『SUPER8/スーパーエイト』

http://www.super8-movie.jp/
http://www.youtube.com/watch?v=HEVZyhkZc4E

1979年、オハイオ州のどこかにあるらしい、リリアンという町の夏休みの夜、8ミリフィルム(コダック・スーパーエイト)でゾンビ映画を撮るローティーンの映画少年グループが、空軍の「秘密物資」を積んだ貨物列車の爆発事故に遭遇し、その映像を偶然撮影する。その事故をきっかけに、町では犬の大量失踪、さらには保安官をはじめとする人々の失踪、機械・自動車部品の大量紛失、停電、通信障害が頻発する。やがて事故現場付近に火災が起こり、空軍から町全体に避難命令が出される。
いかにもスピルバーグ的なプロットからなる、J.J.エイブラムスの『SUPER8/スーパーエイト』のドラマとしての真の眼目は、空軍の「秘密物資」が引き起こす事件とそのサスペンスよりも、製鉄所の事故で母親を亡くした少年ジョーと、飲酒欠勤によって、その母親を死なせたことに罪責感をもつ男の娘アリスを、同じ映画少年グループに編入させて、その感情の機微を繊細に描いているところにある。
(以下ネタバレあり)
 
少年の父親は町の保安官代理、少女の父親ルイス・デイナードは、飲酒や薬物でトラブルを起こしては連行される町の厄介者。妻は家を去って、娘のアリスとふたり暮らしをしている。
映画は、「リリアン製鉄所」の連続無事故日数を示す看板の数字が、784から1に架け替えられるショットから始まり、製鉄所勤務の少年の母親の事故死が簡潔に語られる。*1
雪の日の葬儀後の会食で、家の中には親戚一同や、ジョーの映画づくりの友人仲間が集まっているなか、ジョーはひとり庭のブランコに腰掛けて、手元の母親の形見のペンダントを見つめている。雪の庭のブランコに、ひとりで座るジョーの姿を捉えたロングショットは、肝心の父親が、家のなかで右往左往して、家の外のジョーの姿を見失っている様子とあわせて、母親を亡くしたばかりの子供の喪失感を的確に表している。
そこへ重低音が断続的に震える、特徴的なエンジン音を響かせて、一台のマスタングが玄関先に乗りつけると、酔ったようすのルイス・デイナードが弔問に現れる。しかし、保安官代理の父親とすぐ口論になり、いきなりパトカーに乗せられて、その場から連行されてしまう。そのふたりの争う様子をブランコに座ったジョーは無言で見つめ、ジョーと一瞬目が合った父親はすぐ戻る、と言い残すと、パトカーで立ち去ってしまう。
ジョーはペンダントの写真の蓋を閉じると、そのパチンと閉じる音とともに画面は「4ヶ月後」という字幕を介して、夏休み直前の学校の情景に変わる。
この冒頭の雪の葬儀の日の演出は、無言のまま、ひとり庭のブランコに座るジョーの視線の動きだけで、母親を亡くしたばかりの少年の喪失感を表していて見事というだけではない。そこへマスタングに乗ったデイナードを登場させることで、妻を亡くした父と、母を亡くした息子との齟齬、さらには、その妻/母を死なせた男に対するふたりの感情の温度差までをも、ブランコと家との絶妙な距離を介した視線の切り返しをまじえた律儀なカット割りによって表しているところに、J.J.エイブラムスの映画作家としての力量がはっきりと現れている。
しかも、パトカーが去ったあと、家の前にはデイナードのマスタングが乗り捨てられたままになっているのだが、その同じマスタングが4ヵ月後の夏の夜、例の特徴的なエンジン音を響かせながら、娘のアリス・デイナードの運転(無免許!)によって、ジョーの前に再登場することになるのだから、説話展開上での聴覚的な伏線配置、音響効果の配分としてもまた見事というほかない。*2
ゾンビ映画の撮影を通して、メイク担当の少年ジョーと主演女優の少女アリスは、父親同士の確執を乗り越えて、互いに惹かれあうことになるのだが、そこでふたりを仲介するのが、二種類の8ミリフィルムであることにも注目しなければならない。
列車事故のために、一度は中断したゾンビ映画の撮影を再開するため、ジョーはアリスの家を訪ねて、あらためて出演を依頼するが、ジョーが保安官代理の息子だと気づいた、父親のデイナードに乱暴に追い返される。その父親の態度に、一度は事故の不安から出演を断ったアリスも、再度の出演を承諾する。
