2013年映画ベストテン&勝手に映画賞
『ブッダ・マウンテン〜希望と祈りの旅』(リー・ユー)
『ペコロスの母に会いに行く』(森崎東)
『デッドマン・ダウン』(ニールス・アルデン・オプレブ)
『パッション』(ブライアン・デ・パルマ)
『東北記録映画三部作』(酒井耕・濱口竜介)
『ホーリー・モーターズ』(レオス・カラックス)
『奪命金』『名探偵ゴッドアイ』(ジョニー・トー)
『ムーンライズ・キングダム』(ウェス・アンダーソン)
『女っ気なし』『遭難者』(ギヨーム・ブラック)
『眠れる美女』(マルコ・ベロッキオ)
『ブッダ・マウンテン』の詳細はhttp://d.hatena.ne.jp/jennjenn/20131005/p1。
『ペコロスの母に会いに行く』は、酒乱夫・加瀬亮がカラにした給料袋が手紙の封筒に変わり、原田貴和子へ幼馴染・原田知世からの返信を届けるという映画的奇跡を体現。手毬歌と再会のスローモーションは「加藤泰越え」を体現。
『デッドマン・ダウン』は今年のアメリカ映画のベスト。ノオミ・ラパスのメイクとアップでデ・パルマ『パッション』に勝り、イザベル・ユペールへの演技指導(!)でベロッキオ『眠れる美女』に勝る(笑)。ニューヨーク・ロケが素晴らしい。
『パッション』はまるでシャブロルが英語圏のキャストを使って撮った米独仏共同製作映画みたいな成熟した演出。後半のデ・パルマ節はお約束。
『東北記録映画三部作』は反則ギリギリの切り返しショットで捉えた出演者(被災者)が全員魅力的。会話がワイズマンのように面白い。
『ホーリー・モーターズ』はカラックス&ドニ・ラヴァンのコンビ健在をアピール。
ジョニー・トーは『奪命金』が本命だが、東映ゲリラコメディ香港別動隊(?)の大穴『ゴッドアイ』も加えての出血大サービス2本立て(笑)。
『ムーンライズ・キングダム』はブルース・ウィリスの心優しい孤独な警官役に感動。裸のビル・マーレイの「I'll be out back」(裏庭にいる)にも笑わされた。
ギヨーム・ブラックは2本で1本分。フランス映画では久々の若手の台頭。
『眠れる美女』は携帯電話とイザベル・ユペールの使い方(笑)がうまくいってないが、ベロッキオは健在。
2013年「勝手に映画賞」は以下の通り。
女優賞;赤木春恵(『ペコロスの母に会いに行く』)、田中裕子(『共喰い』)
男優賞;山崎努(『奇跡のリンゴ』)、村上淳(『モンスター』)
新人賞;菅田将暉(『共喰い』)、真凛、咲世子(『ソウル・フラワー・トレイン』)
撮影賞;浜田毅(『ペコロスの母に会いに行く』)
編集賞;森崎荘三(『ペコロスの母に会いに行く』)
録音賞;本田孜(『ペコロスの母に会いに行く』)
美術賞;若松孝市(『ペコロスの母に会いに行く』)
衣装賞;黒澤和子、鍛本美佐子(『そして父になる』)
脚本賞;阿久根知昭(『ペコロスの母に会いに行く』)
音楽賞;星勝、林有三、豊田裕子(『ペコロスの母に会いに行く』)
監督賞;酒井耕、濱口竜介(『東北記録映画三部作』)
タイアップ賞:ソニー生命保険株式会社、長崎ランタンフェスティバル(『ペコロスの母に会いに行く』)
出版賞;鈴木則文(『東映ゲリラ戦記』)
レビュー賞;筒井武文(キネマ旬報11月下旬号『デッドマン・ダウン』評)
以上、部門別に「勝手に映画賞」を選出しましたが、これはあくまでも当方の勝手な判断によるものですので、受賞された方もされなかった方も、どうかいっさい気になさらないで下さい(笑)。
2014年はよい年でありますように。
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『ブッダ・マウンテン〜希望と祈りの旅』(リー・ユー)
http://www.buddha-mountain.com/introduction.html
http://www.tsutaya.co.jp/works/60004315.html
予告編・本編ともに素晴らしい。
2010年第23回東京国際映画祭最優秀芸術貢献賞、最優秀女優賞(ファン・ビンビン)受賞作品がようやく一般公開されたが、文句なしの傑作である。
『ロスト・イン・北京』(2007)に続くリー・ユー作品出演で、歌手としての魅力も披露しているファン・ビンビン、若い頃の佐藤浩市の不機嫌さを連想させるチェン・ボーリンの仏頂面、癒し系の裸体で画面を和ませるフェイ・ロン(体重はヒミツw)。
このトリュフォー的(?)男女三人の組み合わせがまず魅力的だが、その三人の大家としてアパートで共同生活することになる、元京劇女優役のシルヴィア・チャンが何よりも素晴らしい。
どことなく左幸子を思わせる、切れ長の眼で視線を宙に彷徨わせる彼女の横顔を、カメラは何度となく捉えて印象的だ。
(以下ネタバレあり)
シルヴィア・チャンの、どこを見ているのか定まらないその視線は、2008年5月の四川大地震の日に自動車運転中に死んだ息子の姿を追い続けているかのようだ(死後一年して、彼女は息子の死亡届をようやく提出する)。
『ブッダ・マウンテン』では、人物たちは正面から向き合おうとせず、ほとんど目を合わせることなく会話する。当然、古典的な切り返しショットは皆無だ。
ほぼ全編手持ちカメラによるツォン・ジエン*1の見事な撮影は、その合わずに浮遊する視線を、いかにも現代的、流動的なカメラワークで人物間を左右・上下にパンしながら追っていくのだが、その被写体が、列車、バイクといった乗り物に代わった瞬間、ショットの完成度と官能度が一気に高まるのが、この映画の一つの見どころになっている。
2009年の成都を舞台にした、元京劇女優と男女三人の共同生活は観音山(ブッダ・マウンテン)の上でシルヴィア・チャンが画面からとつぜん消失することで終わりを遂げる(三人が列車の警笛に気を取られた一瞬のあいだに、シルヴィア・チャンは画面から消失してしまう)。
三人だけが乗った列車(貨車)を捉えたラストシーンでは、トンネルを抜けて走る貨車に座って後方をみつめる三人を正面から捉えたショットが、三人の目線から捉えたトンネルの向こう側の光のショットとカットバックされる。この作品中初めてといっていい、人物の視線を正面から捉えた構図‐逆構図の切り返しショットである。
冒頭部の京劇の稽古場のシルヴィア・チャンの登場シーンでは、稽古場を出た彼女の背中を追ったカメラが通路の暗がりに入ると、その暗がりのショットからトンネルの暗がりを抜けて走行する列車の後方カメラにジャンプカットしていたことを思い出そう。*2
その列車のショットが、バイク・タクシーで客を運ぶチェン・ボーリンのショットに切り替わると「2009年四川省成都」という字幕が入り、そこで初めて時間と場所が特定されていた。
この映画で「2009年の成都の物語」が始まったのは、正確にはチェン・ボーリンの登場シーンからのことで、冒頭部のシルヴィア・チャンの登場シーンは、時間も場所も不確定なものであったのであり、稽古場を出て暗がりに消えたシルヴィア・チャンは、そのままトンネルを抜ける列車に変身した、ほとんど幽霊のような存在だったのだ。
そんな彼女が、列車の音をきっかけに山上から消失するということには、なんの神秘も謎もない。それは映画的に当然の結末というべきだろう。
「孤独は永遠じゃない。共にあることが永遠」
ラストで列車に乗ってトンネルを抜けることで「2009年の成都の物語」を終えようとしている三人は、冒頭「2009年の成都の物語」が始まる直前に列車に変身してトンネルを抜けたシルヴィア・チャンと、文字通り「共にある」のだ。トンネルを抜ける列車は特定の時間に縛られることなく走行し続けることによってまさに「永遠」である。
またシルヴィア・チャンは列車に変身しただけでなく、暗がりの中でトンネルとも一体化したのだと考えれば、車上の三人と切り返しで視線を交わしている視点もまた、トンネル側から見返す彼女のものということになる。
劇中まともに視線を交わすことのなかったかれらが、ようやく正面からの切り返しで見つめ合うことが可能になったのだ。
永遠にトンネルを抜ける列車の上で、共にあること、見つめあうこと。
ここには、視点と時間構造について考え抜いた作家ならではの、ショットの力による映画的奇跡がある。*3
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*1:Zeng Jian、曹剣「ツアン・チアン」とも表記。『スプリング・フィーバー』(ロウ・イエ、2009)の撮影監督。
*2:暗がりからトンネルへのつなぎを単なる暗転と言うこともできるが、ジャンプカットの語義を「跳躍‐切断」とリテラルに捉えるならば、ここには「暗闇の中の跳躍‐切断」がある。
*3:日本公開版とは別編集による101分バージョンが存在するが、このバージョンでは冒頭のシルヴィア・チャンの登場シーンもなければ暗がりからトンネルを抜ける列車へのジャンプカットもなく、「2009年成都」という時間と場所に関する字幕もない。そのために、シルヴィア・チャンが列車の音をきっかけに山上から消失するラストが日本公開版と違って、映画的必然性を欠いた、一種の超常的な神秘現象におさまっている。2つのバージョンの冒頭部を見比べると、編集(+追加撮影?)による進化を実感できるだろう。https://www.youtube.com/watch?v=mzJrx55GBfI
『結婚式・結婚式』(中村登、1963)
http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2009-12/kaisetsu_35.html
http://filmex.net/2013/sp1.html
77歳の喜寿を迎えた製鉄会社社長・伊志井寛とその「糟糠の妻」田中絹代は家族から京都旅行をプレゼントされる。
京都は初めての田中は、夫の伊志井は芸者同伴で何度も来てるだろうと皮肉を連発して、夫婦間には早くも険悪ムードが漂っている。
高級魚肉が大好きな食いしん坊の伊志井は、肝心要の入れ歯を家に忘れてしまい、それを田中のせいにして大ゲンカになる。入れ歯と食事に愚痴り続ける伊志井のワガママな態度に激怒した田中は攻守逆転すると、東京から入れ歯を届けに着た次女・榊ひろみの前で、新しい着物を夫婦ゲンカの「賠償」として買ってもらう約束を勝ち取る。
そこへ東京からの電話で、三男・川津祐介と伊志井の亡き友人の娘・岩下志麻との急な結婚を知らされ、結局賠償の着物も買う暇もなく東京へとんぼ返りすることになる(お見合い帰りの岩下志麻の川津への涙目の求婚はオトコ心をワシ掴み!)。
