフェンシュタール、マックス・ランデール、ヴァン・ジョンソン、またはあからさまに『生きるべきか死ぬべきか』(エルンスト・ルビッチ、1942)を連想させるヒットラー出席プレミア場面のような、映画オタク的疑似餌を多数仕掛けているところが、今回のタランティーノの狡賢い成長ぶりを示しているといえるだろう。

*4:ジョン・ウェインのテーマ曲として考えられるメロディーとして『駅馬車』や『黄色いリボン』もあるが、タランティーノの映画音楽として使えるのはやはり『アラモ』だろう。ティオムキン絡みでは『リオ・ブラボー』(ハワード・ホークス、1959)の「皆殺しの歌」もあるが、これはどちらかといえばディーン・マーティンのテーマ曲というべきだし、また「皆殺しの歌」の引用はすでに『恐怖女子高校 女暴力教室』(鈴木則文、1972)において、ドレス姿の池玲子のピアノ演奏によって華麗におこなわれている。