すると画面は、悲鳴と銃声とともに、野原でゾンビが銃で撃たれる『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(ジョージ・A・ロメロ、1968)そっくりの一場面に切り替わると、少年グループはもう撮影を再開しているのだ。じつに見事な編集の呼吸。遠景には列車事故の残骸が散乱し、ロケ地周辺では兵士や軍車両が調査しているのだから、事故目撃者である少年グループは、ロメロ映画の登場人物さながらの不安な表情を浮かべつつ撮影を続ける。これこそジョージ・A・ロメロ先生に対する最高のリスペクトというものだろう。*3
列車事故後、犬と人の失踪、機械・部品の紛失、停電・通信障害が町に頻発し、ジョーの父の保安官代理は、それが空軍の活動と関係していることに気づく。しかし、ジョーの父親の映画に対する貢献は、保安官代理としての活躍よりも、むしろ8ミリフィルムに関わる部分のほうが重要だ。事故によって壊れた少年グループのカメラの代わりに、ジョーの父親の8ミリカメラが新たに撮影に用いられるところから、『SUPER8/スーパーエイト』という作品の新しい映画的な次元が広がっていくのである。
父親どうしの確執から、保安官代理は息子のジョーにアリスとの交際の禁止を命じる。ジョーは父親に対してアリスを弁護し、涙を流すのだが、母親の死後もずっと無表情を保ってきたジョーが、ここではじめて涙を流すというタイミングにも注目しなければならない。*4
その日の夜、ジョーの部屋にアリスが窓から訪ねてきて、停電の暗い部屋のなかの会話で、お互いの感情をあらためて確かめあう。そのとき、とつぜん8ミリの映写機が動き出すと、壁のスクリーンに幼いジョーを抱いた母親の映像が映し出され、映画は死者の映像と視線をめぐって、新しい次元へと進み出す。
このとつぜんの8ミリフィルムの映写は奇跡的な瞬間だ。それまでのゾンビ映画も、もちろん8ミリフィルムで撮影されていたが、それは音声付のトーキー映像だったのに対し、ここで映しだされる母と子の映像は、サイレントフィルムなのだ。
それは、若き保安官代理がまだ幸福だった頃、美しい妻と幼い息子の成長する姿を記録したプライヴェートフィルムであり、ジョーとアリスは、そのサイレント映像の母子を見つめ、また、夫のカメラを見つめる母親に、スクリーンの中からふたりは見つめられる。カメラを通して、息子を抱いた妻と見つめあうジョーの父親の幸福な記憶映像と、ジョーとアリスの視線が重なり合う倒錯的な瞬間。そこには、夏の日差しを浴びたブランコが揺れて、母親の首には、本来はジョーの誕生の記念品である「形見」のペンダントが掛かっている。
リールの回転音がカタカタ鳴るなか、ジョーは、こうして母親に見つめられていると、自分が実在することが感じられた、とつぶやく。アリスは涙ぐみながら、父親のデイナードが酔って欠勤した代わりに、ジョーの母親が事故死したこと、デイナードは自分が死ねばよかったと今でも後悔し、またアリスもそう思っていることを、告白する。
この8ミリフィルムを前にした、ふたりの会話場面におけるJ.J.エイブラムスの視線の演出・編集は、じつに周到かつ戦略的なものだ。
上映が始まる前段のふたりの会話を、映写機をあいだにはさんで、アリスを画面左側、ジョーを画面右側に配し、ふたりの表情を正面からの切り返しではなく、それぞれの横顔のアップを交互につないでいる。この段階では視線は正面から向き合わない。
正面からの切り返しショットによって視線が交わるのは、8ミリフィルムの上映開始後だ。スクリーンに映った母と子の映像と、そのスクリーンを見つめるアリスとジョーのふたりが、切り返しでカットバックされる。スクリーンのなかでカメラを見つめる母親と、スクリーンを見つめるジョーとアリスの視線が交錯する。
スクリーンの中の死んだ母親と、ふたりの子供の視線が切り返しで交錯する。これだけでも、J.J.エイブラムスの視線の演出・編集の戦略性は明らかだが、ここでアリスをわずかにスクリーンににじり寄らせる動作を入れることで、ジョーの視線からは、スクリーンがアリスの背中越しに(肩なめで)見えるように、ふたりの位置関係を前後にあらかじめずらしていることも、また見逃してはならない。
このふたりの位置関係の前後のずれによって、アリスが流す涙は、ジョーの視線からは死角になって、見えないようになっているのだ。*5
この直前のシーンで、保安官代理の父との口論で、ジョーがアリス(とその父親)のために流した涙をアリスが知らないように、ここでは、目の前のアリスがジョー(とその母親)のために涙を流していることに、ジョーは気づかない。