岩下の亡父は伊志井の共同経営者で、伊志井は社長室に重役陣を招集すると、全社を挙げて結婚式を祝福するよう依頼する。
社長室の壁いっぱいにかかった写真のなかには、背広姿で微笑む笠智衆が岩下の亡父役で特別出演。笠のニッコリ写真に客席は大爆笑だが、これが小津の遺作『秋刀魚の味』に続く笠・岩下の父娘役共演(?)かと思うと、笑ってばかりはいられない。
かなり下世話なかたちではあるが、食事の主題への執拗なこだわり(入れ歯を忘れた伊志井は豆腐料理しか食べられず不機嫌になる)や衣装の主題をからめた娘の結婚話であることを思うと、この笠智衆の「遺影」を負の中心に据えた中村登の結婚喜劇は、小津原案に基づいて、岩下が失踪中の笠の「隠し子」として登場する『大根と人参』(渋谷実、1965)以上に見事な小津追悼作品となっていることに否が応でも気付かされる。
伊志井は川津・岩下の婚礼を機に、勘当中の長女・岡田茉莉子と「ビンボウ左翼医者」の夫・田村高広との和解を含めた長女夫婦と三男夫婦の同時挙式を画策する。
と、その同時挙式に便乗するかたちで次女・榊ひろみもアメリカ人の恋人とのさらなる同時挙式を追加提案して、伊志井・田中の両親からそろって猛反対を受ける。
しかし、浪人中の四男・山本圭も国際結婚賛成派の熱弁をふるい、ふだんは「反米左翼」の活動家医師・田村も義妹のアメリカ人との結婚には賛成、国際結婚反対に同調してくれるのは長男で部下の増田順司とその妻・丹阿弥谷津子の「追従組」だけという状況に、国粋派・伊志井は癇癪を起こして、意地でも国際結婚絶対反対を貫こうとする。
そんなところへ、北海道から次男・佐田啓二が到着すると、いつもの構えた演技と違う、肩の力の抜けたざっくばらんな味わいトークで国際結婚に賛成意見を語ると、父・伊志井の敗北をあっさり宣言する(お父さんは入れ歯だから歯がたたないんだよ…)。
正直いって、佐田啓二の芝居をはじめてウマイと思った、というか、こんな軽妙な芝居もやればできるんだ、と感心してしまった。
すったもんだの末の3組同時挙式の当日(「結婚式・結婚式・結婚式」だ!)、貸し衣装ながら純白のウェディングドレス姿の美しい岡田茉莉子が「ビンボウ左翼」の矜持から豪華挙式を渋る夫・田村高広に、何とか貸し衣装のモーニングを着せてその足元を見てみると、黒の礼服に靴だけが妙に真っ白なスニーカー。
とっさに佐田啓二の黒い革靴と白黒チェンジするが、その佐田のモーニングの袖には前回参列した葬式の喪章がついたまま、というダメ押しのギャグの連発に、小津的な衣装の主題(冠婚葬祭コスプレ)をめいっぱい露呈させているあたりの小津的世界への徹底した同調ぶりは、さすが、というほかないだろう。
『結婚式・結婚式』が小津作品と決定的に違うところは、3組の花嫁・花婿が画面にあからさまに登場していることと、小津作品においては式をきっかけに家族がバラバラになるのに対して、ここでは結婚式によって新旧家族が集まるという、小津的な「一家離散」を意識的に反転した、全員集合パターンになっているところだろうか(ここでの「結婚式」は長女・次女を他家へ「嫁」に出すための「別れの儀式」として演じられているわけではない。むしろ「ビンボウ左翼医者」と「アメリカ人男性」を長女と次女の正式な「婿」として一家に新しく承認・歓迎するためのセレモニーとして「結婚式」が演じられているというべきだろう)。
笠智衆(!)、岩下志麻、岡田茉莉子、田中絹代、佐田啓二ら、小津映画ゆかりのキャストに厚田雄春の撮影で、これほど笑いに満ちた悦ばしい小津追悼作品を撮りあげた中村登こそ、最良の意味での「松竹的」な映画作家と呼べるだろう。
…と、ここまで書いてきて『結婚式・結婚式』の公開日が1963年7月13日であることに気が付いて、思わず愕然としてしまう。小津の命日(兼誕生日)が同じ1963年の12月12日だから、この素晴らしい「小津追悼作品」は小津が亡くなるちょうど5ヶ月前に公開されたということになる。
当然その日は岡田さん、岩下さんをはじめ、出演者一同も(笠智衆ひとり不在のまま)舞台挨拶をしたことだろう。そして当然大きな拍手喝采に包まれたことだろう。
もしそうだったとすれば、これは映画史上めったにみられない「生前追悼」イヴェントと呼べるものなのではないだろうか。
中村登は松竹的であるだけでなく、小津安二郎に負けず劣らず残酷な映画作家なのである。
中村登作品では、岡田茉莉子主演の『河口』(1961)と『斑女』(1961)が、女優・岡田茉莉子の最高傑作として必見の2本。*1
(2009年11月28日初出)
『暖春』(1965)は小津安二郎・里見紝共同脚本のテレビドラマ『青春放課後』の見事な映画化。桑野みゆきが口ずさむ「鉄人二十八号」の歌声に、自分の青春の終わりを悟る岩下志麻の表情が素晴らしいのだが、もし小津本人が『青春放課後』を映画化していたとしても、桑野みゆきに「鉄人二十八号」は歌わせなかっただろう。
また堤玲子原作『わが闘争』(1968)は、東映レンタル・佐久間良子が、初対面成り行き心中の合間に、念願だった美少年童貞狩りに出かけて済ませて戻ってくる、驚愕の傑作。
(20013年12月1日追記)
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写真は『霧ある情事』(渋谷実、1959)から。
長岡博之撮影による湖上のボートの岡田茉莉子のアップは、カラー撮影によるアップとしては日本映画のベスト。
『SUPER8/スーパーエイト』
http://www.super8-movie.jp/
http://www.youtube.com/watch?v=HEVZyhkZc4E
1979年、オハイオ州のどこかにあるらしい、リリアンという町の夏休みの夜、8ミリフィルム(コダック・スーパーエイト)でゾンビ映画を撮るローティーンの映画少年グループが、空軍の「秘密物資」を積んだ貨物列車の爆発事故に遭遇し、その映像を偶然撮影する。その事故をきっかけに、町では犬の大量失踪、さらには保安官をはじめとする人々の失踪、機械・自動車部品の大量紛失、停電、通信障害が頻発する。やがて事故現場付近に火災が起こり、空軍から町全体に避難命令が出される。
いかにもスピルバーグ的なプロットからなる、J.J.エイブラムスの『SUPER8/スーパーエイト』のドラマとしての真の眼目は、空軍の「秘密物資」が引き起こす事件とそのサスペンスよりも、製鉄所の事故で母親を亡くした少年ジョーと、飲酒欠勤によって、その母親を死なせたことに罪責感をもつ男の娘アリスを、同じ映画少年グループに編入させて、その感情の機微を繊細に描いているところにある。
(以下ネタバレあり)
少年の父親は町の保安官代理、少女の父親ルイス・デイナードは、飲酒や薬物でトラブルを起こしては連行される町の厄介者。妻は家を去って、娘のアリスとふたり暮らしをしている。
映画は、「リリアン製鉄所」の連続無事故日数を示す看板の数字が、784から1に架け替えられるショットから始まり、製鉄所勤務の少年の母親の事故死が簡潔に語られる。*1
雪の日の葬儀後の会食で、家の中には親戚一同や、ジョーの映画づくりの友人仲間が集まっているなか、ジョーはひとり庭のブランコに腰掛けて、手元の母親の形見のペンダントを見つめている。雪の庭のブランコに、ひとりで座るジョーの姿を捉えたロングショットは、肝心の父親が、家のなかで右往左往して、家の外のジョーの姿を見失っている様子とあわせて、母親を亡くしたばかりの子供の喪失感を的確に表している。
そこへ重低音が断続的に震える、特徴的なエンジン音を響かせて、一台のマスタングが玄関先に乗りつけると、酔ったようすのルイス・デイナードが弔問に現れる。しかし、保安官代理の父親とすぐ口論になり、いきなりパトカーに乗せられて、その場から連行されてしまう。そのふたりの争う様子をブランコに座ったジョーは無言で見つめ、ジョーと一瞬目が合った父親はすぐ戻る、と言い残すと、パトカーで立ち去ってしまう。
ジョーはペンダントの写真の蓋を閉じると、そのパチンと閉じる音とともに画面は「4ヶ月後」という字幕を介して、夏休み直前の学校の情景に変わる。
この冒頭の雪の葬儀の日の演出は、無言のまま、ひとり庭のブランコに座るジョーの視線の動きだけで、母親を亡くしたばかりの少年の喪失感を表していて見事というだけではない。そこへマスタングに乗ったデイナードを登場させることで、妻を亡くした父と、母を亡くした息子との齟齬、さらには、その妻/母を死なせた男に対するふたりの感情の温度差までをも、ブランコと家との絶妙な距離を介した視線の切り返しをまじえた律儀なカット割りによって表しているところに、J.J.エイブラムスの映画作家としての力量がはっきりと現れている。
しかも、パトカーが去ったあと、家の前にはデイナードのマスタングが乗り捨てられたままになっているのだが、その同じマスタングが4ヵ月後の夏の夜、例の特徴的なエンジン音を響かせながら、娘のアリス・デイナードの運転(無免許!)によって、ジョーの前に再登場することになるのだから、説話展開上での聴覚的な伏線配置、音響効果の配分としてもまた見事というほかない。*2
ゾンビ映画の撮影を通して、メイク担当の少年ジョーと主演女優の少女アリスは、父親同士の確執を乗り越えて、互いに惹かれあうことになるのだが、そこでふたりを仲介するのが、二種類の8ミリフィルムであることにも注目しなければならない。
列車事故のために、一度は中断したゾンビ映画の撮影を再開するため、ジョーはアリスの家を訪ねて、あらためて出演を依頼するが、ジョーが保安官代理の息子だと気づいた、父親のデイナードに乱暴に追い返される。その父親の態度に、一度は事故の不安から出演を断ったアリスも、再度の出演を承諾する。
すると画面は、悲鳴と銃声とともに、野原でゾンビが銃で撃たれる『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(ジョージ・A・ロメロ、1968)そっくりの一場面に切り替わると、少年グループはもう撮影を再開しているのだ。じつに見事な編集の呼吸。遠景には列車事故の残骸が散乱し、ロケ地周辺では兵士や軍車両が調査しているのだから、事故目撃者である少年グループは、ロメロ映画の登場人物さながらの不安な表情を浮かべつつ撮影を続ける。これこそジョージ・A・ロメロ先生に対する最高のリスペクトというものだろう。*3
列車事故後、犬と人の失踪、機械・部品の紛失、停電・通信障害が町に頻発し、ジョーの父の保安官代理は、それが空軍の活動と関係していることに気づく。しかし、ジョーの父親の映画に対する貢献は、保安官代理としての活躍よりも、むしろ8ミリフィルムに関わる部分のほうが重要だ。事故によって壊れた少年グループのカメラの代わりに、ジョーの父親の8ミリカメラが新たに撮影に用いられるところから、『SUPER8/スーパーエイト』という作品の新しい映画的な次元が広がっていくのである。
父親どうしの確執から、保安官代理は息子のジョーにアリスとの交際の禁止を命じる。ジョーは父親に対してアリスを弁護し、涙を流すのだが、母親の死後もずっと無表情を保ってきたジョーが、ここではじめて涙を流すというタイミングにも注目しなければならない。*4
その日の夜、ジョーの部屋にアリスが窓から訪ねてきて、停電の暗い部屋のなかの会話で、お互いの感情をあらためて確かめあう。そのとき、とつぜん8ミリの映写機が動き出すと、壁のスクリーンに幼いジョーを抱いた母親の映像が映し出され、映画は死者の映像と視線をめぐって、新しい次元へと進み出す。
このとつぜんの8ミリフィルムの映写は奇跡的な瞬間だ。それまでのゾンビ映画も、もちろん8ミリフィルムで撮影されていたが、それは音声付のトーキー映像だったのに対し、ここで映しだされる母と子の映像は、サイレントフィルムなのだ。
それは、若き保安官代理がまだ幸福だった頃、美しい妻と幼い息子の成長する姿を記録したプライヴェートフィルムであり、ジョーとアリスは、そのサイレント映像の母子を見つめ、また、夫のカメラを見つめる母親に、スクリーンの中からふたりは見つめられる。カメラを通して、息子を抱いた妻と見つめあうジョーの父親の幸福な記憶映像と、ジョーとアリスの視線が重なり合う倒錯的な瞬間。そこには、夏の日差しを浴びたブランコが揺れて、母親の首には、本来はジョーの誕生の記念品である「形見」のペンダントが掛かっている。
リールの回転音がカタカタ鳴るなか、ジョーは、こうして母親に見つめられていると、自分が実在することが感じられた、とつぶやく。アリスは涙ぐみながら、父親のデイナードが酔って欠勤した代わりに、ジョーの母親が事故死したこと、デイナードは自分が死ねばよかったと今でも後悔し、またアリスもそう思っていることを、告白する。
この8ミリフィルムを前にした、ふたりの会話場面におけるJ.J.エイブラムスの視線の演出・編集は、じつに周到かつ戦略的なものだ。
上映が始まる前段のふたりの会話を、映写機をあいだにはさんで、アリスを画面左側、ジョーを画面右側に配し、ふたりの表情を正面からの切り返しではなく、それぞれの横顔のアップを交互につないでいる。この段階では視線は正面から向き合わない。
正面からの切り返しショットによって視線が交わるのは、8ミリフィルムの上映開始後だ。スクリーンに映った母と子の映像と、そのスクリーンを見つめるアリスとジョーのふたりが、切り返しでカットバックされる。スクリーンのなかでカメラを見つめる母親と、スクリーンを見つめるジョーとアリスの視線が交錯する。
スクリーンの中の死んだ母親と、ふたりの子供の視線が切り返しで交錯する。これだけでも、J.J.エイブラムスの視線の演出・編集の戦略性は明らかだが、ここでアリスをわずかにスクリーンににじり寄らせる動作を入れることで、ジョーの視線からは、スクリーンがアリスの背中越しに(肩なめで)見えるように、ふたりの位置関係を前後にあらかじめずらしていることも、また見逃してはならない。
このふたりの位置関係の前後のずれによって、アリスが流す涙は、ジョーの視線からは死角になって、見えないようになっているのだ。*5
この直前のシーンで、保安官代理の父との口論で、ジョーがアリス(とその父親)のために流した涙をアリスが知らないように、ここでは、目の前のアリスがジョー(とその母親)のために涙を流していることに、ジョーは気づかない。
お互いに母親のない、欠損家族の子供どうしでありながら、他人(と他人の親)のためにしか素直に泣くことのできないふたりの、この涙をめぐるすれ違いのドラマの演出が、ほんの数フィート、少女が座ったまま身を乗り出す仕草によって、ここでは可能になっているのだ。こうした繊細な演出術ができる映画作家が、いま世界ではたして何人存在するだろうか。*6
また、サイレント・フィルムを見ながら涙を流すアリスは『女と男のいる舗道』(ジャン=リュック・ゴダール、1962)で『裁かるゝジャンヌ』(カール・T・ドライヤー、1928)を見ながら涙を流したアンナ・カリーナを、まったく別なスタイルで反復/変奏しているともいえるのだ。*7
ジョーの家から帰宅後、父親と口論になり家を飛び出したアリスは、彼女を追って自動車事故を起こした父親の目の前で、エイリアンに拉致される。*8
現像されたフィルムの事故映像で、エイリアンの姿を確認した少年グループは、空軍の検問を突破して、アリスの救出作戦を実行する。
一時は空軍に拘束された保安官代理は、空軍兵士の服装を奪って脱走すると、デイナードとともに「わたしたちの子供」の救出に向かう。車の助手席のデイナードが謝罪するのを遮るように、運転席の保安官代理は、あれは事故だったんだ、と言うのだが、その二度くりかえされるセリフは、最初口元のアップだけで示され、ここでも視線は安易に交わされることはない。*9
母親の墓のある、墓地の地下のエイリアンの巣で、アリスを助け出したジョーは、暴れ続けるエイリアンと正面から向き合う。長いあいだ、空軍の捕虜として生体実験材料にされてきたため、地球から脱出する願いと、人間への憎悪と復讐の念に揺れ動くエイリアンに対し、辛いこともある、でも生きていける、と語りかけて、地球からの離脱を促すのだ。
このジョーとエイリアンの対話での視線の演出・編集は、ふたりの人物(?)の顔のアップが、長い時間向き合って見つめあう、この映画では異例のものになっている。
見つめあうふたりの顔のアップは、切り返しでカットバックされるが、ジョーの顔のアップはエイリアンの見た目ショット(POV)なのに対して、エイリアンの顔のアップは、ジョーの肩なめショットであり、この切り返しの編集で、両者の視点は対称形にはなっていない。その理由は、ジョーのうしろにはアリスが立っていて、ふたりの会話を見つめているからだ。
ジョーの肩なめショットで捉えられたエイリアンの顔のアップは、決して非人称的なカメラの視点によるものではなく、そこにはジョーの背後からエイリアンを見つめるアリスの視点が入っているのだ。
ここでは、8ミリフィルム上映時の、スクリーンに向かったジョーとアリスの前後の位置関係が、逆転していることに注意しよう。ジョーがアリスの背中越しにスクリーンの母親を見ていたように、ここではアリスがジョーの背中越しに、エイリアンの顔を見ている。そして、ジョーがエイリアンに語りかける言葉は、背後から視線を送るアリスへのメッセージでもあるのだ。辛いこともある、でも生きていける、と。
それはまた、アリスの視線と共に、スクリーンを見つめる観客全員に対するメッセージでもあり、とりわけ、とつぜんの不幸によって、身近な存在を失った人々に対して、フィクション映画が届けることができる精一杯のメッセージになっている。*10
このメッセージは周到な視線の演出によって、観客の感情の奥底にまで届けられているのであって、決して口先だけのセリフではない。
ジョーたちが地下から脱出すると、地上では、町中の物資や、空軍の貨物の特殊キューブを吸い上げて、給水塔を軸にして、エイリアンの宇宙船が夜空に構築されていくのが見える。
そこへ保安官代理の父とデイナードのふたりが到着し、近づいてくるのを、ジョーは黙って見つめる。父は「もう大丈夫」とだけ呟いてジョーを抱きしめ、デイナードも娘を黙って抱きしめる。
あとは二組の親子が、夜空に宇宙船が飛び立つのを黙って見送るだけなのだが、ジョーの手に握られた母親の形見のペンダントも宙に吸い上げられと、その蓋がパチンと音を立てて開き、幼いジョーを抱いた母親の写真が夜空にアップに浮かぶ。
ペンダントの写真の妻/母の映像を保安官代理とジョーは目で追うが、ペンダントは宇宙船に吸い付くと、給水塔のタンクが破裂し、町一帯に一瞬の雨を降らせて、宇宙船は上昇していく。全員分の涙が、町中に降り注ぐ。*11
ジョーとアリスは掌をピッタリとあわせて手を握りあい、無言で夜空を見上げる。*12
雪の日の母親の葬儀に始まった映画は、夏の夜の涙雨で、無言のうちに終わりを告げる。*13
(2011年7月4日初出)
http://www.youtube.com/watch?v=omQFST6RPvY
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*1:蓮實重彦が「映画時評〔32〕」(「群像」2011年8月号)で指摘するように、リリアンという町は、そのネーミングや、少年たちがロケする駅のたたずまいからして、1979年のオハイオ州に再構成された「スモールタウン」である。蓮實重彦『映画時評2009‐2011』163‐167頁、講談社、2012
*2:音響効果として、子供たちが歌う「マイシャローナ」がそこに加わる。http://www.youtube.com/watch?v=g1T71PGd-J0
*3:町山智浩によればJ.J.エイブラムスが少年時代(1979年当時)に見たロメロ映画は『ゾンビ』(1978)らしいが、この野原での射殺ショットの元ネタは『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』だと思う。蓮實重彦の時評でも『ゾンビ』ではなく『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の名前を挙げている。また『SUPER8/スーパーエイト』で、エイリアン救出のために列車事故を起こす黒人生物学教師グリン・ターマンの「黒一点」キャスティングは『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の主演黒人俳優デュアン・ジョーンズの孤立無援と対応・共鳴するものがある。
*4:父親との口論のあと、ジョーが自転車で墓地に向かい、母親の墓の前で地面に寝そべる場面も素晴らしい。