お互いに母親のない、欠損家族の子供どうしでありながら、他人(と他人の親)のためにしか素直に泣くことのできないふたりの、この涙をめぐるすれ違いのドラマの演出が、ほんの数フィート、少女が座ったまま身を乗り出す仕草によって、ここでは可能になっているのだ。こうした繊細な演出術ができる映画作家が、いま世界ではたして何人存在するだろうか。*6
また、サイレント・フィルムを見ながら涙を流すアリスは『女と男のいる舗道』(ジャン=リュック・ゴダール、1962)で『裁かるゝジャンヌ』(カール・T・ドライヤー、1928)を見ながら涙を流したアンナ・カリーナを、まったく別なスタイルで反復/変奏しているともいえるのだ。*7
ジョーの家から帰宅後、父親と口論になり家を飛び出したアリスは、彼女を追って自動車事故を起こした父親の目の前で、エイリアンに拉致される。*8
現像されたフィルムの事故映像で、エイリアンの姿を確認した少年グループは、空軍の検問を突破して、アリスの救出作戦を実行する。
一時は空軍に拘束された保安官代理は、空軍兵士の服装を奪って脱走すると、デイナードとともに「わたしたちの子供」の救出に向かう。車の助手席のデイナードが謝罪するのを遮るように、運転席の保安官代理は、あれは事故だったんだ、と言うのだが、その二度くりかえされるセリフは、最初口元のアップだけで示され、ここでも視線は安易に交わされることはない。*9
母親の墓のある、墓地の地下のエイリアンの巣で、アリスを助け出したジョーは、暴れ続けるエイリアンと正面から向き合う。長いあいだ、空軍の捕虜として生体実験材料にされてきたため、地球から脱出する願いと、人間への憎悪と復讐の念に揺れ動くエイリアンに対し、辛いこともある、でも生きていける、と語りかけて、地球からの離脱を促すのだ。
このジョーとエイリアンの対話での視線の演出・編集は、ふたりの人物(?)の顔のアップが、長い時間向き合って見つめあう、この映画では異例のものになっている。
見つめあうふたりの顔のアップは、切り返しでカットバックされるが、ジョーの顔のアップはエイリアンの見た目ショット(POV)なのに対して、エイリアンの顔のアップは、ジョーの肩なめショットであり、この切り返しの編集で、両者の視点は対称形にはなっていない。その理由は、ジョーのうしろにはアリスが立っていて、ふたりの会話を見つめているからだ。
ジョーの肩なめショットで捉えられたエイリアンの顔のアップは、決して非人称的なカメラの視点によるものではなく、そこにはジョーの背後からエイリアンを見つめるアリスの視点が入っているのだ。
ここでは、8ミリフィルム上映時の、スクリーンに向かったジョーとアリスの前後の位置関係が、逆転していることに注意しよう。ジョーがアリスの背中越しにスクリーンの母親を見ていたように、ここではアリスがジョーの背中越しに、エイリアンの顔を見ている。そして、ジョーがエイリアンに語りかける言葉は、背後から視線を送るアリスへのメッセージでもあるのだ。辛いこともある、でも生きていける、と。
それはまた、アリスの視線と共に、スクリーンを見つめる観客全員に対するメッセージでもあり、とりわけ、とつぜんの不幸によって、身近な存在を失った人々に対して、フィクション映画が届けることができる精一杯のメッセージになっている。*10
このメッセージは周到な視線の演出によって、観客の感情の奥底にまで届けられているのであって、決して口先だけのセリフではない。
ジョーたちが地下から脱出すると、地上では、町中の物資や、空軍の貨物の特殊キューブを吸い上げて、給水塔を軸にして、エイリアンの宇宙船が夜空に構築されていくのが見える。
そこへ保安官代理の父とデイナードのふたりが到着し、近づいてくるのを、ジョーは黙って見つめる。父は「もう大丈夫」とだけ呟いてジョーを抱きしめ、デイナードも娘を黙って抱きしめる。
あとは二組の親子が、夜空に宇宙船が飛び立つのを黙って見送るだけなのだが、ジョーの手に握られた母親の形見のペンダントも宙に吸い上げられと、その蓋がパチンと音を立てて開き、幼いジョーを抱いた母親の写真が夜空にアップに浮かぶ。
ペンダントの写真の妻/母の映像を保安官代理とジョーは目で追うが、ペンダントは宇宙船に吸い付くと、給水塔のタンクが破裂し、町一帯に一瞬の雨を降らせて、宇宙船は上昇していく。全員分の涙が、町中に降り注ぐ。*11
ジョーとアリスは掌をピッタリとあわせて手を握りあい、無言で夜空を見上げる。*12
雪の日の母親の葬儀に始まった映画は、夏の夜の涙雨で、無言のうちに終わりを告げる。*13
(2011年7月4日初出)
http://www.youtube.com/watch?v=omQFST6RPvY