*5:アリスの涙がジョーからは見えてないという指摘は、秋日和さんからいただいた(http://akibiyori.laff.jp/b/2011/06/post-0a1c.html#comment-45424278)。アキビー氏との対話からは、いつも素晴らしい刺激を受けています。多謝。
*6:アリス役のエル・ファニングを「女優」として演出する腕前は、ほとんど反スピルバーグ的というか、むしろ澤井信一郎的とさえ言っていいのではないか。
*7:この8ミリフィルムの上映は、その開始と同様、とつぜん終了する。終了したリールがカラカラと音を立てて空回りする様子は、『LOFTロフト』(黒沢清、2006)の謎のフィルム(16ミリ?)「ミドリ沼のミイラ」の上映終了場面を連想してしまい、思わず慄然となってしまった。
*8:夜の道を自転車で全力疾走で逃げる娘、それをマスタングで追いかけて衝突事故を起こす父親。エイリアンによるアリスの拉致は、ダグラス・サーク的なエモーションにあふれた、この娘と父の逃走/追跡劇に終止符を打つ役割を負うだけのものでしかない。こうしたところが「エイリアン映画」としてのこの作品の大きな欠点なのだろう。
*9:こういう演出を見ていると、アメリカ人よりも日本人の方が正面から視線をあわせて会話する場面が多いような気がしてくる。また、デイナードをラストシーンの現場に連れて行って立ち会わせることが、映画後半における保安官代理の最も重要な説話論的使命であり、その点から見れば、一見物足りなく見える保安官代理の活躍ぶりは、申し分のないものだと言えよう。
*10:『SUPER8/スーパーエイト』は日本の「3.11」に対するアメリカからの映画的回答でもある。『ヒア アフター』(クリント・イーストウッド、2010)で大津波を予言し、『SUPER8/スーパーエイト』で被災者へのメッセージをいち早く送ってきたアメリカ映画は、日本映画が範とすべき偉大な存在である。
*11:やはり言っておこう。これを見て泣かないヤツはバカだ、と(むろん、これを見て泣くヤツはもっとバカなのだが…)。なお、これは母と子の別れの儀式であるだけでなく、夫と妻の別れの儀式でもある。「通過儀礼」概念の安易な適用による図式的読解には要注意。
*12:あらためて言うまでもないが、ジョーとアリスは、見つめあうことや抱き合うことではなく、等方向の視線を共有することで、結ばれるカップル(アベック?)なのだ。ふたりが右の掌と左の掌をピッタリと重ねて握り合うアップに、黒沢清門下の俊英・古澤健の傑作格闘技映画『アベックパンチ』、とりわけ水咲綾女がパートナー牧田哲也の掌に、幼い日の掌の父親の感触を重ね、さらに唇を重ね合わせる場面を思わず想起してしまった。必見。http://www.enterbrain.co.jp/cp/avecpunch/、http://abecasio.blog108.fc2.com/blog-entry-970.html
*13:全員が黙って空を見上げる、セリフなしのラストシーンが、ジョーの母親を映したサイレントの8ミリフィルムに対応していることを、あらためて指摘しておこう。
『任侠ヘルパー』
http://www.ninkyo-helper-movie.jp/
http://www.tsutaya.co.jp/works/60003104.html
海辺の再生のドラマ
草なぎ剛が主人公・翼彦一役を演じ、西谷弘が第1話、第8話、最終話、スペシャルと演出を担当したテレビドラマ版『任侠ヘルパー』(フジテレビ)での、ヤクザがヘルパーの研修を受けるという設定は、西谷弘の映画第一作『県庁の星』(2005)で、エリート県庁職員・織田裕二がスーパーマーケットで研修を受けるというものと、同型パターンだった。
エリート県庁職員と幹部候補のヤクザ、スーパーマーケットと介護施設という違いはあれ、研修先の「海辺の弱小施設」の再生作業を通して主人公自身も再生するという過程の描写に、西谷弘の作家的な一貫性を見ることができるだろう。*1
テレビドラマの最後ではヤクザからカタギになった草なぎ剛が、映画冒頭で刑務所入りしてヤクザに戻って「都落ち」することで、映画版『任侠ヘルパー』はあたかも「新網走番外地・介護篇」とでもいうべき、テレビドラマ版とは独立した様相を見せている。
テレビドラマ、映画ともに「任侠道、弱きを助け、強きを挫く」というボイスオーバーが使われているが、今回の映画化においては、その「任侠」の意味が「時代遅れのヤクザの義侠心」という一般的なレベルから、一種の「映画的な倫理」へと書き換えられていることに注意しなければならない。
このタイトルにも含まれる「任侠」の、映画的な書き換え作業がどのようなかたちでおこなわれているかを、具体的に確認していこう。
(以下、ネタバレ含む)
「着替えること」と「怒鳴ること」
深夜のコンビニのレジで、マニュアル通りの台詞を棒読みしながら接客していた草なぎ剛が、とつぜん同僚の店員(風間俊介)に刃物を突きつけて、カバンに金を入れる要求をしてきたフルフェイス・ヘルメットのコンビニ強盗の老人(堺正章)を、服の下の入れ墨を露わにしながら、あっさり取り押さえる。
草なぎはヘルメットの下の堺の白髪頭を確認すると、あらためてレジの現金をカバンに詰め、この金で足を洗えと堺に手渡して見逃す。その様子の一部始終は監視カメラの映像に撮影され、レジの損害金額は自分の給料から返済すると主張するが、カメラに映った入れ墨のために草なぎは店を解雇され、さらには警察相手に乱闘・逃走劇を演じて刑務所送りになる。
刑務所内で堺と再会した草なぎは、堺の元々所属していた暴力団・極鵬会への紹介状を彫った将棋の駒を渡される。
堺はあっさり病死し、その遺骨は音信不通だった娘・安田成美に引き取られる。出所した草なぎは子分志願の風間俊介の強引な出迎えを受けるが、ヤクザに敵意を持つ安田成美が草なぎに与える形式的な感謝の礼はよそよそしい。
コンビニ店員の制服から囚人服、服の下から見える背中の入れ墨と、冒頭部分に現れた主人公の外観の変化を見るだけで、この映画では衣装の主題、より正確には「着替えること」が主題論的に重要な身振りとなることが予想される。
堺正章の故郷である静岡県の大海市(熱海市?)には、バツイチの安田成美が認知症の母(草村礼子)と幼い娘と息子を抱えて働きながら暮らしている。
安田の高校時代の恋人で、現在「観光福祉都市プロジェクト」を進める二世市会議員で弁護士の香川照之はいまだ独身のまま、自宅介護の安田の母親のために、最新の介護施設を特別に斡旋しようとしている。
「組もシノギもない」草なぎは、風間とともに大海市の旅館に現れると、大広間に出張ホステス呼んでバカ騒ぎする。ひとりのホステス(夏帆)が宴会中に電話で中座し、その相手が地元のヤクザと知るや、草なぎは携帯電話相手に怒鳴りながら夏帆の服を破って押し倒す。電話の挑発に乗って旅館に現れた極鵬会組員(阿部亮平)たちを叩きのめすと、草なぎは堺の子分だったと詐称し、そのまま極鵬会・組長(宇崎竜童)、若頭(杉本哲太)に客人待遇として迎え入れられ、老人介護・宿泊施設「うみねこの家」を使った年金詐取のシノギを手に入れる。
草なぎと風間は「うみねこの家」の青いスタッフジャンパーに着替えると、リストアップされた老人たちを借金漬けにしては施設で飼い殺しにしようと、施設と病院と市役所を黒のワンボックスカーで往復しながら、年金と介護保険と生活保護の荒稼ぎを始める。
草なぎ剛が低音のヤクザなセリフでドスを利かし、杉本哲太、阿部亮平といった強面の男優を揃えた『任侠ヘルパー』は『アウトレイジ』『アウトレイジビヨンド』(北野武)と同様に「バッカヤロー」等々、多くの怒号・罵声が飛び交うが、そこで怒鳴るのは男だけではない。
「うみねこの家」の管理人(りりィ)は、ヘルパーの資格をもちながら、昼間から焼酎を飲んだくれている。杖をつきながら施設を案内するりりィは、老人たちや草なぎたちを杖を振り上げて怒鳴り、叱り飛ばす。決して大声ではないが、突き刺さるように発せられるりりィの罵声は素晴らしい。
このように怒鳴る男女がいる一方で、怒号を発しないグループも存在する。
演説と交渉を主武器とする弁護士/市会議員の香川照之は、もちろんヤクザのように怒鳴ることはない。またヤクザの中でも、組長・宇崎竜童は、劇中決して声を荒げることなくソフトな口調を保ち続ける。*2
「着替えること」と「怒鳴ること」。この2つの主題系が『任侠ヘルパー』という作品の重要な構成要素となっていることは、主人公・草なぎ剛が着替えと怒号という身振りを両方とも担う存在であること、またそれによって物語に決定的な変化と運動を導入していることからも明らかだろう。
怒鳴るだけ(ヤクザ)、着替えるだけ(ホステス)の存在なら他にもいるが、両方の身振りを一貫して演じられる存在はなかなかいない。
「着替えること」と「怒鳴ること」という主題系のほかに『任侠ヘルパー』にはもうひとつ重要なファクターがある。それは引き戸/カーテン等による空間分節(間仕切り)である。*3
引き戸による空間分節(間仕切り)
「ヤクザの世話は受けたくない」と草なぎたちの会計を支払って食堂を出た安田成美の背後で閉じた自動ドア、「うみねこの家」を囲む蛇腹式のアルミ壁、認知症の祖母を見舞いに行った幼い姉弟が「病室」から飛び出すときに慣性で自動的に閉じたスライド式の引き戸、ワンボックスカーから飛び出した男の子が草なぎに抱きついた背後で閉じた病院の自動ドア、入札会場の「殴り込み」で草なぎが通路を塞いだ防火扉、事故で入院した香川照之の病室のドア、等々、ここではすべての空間分節(間仕切り)が「引き戸」によって行われている、といっても過言ではない。
安田成美が運転する廃車寸前(?)の白のダイハツ・ハイゼット、草なぎと風間が「うみねこローン」の取引に使う黒のワンボックスカーと、車もスライド式ドアがメインで「引き戸」中心主義は徹底している。
空間を横に区切るものであれば、その仕切りは別に扉である必要はない。
「うみねこの家」の最初の訪問場面で、施設の老朽感、不潔感を演出していたのが、薄暗い照明設計以上に、個々の寝床を仕切るカーテンの薄汚れた質感だった。*4
また、香川照之が斡旋する最新介護施設では、清潔で新品のカーテンこそが、安定剤の過剰投与で呆けた草村礼子を周囲の視線から隔離する仕切りとして冷酷に機能していた。それは自動ドアでもないのに勢いで自動的に閉まる病室のスライド式ドアとあいまって「福祉社会」特有の空間分節を、祖母を見舞いに来た孫たちの前で体現していた。
草なぎたちは「うみねこの家」を改築し、そうした空間分節(間仕切り)を変えようとする。
そのきっかけとなるのが、安田成美による母親の介護施設からの強引な退去なのだが、映画前半のクライマックスをなす、この脱出/逃走劇のような緊迫感あふれる退去場面に至る安田成美の変貌ぶりが素晴らしい。
昼間はヘルメットに作業服で港湾労働者として働く安田成美は、香川照之の斡旋で母親が介護施設に入居すると、夜もホステスとして働き始め、店で早速香川の指名を受ける(店はスチュワーデス・サロン?)。
昼間のヘルメット・作業服の労働者から、夜はアクセサリーとドレス姿のホステスへ。安田成美もまた着替える存在なのだ。
見送りに店外に出たところで、安田に香川は強引にキスを交わすが、そのキスを安田は冷静に受け流すと、母の介護施設入所斡旋の礼を言って、香川を見送る。
安田が店内に戻ると、草なぎがカウンターに座っている。昼間、祖母を見舞ってショックを受けた子供たちに会った草なぎは、安田にも施設に見舞うよう忠告するが、安田はヤクザが子供に近づくなと草なぎを追い返す。
苦い顔の草なぎの携帯のカメラには、安田と香川とのキス写真がいつの間にか撮られている。
閉塞空間からのレスキューとしての「任侠」
翌日、介護施設に見舞いに行った安田は、安定剤を過剰投与された母親が廃人同然となっていて、娘の自分の存在も理解できてないことにショックを受ける。しかし介護士(美保純)は投薬でようやく鎮静して共同生活を送れるようになったこと、毎日見舞いに来ればまた思い出すだろうということを、にこやかに説明する。
その美保純の笑顔の説明を断ち切るように、安田はいきなり事務局を飛び出し、病室で暴れる草村礼子を無理やり車椅子に乗せる。
こんなところに母は置いておけない、と啖呵を切って、制止する美保純を振り切り、茫然とする子供たちを引き連れ、施設を出ると、外の道路に停めたダイハツ・ハイゼットのワンボックスカーに一家全員を乗せて発車しようとする。
まるで介護士・美保純の虐待から母親を救出しようとするかのような、安田成美の突発的な決断と行動は感動的だ。*5
美保純の介護士としての良識的な説明に直観的に逆らい、安田は「ヤクザの娘」ならではの衝動的・暴力的な脱出劇を敢行する。泣きわめく草村礼子を無理やり車椅子に乗せ、子供たちを怒鳴りつけ病室を出ると、次のショットではもう施設の外に飛び出している。
ハイゼットに草村礼子と子供たちを乗せると、怯える子供たちに「早くドアを閉めて」と怒鳴りつけるばかりか、勢いあまって車のエンジンキーまで折ってしまうのだ(安田成美一家の乗るハイゼットは廃車寸前のボロ車だが、キーが折れて安田が叫ぶショットはホラー調)。
この安田の怒号に呼応するかのように、介護施設に隣接する病院で老人の勧誘を終えた草なぎと風間が現れると、ハイゼットから飛び出した下の男の子は、草なぎに向かって走り出し、その腰に抱きつく。*6
病院から出てきた草なぎのアップと、車の中で叫ぶ安田とがガラスごしに見つめ合う切り返しは、安田が「閉めて」と叫んだワンボックスカーのスライド式ドアと、子供が駆け寄る瞬間、草なぎの背後で閉じる病院の自動ドアによる空間分節が連動し、路上にも関わらず、絶望的な閉塞感が演出されている。
ハイゼットのキーをブチ折る安田の凄まじい怒号は、そうした空間の閉塞感への怒りの叫びであると同時に、またそこからの救済を訴える悲鳴にもなっている。
草なぎが、ワンボックスカーに閉じ込められた安田成美一家を「うみねこの家」へと連れて行くのは、抱きついてきた男の子に対して、情をほだされたから、というだけではない。
冒頭のコンビニ強盗の場面でも、強盗に失敗して床に倒れた堺が同様の閉塞状況に陥っていたのを草なぎが助けた時、やはり堺の背後でガラスのドアがいつの間にか閉じていたことで閉塞感を強調していたことを思い出そう。
草なぎの「任侠」「弱きを助け強きを挫く」とは、こうした空間分節による閉塞感への闘い、そこで苦しむ者たちの救出活動として発揮されるものなのだ。
こうして安田成美は「うみねこの家」に母・草村礼子を預け、草なぎたちも「ゴミ溜めみたいな施設」の改装・再生を始めることになる。
それは草なぎとりりィとの怒号・罵声の応酬という「声の活劇」を伴うのだが、それを引き出したのが、最新介護施設から母を強制退去させた安田成美の衝動的なアクションと怒号であるのはまちがいない。
安田成美もまた、草なぎと同様に「着替えること」「怒鳴ること」によって映画を動かしていく存在なのだ。ふたりが惹かれあうようになるのは、主題論的な必然といっていい。
「うみねこの家」の改装工事で、寝床を細かく仕切っていた壁とカーテンは取り払われ、施設は開放感を取り戻す。ホステス・夏帆も幼い妹弟たちを連れて施設運営に参加し、老人たちのリハビリに歌と振り付け(『渚のシンドバッド』)を教える。
濡れた服を脱いだ草なぎの背中の入れ墨を見て、草村礼子は夫・堺正章の記憶を取り戻すと、縫製工場勤めのミシンの腕前を披露するまで回復し、安田を驚かせる。
カーテンの意味論
安田はミシンのある広間の窓と真向いになっている部屋で草なぎと二人っきりになると、いきなり窓のカーテンを閉めて、草なぎの入れ墨を自分にも見せるよう懇願する。カーテンが窓の光を遮り、淡い光の空間のなか、安田は草なぎの背中に手を押し当て、幼い日、母がミシンをかける横で、父の背中の入れ墨を押した記憶を回想する。
この回想ショットそれ自体は残念な出来なのだが、ここで注目すべきなのはカーテンの演出だ。
それまでは寝たきり老人の寝床を閉鎖的に分断していたカーテンが、ここでは窓の外からの視線と光を遮り、男女二人だけの時空間を分節しているのだ。その過去と現在の背中の感触を同じ母親のミシンの音が媒介する。
いきなりカーテンを閉めて、草なぎに服を脱がさせて、その背中の入れ墨の感触を確かめる安田成美は、母親をいきなり介護施設から強制退去させたように、まぎれもなく「ヤクザの娘」である。
カーテンはすぐに開けられ、向かいの窓で手を振る草村礼子に対して草なぎに無理やり手を振らせるといういかにも微温的なオチで、このふたりの「ラブシーン」は終わるが、この場面が香川照之の安田成美への屋外でのキスシーンと対極関係にあることに注意しよう。
香川と安田のキスシーンは、夜の店外、酔いにまかせて強引におこなわれ、しかも草なぎの携帯のカメラによって写真撮影されていた。過去の恋人どうしの親密であるべき接吻が、車の到着であっさり中断され、他者の視線に対してまったく無防備のまま盗撮されてしまった。
一方で、草なぎとの「ラブシーン」で安田はカーテンで視線を遮ることで草なぎの背中の入れ墨の感触に浸る。ともに過去を媒介にして安田成美と関係を結びながら、視線の遮断と空間の共有の仕方において、香川は草なぎに決定的に敗北している。
窓越しに母に手を振る二人を、施設の囲いの外から見つめる香川の視線につなぐ画面展開は、そうした恋人たちをめぐるカーテンの意味論を示している。カーテンによる空間分節のあり方は、ここで決定的に変容しているのだ。
雨の使用法
とつぜんの雨のなか「うみねこの家」に市の立ち入り検査が入る。草なぎは施設と隣接する事務所で、雷鳴の響くなか香川と対決する。白ずくめのレインコートの検査員の不気味さ、土砂降りのなか安田に自分の傘を渡して立ち去る香川の苦渋。ここでの雨降らしは、晴天のなかでの強引な放水に見えてしまうのが残念だが、その映画的な効果は決してムダではない。
この立ち入り検査のせいで「うみねこ家」のシマを取り上げられそうになった草なぎは、携帯の「キス写真」を杉本哲太に渡す。その交換条件で「うみねこの家」はとりあえず守られるが、その苦渋は深い。
携帯写真は早速活用され、入札と発表会見を前日に控えた香川の車は事故に巻き込まれ負傷する。スリップ事故の車の前に投げ出された乳母車には「介護施設斡旋の見返りに性的行為要求」の中傷ビラが写真入りで大量に積まれ、負傷して道路に投げ出された香川は愕然とする。
草なぎが車で安田と子供たちを家に送ったところへ、草なぎの携帯に昔の仲間の黒木メイサの警告電話が入る。そこへ安田の携帯に香川の事故の連絡が入り、草なぎには「うみねこの家」が火事だという連絡が続けざまに入る。
事故と火事のたたみかけ、両被災者が搬送先の病院で鉢合わせという展開も見事だが、雨上がりなのに動きっぱなしの草なぎの車のワイパー、スリップ事故の香川が這いつくばる濡れた路面と、雨を効果的に降らせるだけでなく、止んだ後まで計算して有効活用した例は、最近の日本映画では珍しい。*7
カメラ前での殴り込み戦術
プロジェクトの入札・発表会見当日、半焼した「うみねこの家」の床に病院を抜け出した認知症の老人(品川徹)が座り、夏帆に教わった振り付けで手拍子を打ちながら『渚のシンドバッド』を歌っている。
草なぎの「終わったんだ」という怒号と制止の手を振りきって、品川徹は手の振りと歌を続ける。最初は寝床に縛られていた品川の見事な回復ぶりである。
品川徹の認知症からの回復は、草なぎが横に連れ添って歩く場面から始まっていたが、ここでは草なぎの手を意志的に振り払い、歌い、手拍子をするほど手の動きが回復しているのが感動的だ。そして、この品川の回復と反比例するかのように、これ以降の草なぎは歩行困難に陥っていくのだ。
『渚のシンドバッド』を歌い続ける品川を見て草なぎは笑い出すと、青いスタジャンを脱ぎ、黒眼鏡と黒服に着替え、入札会場に向かう。
病院では香川が、杉本哲太、阿部亮平ら、極鵬会に仕切られた入札会場のネット中継を悔しそうに見ている。その中継画面にとつぜん怒号が響くと、鉄パイプをもった草なぎが会場に乱入し、杉本哲太の目の前で「ここは俺たち極鵬会のシマだ」「こんな入札は絶対認めねえ」「極鵬会なめんじゃねえぞ」と、鉄パイプを振り回して壇上に上がり、会場を大混乱に陥れる。
草なぎと切り返しで目があった杉本は「生かしてここを出すな」と手下に命令するが、カメラで実況中継されるなか、ヤクザがヤクザとして暴れられない状況を逆手に取った殴り込みで機先を制した草なぎは、非常ベルを鳴らして防火扉を閉めながら、会場じゅうを暴れ回ると、二階から階下のプロジェクト模型の上への大ジャンプを敢行し、足をひきずりながら、会場から逃げようとする杉本哲太と阿部亮平を外へ追う。
そこへ病院から抜け出した風間俊介が駆けつけ、阿部亮平を棒で殴り倒す。会場前にはパトカーも駆けつけ、身動きの取れなくなった杉本哲太は、車の助手席で青ざめて黙り込む。