映画時評2009-2011

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*1:蓮實重彦が「映画時評〔32〕」(「群像」2011年8月号)で指摘するように、リリアンという町は、そのネーミングや、少年たちがロケする駅のたたずまいからして、1979年のオハイオ州に再構成された「スモールタウン」である。蓮實重彦『映画時評2009‐2011』163‐167頁、講談社、2012

*2:音響効果として、子供たちが歌う「マイシャローナ」がそこに加わる。http://www.youtube.com/watch?v=g1T71PGd-J0

*3:町山智浩によればJ.J.エイブラムスが少年時代(1979年当時)に見たロメロ映画は『ゾンビ』(1978)らしいが、この野原での射殺ショットの元ネタは『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』だと思う。蓮實重彦の時評でも『ゾンビ』ではなく『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の名前を挙げている。また『SUPER8/スーパーエイト』で、エイリアン救出のために列車事故を起こす黒人生物学教師グリン・ターマンの「黒一点」キャスティングは『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の主演黒人俳優デュアン・ジョーンズの孤立無援と対応・共鳴するものがある。

*4:父親との口論のあと、ジョーが自転車で墓地に向かい、母親の墓の前で地面に寝そべる場面も素晴らしい。

*5:アリスの涙がジョーからは見えてないという指摘は、秋日和さんからいただいた(http://akibiyori.laff.jp/b/2011/06/post-0a1c.html#comment-45424278)。アキビー氏との対話からは、いつも素晴らしい刺激を受けています。多謝。

*6:アリス役のエル・ファニングを「女優」として演出する腕前は、ほとんど反スピルバーグ的というか、むしろ澤井信一郎的とさえ言っていいのではないか。

*7:この8ミリフィルムの上映は、その開始と同様、とつぜん終了する。終了したリールがカラカラと音を立てて空回りする様子は、『LOFTロフト』(黒沢清、2006)の謎のフィルム(16ミリ?)「ミドリ沼のミイラ」の上映終了場面を連想してしまい、思わず慄然となってしまった。

*8:夜の道を自転車で全力疾走で逃げる娘、それをマスタングで追いかけて衝突事故を起こす父親。エイリアンによるアリスの拉致は、ダグラス・サーク的なエモーションにあふれた、この娘と父の逃走/追跡劇に終止符を打つ役割を負うだけのものでしかない。こうしたところが「エイリアン映画」としてのこの作品の大きな欠点なのだろう。

*9:こういう演出を見ていると、アメリカ人よりも日本人の方が正面から視線をあわせて会話する場面が多いような気がしてくる。また、デイナードをラストシーンの現場に連れて行って立ち会わせることが、映画後半における保安官代理の最も重要な説話論的使命であり、その点から見れば、一見物足りなく見える保安官代理の活躍ぶりは、申し分のないものだと言えよう。

*10:『SUPER8/スーパーエイト』は日本の「3.11」に対するアメリカからの映画的回答でもある。『ヒア アフター』(クリント・イーストウッド、2010)で大津波を予言し、『SUPER8/スーパーエイト』で被災者へのメッセージをいち早く送ってきたアメリカ映画は、日本映画が範とすべき偉大な存在である。

*11:やはり言っておこう。これを見て泣かないヤツはバカだ、と(むろん、これを見て泣くヤツはもっとバカなのだが…)。なお、これは母と子の別れの儀式であるだけでなく、夫と妻の別れの儀式でもある。「通過儀礼」概念の安易な適用による図式的読解には要注意。

*12:あらためて言うまでもないが、ジョーとアリスは、見つめあうことや抱き合うことではなく、等方向の視線を共有することで、結ばれるカップル(アベック?)なのだ。ふたりが右の掌と左の掌をピッタリと重ねて握り合うアップに、黒沢清門下の俊英・古澤健の傑作格闘技映画『アベックパンチ』、とりわけ水咲綾女がパートナー牧田哲也の掌に、幼い日の掌の父親の感触を重ね、さらに唇を重ね合わせる場面を思わず想起してしまった。必見。http://www.enterbrain.co.jp/cp/avecpunch/http://abecasio.blog108.fc2.com/blog-entry-970.html

*13:全員が黙って空を見上げる、セリフなしのラストシーンが、ジョーの母親を映したサイレントの8ミリフィルムに対応していることを、あらためて指摘しておこう。