この「殴り込み」場面での草なぎの杉本哲太に対する勝利は「ヤクザはヤクザである」という命題(ゴダール?)をカメラの前で徹底的に演じきったことにある。
むろん草なぎが「極鵬会」を名乗ることは一種の詐称である。だがそうした詐称も込みの暴力行為こそ、ヤクザならではのパフォーマンスであり、それをカメラの前で堂々と演じた草なぎに、そうしたヤクザ的パフォーマンスを禁じられた杉本は沈黙と敗北に追い込まれるのだ。
冒頭、コンビニの監視カメラに入れ墨を晒し、中継カメラの前で「殴り込み」を演じる草なぎの主人公は、カメラ・映像が遍在する時代における任侠映画のヒーロー像を提示するものだ。
ここでホンモノの極道=ヤクザとは、カメラ・映像に臆することなく「ヤクザはヤクザである」自分自身を露呈し、自己演出できる者のことである。また、そうすることで「弱きを助け強きを挫く」。
入札会場の「殴り込み」事件の報告を受けた宇崎組長は、警察よりも早く草なぎたちを捉まえるよう、ヤクザ側で「非常線」を張り、パトカーと暴走族が入り乱れる。
そこへ、テレビドラマの「相棒」黒木メイサの車が「緋牡丹シリーズ」の若山富三郎よろしく「お約束レスキュー」として登場すると、草なぎと風間を海岸に連れ出しボートに乗せて夜の海へ逃がそうとする。しかし、夏帆にまだイッパツもやらしてもらってないから残ると、バカ子分・風間俊介がゴネ出すと、「殺されるかパクられるかのどっちか」を覚悟で、草なぎも子分のバカに付き合う羽目になる。
その海岸からは「うみねこの家」が真向いに見えるが、その焼け跡には安田成美一家、夏帆きょうだい、管理人・りりィ、病院を出た老人たちが、テントを張って食事を作っている。まるで被災地のキャンプ状態だ。風間を夏帆に預けると、草なぎは再び出かけようとする。心配する安田成美を「あの写真を組に売ったのはオレだ」と振り切ると、草なぎは痛めた足を引きずりながら、ひとりで極鵬会との最終決着に向かう。
夜道で認知症の老人とすれ違うが、もはや草なぎのほうの足取りが覚束なくなっている。極鵬会・宇崎組長が待ち受ける夜の路上へ、足を引きずりながら向かう。待ち受ける組員に暴行を受け、路上に横たわる草なぎは、認知症患者を模倣するかのようだ。
寝たきりだった認知症の老人たちが回復したコースを逆行するかのように、今や草なぎは身体の自由を失い、路上に横たわることで施設と老人たちを守ろうとする。*8
草なぎが完全に動けなくなったところへ、病院から抜け出した香川照之が安田成美とともにタクシーで駆けつけ、松葉杖をつきながら、宇崎組長と新たに対決する。
議員辞職した香川は、キス写真付きの中傷ビラを破り捨て、宇崎組長と極鵬会に弁護士として徹底抗戦することを宣言し、極鵬会を立ち去らせると、草なぎ同様路上にへたりこむ。
ネット画面の草なぎの「殴りこみ」映像に励まされた香川照之が、一度は携帯写真の脅迫に屈しながらも、ヤクザとの徹底抗戦を再開する。ここで「任侠」とは、ヤクザ、カタギを問わず、カメラ・映像が遍在する社会において、臆せず戦う覚悟のことである。
極鵬会の去る前に、香川と安田の乗ってきたタクシーはとっくに逃亡していて、深夜の路上に這いずりながら呻くように罵り合う男ふたりを、安田成美は微笑みながら見ている。
閉鎖的な空間から解放され、身体の自由を回復していった老人たちと逆行するように、歩行の自由を失い、路上に倒れ込んだ草なぎの横に松葉杖の香川照之が現れ、草なぎと共に路上に倒れ込む。
警察とヤクザに追われ施設にいられなくなった草なぎと、議員辞職して施設建設と無縁になった香川とが、揃って歩行障害に陥り、路上に横たわる。安田成美も黙って微笑み、もはや物語の運動の余地は残されていない。
着替えること、怒鳴ることから、歩行障害、這いつくばりに至る、身振りの共有の連鎖の三角関係が均衡・飽和状態に至り、説話の運動の持続が終結を迎えようとしている。
朝日をバックに浮かび上がる「うみねこの家」の風見鶏のシルエット、駅の掲示板から香川照之のポスターはがされるショットが、夜明けの時間経過を的確に示す。前半、安田一家がハイゼットを最初に運転する場面で、このポスターから演説場面への見事なディゾルブがあったのが、もはや夢のようだ。
早朝の無人駅で待ち伏せしていた香川が「殴り込み」事件の弁護を申し出て、草なぎの「高飛び」を引き留めようとする。
安田成美にも草なぎは必要な存在だと、香川が言うと、草なぎはホーム走り出す。
「バカかお前は。ヤクザの娘として長年苦しんできた女を幸せにできるのはオレなんかじゃねえ」
そこへパトカーが駆けつけ、香川が笑って見送るなか、草なぎはホームから線路へジャンプ。
海辺の高架線の線路を走る開放感は、日本映画では久しぶりだ。そこには何の間仕切りもない。
警官に追われながら、海沿いの高架線を走るとトンネルに行き着く。振り返って笑うショットにボイスオーバー。
「任侠道、弱きを助け、強きを挫く、そんなホンモノの極道にオレはなりたかった。ホンモノ?」
映像監視時代の任侠映画の再構築
映画『任侠ヘルパー』における「任侠」「弱きを助け強きを挫く」とは、草なぎがコンビニの監視カメラの前で入れ墨を晒し、レジの現金を与えるというように、カメラ・映像の存在を前提にしたヤクザの行動倫理として描きなおされている。
それは決して時代遅れの義侠心ではなく、カメラ・映像が遍在する時代にヤクザ/任侠映画をどう再構築すべきかという問いにたいするひとつの回答例となっている。
「殴り込み」場面では、カメラ・映像の前であえて「ヤクザ」を演じることができるかどうかが、新しいヤクザ/任侠映画の闘争スタイルのキーポイントとなっていた。
その映像はネットで中継され、一度は携帯カメラによる脅迫写真に屈した弁護士・香川照之も、新たな闘争の覚悟を呼び覚ます。任侠は映像を介して中継されるのだ。*9
また引き戸/カーテン等による空間分節(間仕切り)を通して、閉鎖的な空間に苦しむ人々を救出し、その閉鎖的な分節を破壊することが、「弱きを助け、強きを挫く」任侠空間演出となることを提示していた。
その過程で演じられる身振りが「着替えること」「怒鳴ること」であり、この二つの身振りを共有することで、草なぎと安田は惹かれあう。そこでは接吻より濃厚な手と背中の接触が交わされ、閉鎖的な間仕切りだったカーテンが、恋人たちの場所を淡い光で演出するスクリーンに変容しさえするのだ。
映画『任侠ヘルパー』は、明白な欠点もあり、決して突出した傑作ではないが、主題論的戦略と空間分節の二点において、2012年のメジャーの日本映画のなかで最も創意工夫にあふれた作品だと思う。*10
これは余談だが『任侠ヘルパー』は、草なぎ・翼彦一が全国の介護施設をめぐって、介護疲れのシングルマザーと毎回恋仲になるという設定で、『網走番外地』のようにシリーズ化することはできないだろうか。*11
今回は浮き気味で悪評だった「相棒」黒木メイサも、毎回東京から駆け付けては、相手の子連れ女に嫉妬しながら、草なぎの急場を助けるという役にパターン化すれば問題はないだろう。いっそのことマキノ雅弘のように「一人二役マドンナ」という反則技(!)も、場合によってはありだろう。
少なくとも「雪国死闘篇」と「南国望郷篇」の2本は撮ってほしい。
(初出、2012、12.16)
「海辺の弱小施設」の疑似家族的共同体を舞台に、鉄火女と一匹狼と優柔インテリが祝祭的騒乱を巻き起こすという構図は、森崎東作品と共通する部分が大きい。冒頭の刑務所内部の描写も『塀の中の懲りない面々』(森崎東、1987)と重なっている。
認知症の母親の介護を扱った森崎東の新作『ペコロスの母に会いに行く』(2013)に宇崎竜童が特別出演しているのは『任侠ヘルパー』からの流用に見えて仕方がない。
なおテレビドラマ版『任侠ヘルパー』第5話で、28年前に家庭を捨てて男と逃げた挙句、介護施設で主人公と再会する母親役を、倍賞美津子(役名「さくら」)が演じているのもまた因縁か。
http://d.hatena.ne.jp/jennjenn/20140111
http://www.dailymotion.com/video/xq77wh_ninkyo-helper-05_fun
(追記、2013、11.24)
任侠ヘルパー スペシャル・エディション【Blu-ray】(特典DVD付2枚組)
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*1:県庁職員のバッジとヤクザの組員のバッジの同型性もそこには見える。なお西谷弘における「海」のありかたについては、以下のブログを参照。http://movie.geocities.jp/dwgw1915/newpage158.html。また次回作『真夏の方程式』は柳島克己の撮影を得てさらに陰影の深い「海辺の映画」になっているだろうことが予告編からもうかがうことができる。http://www.galileo-movie.jp/index.html
*2:怒号と睨みを主武器とするヤクザグループのトップである、宇崎竜童の終始穏やかな口調と眼つきが醸し出す独特の威圧感によって『アウトレイジ』とは違ったヤクザの怖さが演出されていたのは特筆すべきところだろう。なお、宇崎竜童と三浦友和という因縁浅からぬ「ボスキャラ」のキャスティングに注目すると、ホモソーシャルな「声の活劇」(上野昂志)である『アウトレイジ』『アウトレイジ ビヨンド』と『任侠ヘルパー』とのあいだには微妙な相補関係を読み取ることも可能だろう。
*3:西谷弘には『容疑者Xの献身』(2008)で、電話だけで連絡しあうアパートの隣どうしの男女のトリュフォー的悲恋を描いた際、アパートに二世帯しか住人が存在しないかのように(そんなはずはない)、二部屋の隣接関係を抽象的に造形したうえ、分割画面と窓枠の矩形によって、隣あう二部屋を入れ子式に形象化しようとした輝かしい「前科」がある。「隣どうしが同じ色になってはいけない」四色問題のトリュフォー的変奏。
*4:「うみねこの家」の見事なセットを作った美術・山口修の仕事は素晴らしい。シーン数の多いこの作品で、メジャーの予算をじゅうぶん生かしたセットの質・量の豊富さは、低予算作品ではまず無理なものだろう。
*5:いかにも良識的で笑顔の介護士役に美保純というキャスティングが素晴らしい。『SRサイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』では極悪非道な売春元締めマダム役として惨殺された、美保純の笑顔で一見親切な説明が、安田成美の「ヤクザな娘」の暴力性を突発的に現勢化させるきっかけとして映画的に着実に機能している。美保純の女優としての魅力が、その声の響きの本質的な不機嫌さ、不愛想さにあることを、あらためて認識させられる。
*6:この男の子の疾走場面がスローモーションなのは大きな減点対象なのだが、その一方で、この男の子が着ているジャンパーが草なぎが着ている「うみねこの家」のスタッフジャンパーと同系色の青であるというカラーコーディネートを加点すれば、ここはオマケしてプラスマイナスゼロ、ということでまあいいでしょう。
*7:低予算作品で雰囲気だけの雨を降らせる作家たちは、こうした「メジャーの知恵」を大いに参考にすべきだろう。
*8:この路上での暴行場面は「うみねこの家」のテント場面とカットバックされて映像的に微温化されたうえ、感傷的な音楽で音響的にも塗りつぶされている(暴行の音はカット)。ここには明らかに編集による「自主規制」が働いている。「自主規制」といえば、テレビドラマ、映画ともに花札・サイコロ賭博が一切描かれていないのもそうだろう。将棋の駒がヤクザの遺品というのは、任侠映画の小道具としてはやはり物足りない。
*9:携帯写真の隠し撮りをしたのも草なぎであることに注意しよう。こうした脅迫ネタの隠し撮りを抜かりなくおこなう点でも彼は「ホンモノ」のヤクザ/極道なのだ。
*10:りりィ、宇崎竜童には助演賞を上げたい。美保純と並んで品川徹のキャスティングも素晴らしい。また1946年生まれの堺正章(ザ・スパイダーズ)と宇崎竜童(ダウン・タウン・ブギウギ・バンド)のふたりが同期の地元ヤクザ仲間という配役も味わい深い。これで老人たちがリハビリで歌う曲が『横須賀ストーリー』(作詞・阿木燿子、作曲・宇崎竜童)ならば最高だったのだが(「これっきり これっきりもう これっきりですか…」)。https://www.youtube.com/watch?v=8SGbFL1WHD4
*11:ただし1作110分以内にまとめることが条件。134分は長すぎるし、ムダが多い。
『トウキョウソナタ』
『トウキョウソナタ』は、冒頭の縁側の窓から雨風が吹き込む場面を見てもわかるように、小津安二郎に劣らず成瀬巳喜男からの色濃い影響を見て取ることができる、黒沢流ホームドラマといえるだろう。*1
ここで、くたびれかけた専業主婦を演じている小泉今日子が、夫・香川照之が寝室に去ったあと、深夜ひとり、リビングのソファに横たわったまま両手を宙に伸ばして「引っ張って、誰かあたしを引っ張って」と呟く印象的な場面がある。この場面が印象的なのは、この小泉今日子の横たわったまま空しく両手を宙に伸ばす仕草が、明らかに『めし』(成瀬巳喜男、1951)で同じ姿勢から上原謙に両手を引っ張って起こしてもらう島崎雪子の仕草を反復している(し損ねている)からだろう。
『めし』で、叔父・上原謙と原節子夫婦が暮らす大阪の長屋を頼って、東京から家出してきた島崎雪子は、原節子の同窓会の日に、留守番と夕食の準備を頼まれながら、二階の部屋で熟睡してしまう。夕方、会社から帰宅した上原謙に起こされた島崎雪子は、畳の上に横たわったまま両手を伸ばした姿勢で「ねえ起こして」と呟く。誰からも引き起こされることのない小泉今日子の両手とは違って、島崎雪子が伸ばした両手は、ダンディな叔父・上原謙につかまれて優しく抱き起こしてもらうという幸運にあずかる。島崎雪子は、さらにそこで急に鼻血を出して上原謙のワイシャツを汚してしまうという、エロチックな失態まで演じてみせる。
この二階での目覚めから鼻血の治療中の間に、鍵を架け忘れた一階では上原の新品の靴が靴泥棒に盗まれ、この靴泥棒騒動が長屋じゅうに広がる。やがて同窓会から帰宅した妻の原節子は、夫が新品の靴を盗まれたことに怒るばかりでなく、二階で横たわる姪と夫の鼻血騒動も知り、夫と姪との間にあらぬ疑惑と嫉妬を抱くことになるのだが、こうした鼻血から靴泥棒、不機嫌妻の帰宅に至る一連の騒動が、島崎雪子が横たわった姿勢で宙に伸ばした両手を契機に始まっているのを見て取るのは、容易なことだろう。
ともに横たわったまま両手を宙に伸ばしながら、上原謙に優しく引っ張り起こされる『めし』の島崎雪子の両手が引き起こす、喜劇的な映画的運動の連鎖と、誰にも引っ張ってもらえず空しく宙をさまよう『トウキョウソナタ』の小泉今日子の両手がもたらす不全感との差異を、果たして黒沢清がどこまで意識しながらこの場面を演出したかは、今さら知る由もないだろう。
ここでは監督の「意識/無意識」には一切ふれることなく、島崎雪子と小泉今日子という2人の女優の宙に伸びた2本の手のあいだで交わされた、同形のフォルムの反復・変奏が、成瀬巳喜男と黒沢清とのあいだに、ひとつの映画史的な流れを形成していることだけを指摘しておきたい。*2
このような微妙な差異と同形性とが入り混じった、映画作家のあいだでの反復・変奏関係は、時代や状況設定の差と決して無関係ではないが、やはり独立した映画的な価値を持つものとして考察しなければならないと思う。
こうした映画的関係性のあり方は、『トウキョウソナタ』の黒沢清においては、成瀬巳喜男とのあいだに限ったことではない。最もわかりやすいところでは、小津安二郎との関係が挙げられるだろうが(井之脇海の階段落ち!)*3、ここでは小津の盟友であった山中貞雄との関係についてふれておきたい。
山中貞雄との関係を考えることによって、たとえば津田寛治が演じるリストラ社員が、リストラされたことを妻と娘に隠し続けたあげく、夫婦でガス心中するという一見現代的なエピソードが、じつは『人情紙風船』(山中貞雄、1937)の浪人夫婦の無理心中のエピソードを、時代背景・状況設定の差異を超えて反復・変奏しているということが見えてくるのだ。
生き残った娘の土屋太鳳の存在のために、『人情紙風船』との関連は気づかれにくくなっているが、『人情紙風船』のラストを踏まえるならば、死因がガス中毒であるということしか詳細が語られていないこの夫婦心中事件の主犯者は、失業しながら会社勤めを演じ続けていた夫の津田寛治ではないだろう。ガス栓を開いた主犯者は、夫の偽りの振る舞いをすべて受け入れたうえで、ニセ同僚を演じた香川照之に豪華な手料理を振舞いながら、監督・共演者をも圧倒するほどの荒廃感を漂わせた、妻の杉山彩子の方であるのは間違いない。*4
(初出、2010、05.13)
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*1:http://movie.geocities.jp/dwgw1915/newpage152.html参照。
*2:たとえば、香川照之が帰宅するきっかけとなる交通事故場面は、ゴダールはもちろん、リチャード・フライシャーの影響を公言している黒沢清が繰り返し描いてきたものであるが、それがホームドラマという文脈に置かれると、成瀬的な主題としての交通事故と大きくオーバーラップしてくる。また女性性という文脈でいえば、自動車の運転場面も黒沢作品では欠かせないものだが、『トウキョウソナタ』では自動車(四輪)の運転者が男性ではなく女性の小泉今日子だというのも注目すべきところだろう。
*3:この階段落ちは『風の中の牝鶏』(小津安二郎、1948)と共に『サイコ』(アルフレッド・ヒッチコック、1960)とも関わる場面でもある。
*4:DVDの副音声に収録された黒沢清のオーディオコメンタリーの、黒須家の食事場面に関する部分を参照。ただし、女優さんの名前はちゃんと言わなければいけませんよ、黒沢さん。
『秋日和』『晩春』
小津安二郎名作映画集10+10 5 秋日和+母を恋はずや (小学館DVD BOOK) 小津安二郎名作映画集10+10 2 晩春 生れてはみたけれど (小学館DVD BOOK) 小津安二郎名作映画集10+10 1 東京物語+落第はしたけれど (小学館DVDブック) 小津安二郎名作映画集10+10 麥秋+淑女と髯 (小学館DVD BOOK) 小津安二郎名作映画集10+10 10 早春 大学は出たけれど (小学館DVD BOOK) 小津安二郎名作映画集10+10 7 秋刀魚の味 出来ごころ (小学館DVD BOOK) Talking Silents 1「瀧の白糸」「東京行進曲」 [DVD] 小津安二郎名作映画集10+10 6 彼岸花+東京の合唱 (小学館DVD BOOK) 小津安二郎名作映画集10+10 9 東京暮色 その夜の妻 (小学館DVD BOOK) 国際シンポジウム 小津安二郎 生誕100年「OZU 2003 」の記録 (朝日選書) 新潮45特別編集 原節子のすべて (SHINCHO MOOK)
2DKの母娘と二階建ての父娘
『秋日和』の原節子と司葉子が演じる母と娘との関係―寡婦の母親ひとりを残して結婚することをためらう娘を嫁がせるために、再婚するふりまで演じる母親との親子関係は、かって『晩春』で寡夫の父・笠智衆とその娘・原節子が演じた役割を、配偶者と死別した片親の性別を男親から女親へと反転させたうえで再演したものであることは、小津作品に親しんだ者のあいだでは周知のことだろう。
美貌の寡婦・原節子とその娘・司葉子の双方の縁談を、原節子の亡夫の学生時代からの悪友で、かって原節子をめぐる恋敵どうしだった中年男三人組(佐分利信・中村伸郎・北竜二)が勝手に画策する『秋日和』の物語が、娘を嫁に出すために笠智衆が寡夫である自分の縁談をあえて受け入れたふりをする『晩春』に対する、小津自身によるパロディ的なリメイクであることは、容易に見て取れることだろう。
『晩春』と『秋日和』とのあいだには、娘を嫁に出す独り者の親の性別が男親から女親に変わっていること以外に、もうひとつ重要な変更点がある。それは、主人公親子の住居が『晩春』では鎌倉の二階建ての日本家屋であるのに対して『秋日和』では東京都内の2DKのアパートになっているということだ。
原節子が美貌の寡婦を演じることを前提に撮られた『秋日和』では、『晩春』で笠智衆が演じた男親の役柄が女親へ変わっているのは当然のことだが、その親子の住居が鎌倉の二階建ての一軒家から2DKのアパートに変わっていることは、また別な意味あいを帯びてくる。こうした住居の違いは登場人物の性別の違いに劣らず、小津作品にとってはある種の決定的な境界作用をもつからだ。
いったいなぜ『秋日和』の原節子・司葉子の母娘は『晩春』の笠智衆・原節子の父娘のように、二階建ての日本家屋を住居とはしないで、2DKのアパートに同居しているのだろうか?
経済的に慎ましい生活をしている寡婦の母と娘のふたり暮らしの住居には、二階建ての日本家屋の一軒家よりは、賃貸の2DKのアパートの方がふさわしいからという、脚本上の人物設定に関する答えがまず考えられるだろう。
しかし、経済的な慎ましさということを考えてみると、たとえば夫の遺産の一軒家に母娘で住み続けるという設定もまたじゅうぶんあり得るわけで、東京都内のアパートの家賃を考えるならば、そのほうがより経済的に慎ましい暮らしであるかもしれない。
だいたい、服飾学院の講師をしている原節子に、どれくらいの収入があり、またどれくらいの遺産をもっているのか(彼女はもともと本郷の薬屋のひとり娘であるらしい)、映画はまったく触れていないのだから、そうした登場人物の経済状況に関する推測は、あまり意味を成さないだろう。
要するに、脚本の設定しだいで『秋日和』の原節子・司葉子母娘は『晩春』の笠智衆・原節子父娘と同様に二階建ての日本家屋に住んでいてもおかしくないのであって、そのための物語的な合理化の手段はいくらでも可能であり、そうしてはならないという理由も特に見当たらない。
にもかかわらず、原節子・司葉子母娘は2DKのアパートに住んでいて、その近代的なアパート建築が、中村伸郎一家、佐分利信一家、そして北竜二・三上真一郎の父子家庭が住む日本家屋に対して、独自の住居空間を形成していることは明らかであり、その空間的な差異が意味するところは、決して見過ごせないものがある。
したがって『秋日和』の原節子・司葉子の母娘が『晩春』の笠智衆・原節子の父娘のように二階建ての日本家屋の一軒家に暮らさずに、2DKのアパートに同居しているという住居の変更理由は、作品の空間構造/住居構造という点から考えなおさなければならない。
「女の聖域」の二つの系譜
小津作品における住居の構造、とりわけ「後期の小津」における日本家屋の二階の部屋の特異性を解明した画期的な批評として、蓮實重彦『監督 小津安二郎』の「住むこと」がある*1。
蓮實氏の論旨をごく簡単に要約するならば、『晩春』『麦秋』『彼岸花』『小早川家の秋』『秋刀魚の味』といった「後期の小津」に登場する日本家屋の二階の部屋に通じる階段は、特別な例外を除いて決して画面に映ることがなく、その「不在の階段」を自由に通り抜けて二階の部屋を二十五歳前後の嫁入り前の娘が「女の聖域」として排他的に独占しているのが、二階建ての日本家屋に共通する構造である、ということになるだろう。
一方で蓮實氏は、二十五歳前後の娘たちの「女の聖域」である日本家屋の二階の部屋とは空間的に対極に位置する、五十五歳前後の父親たちの「男の聖域」である料理屋の座敷の存在を指摘することも忘れていない。ただし、住居構造という観点から考えると、女性専用の「不在の階段」に支えられた二階の「女の聖域」と、住所不明な料理屋の座敷の「男の聖域」とでは、作品を支える構造的な重要度の相違は明白だろう。
このように「後期の小津」に登場する二階建ての日本家屋は、男女共用の生活空間としての一階と、二十五歳前後の娘の「女の聖域」である二階という、二つの部分に分けられる構造をもっていることになる。その二つの部分を画面には姿を見せない「不在の階段」が斜めに連絡するのだが、そこを自由に通り抜けて二階へ出入りする特権と能力を有するのは二十五歳前後の娘をはじめとする女たちで、父親や兄弟ら男たちはその権利を基本的に与えられていない。
蓮實氏が解明した「後期の小津」の住居構造は、空間の性的な分割と深い相関関係にあるといえるだろう。*2
『秋日和』の原節子・司葉子母娘が住む2DKのアパートという空間を論じるために、ここでは蓮實氏が論及していない、戦後の小津作品におけるもうひとつの「女の聖域」というべき、寡婦が住むアパートという空間の系譜について概観しておこう。
『東京物語』では、笠智衆・東山千栄子夫妻は、戦死した次男の嫁・原節子のアパートを訪れて、実の子供たち以上の手厚い歓待を受ける。熱海の旅行帰りの日には、長女・杉村春子の家を締め出された東山千栄子が原節子のアパートに一泊すると、布団を並べて実の親子以上の深い会話を交わす。*3
夫の戦死後、会社務めをしながら独身生活を続けている原節子のアパートは、横浜にある。その広さは、六畳一間あるかないかぐらいだろうか。義父母を歓待するために、原節子は店屋物の丼の出前を頼み、隣の部屋の住人からお酒と徳利とお猪口を借りるのだが、ふたりを泊めるのはいくらなんでも狭すぎる。
東山千栄子ひとりが原節子のアパートに寝泊りし、笠智衆が旧友の十朱久雄と東野英治郎を都内に訪ねる、熱海旅行の帰りの日の夜の場面を見てみよう。原節子が東山千栄子の肩を揉みながら、布団の上で女どうし語らうこの場面において、原節子の狭苦しいアパートは『東京物語』において唯一といっていい「女の聖域」と呼ぶべき空間となっている。
しかも、同時刻に笠智衆が旧友の十朱久雄と東野英治郎と共に酔いつぶれている飲み屋が、東野英治郎が自分の死んだ妻に似ていると言い張る女将・桜むつこの関わり合いを避ける邪険な態度が示すように、一種の「男の聖域」として演出されていることも見逃せない。
泥酔した笠智衆と東野英治郎は、結局はその「男の聖域」を追い出され、長女の杉村春子の理容室に深夜帰宅し、東山千栄子ひとりが、夫・笠智衆抜きで、次男の嫁・原節子と女どうしで深く交流する。
このエピソードでは、笠智衆を外に追いやり、東山千栄子ひとりを泊めることによって、寡婦・原節子のアパートが「女の聖域」であることを告げている。
『東京物語』より3年後の『早春』では、家出したヒロイン淡島千景が転がり込む先である、友人・中北千枝子のアパートは、やはり六畳一間ぐらいの広さだが、共同の炊事場が部屋の外にあるその造作は、ずっと近代的で1Kに近いものになっている。
中北千枝子は浮気性の夫と死別後、働きながらひとり暮らしを続ける女性であり、子供のいない専業主婦の淡島千景は夫・池部良の浮気をきっかけに家出をすると*4、母・浦辺粂子が営む実家のおでん屋には帰らずに、この寡婦の友人のアパートに転がり込む。
それまでは、夫婦の家と実家のおでん屋とのあいだの往復ばかりをしていた淡島千景が、アパートの卓袱台でビールをコップに注ぎながら、仕事帰りの中北千枝子と女どうしで夫の浮気話を笑いながら語りあうのだから、ここでも『東京物語』と同様に、寡婦のアパートが「女の聖域」と化していることを容易に見て取れるだろう。
中北千枝子の「死別妻」が、淡島千景の「家出妻」とアパートの一室で夫の浮気話をビールのツマミに笑い合う、その絶妙な「成瀬組看板女優」中北千枝子の起用法から、小津安二郎がいかに成瀬巳喜男作品を研究していたかがよくうかがわれて、なかなか興味深い場面でもある。*5
『東京物語』の原節子と東山千栄子との語らいから『早春』のアパートでの中北千枝子と淡島千景との語らいの場面に至って、戦後の小津作品において寡婦が住むアパートが、二十五歳前後の未婚の娘が暮らす日本家屋の二階の部屋とはまた違った意味で、もうひとつの「女の聖域」の系譜を形成していることが明らかになったと思う。
『東京物語』『早春』と連なる寡婦のアパートの住居空間の系譜を見たうえで、『秋日和』のラストシーン近くにおける「残る娘」としての岡田茉莉子の重要な役回りをみるならば、原節子・司葉子の母娘が暮らす2DKのアパートは、単なる母子家庭の母と娘の住居というよりも、寡婦・原節子が娘の司葉子が結婚するまで同居し、娘の結婚後は、再びひとり暮らしを送りながら娘の友人・岡田茉莉子をそこへ頻繁に迎え入れるであろう、文字通り男子禁制の「女の聖域」となっていると、推定できるのだ。*6
建築的なデザインという点から見てみるならば、原節子と司葉子が特権的に通行するアパートの廊下は、その幅の広さと天井の照明の配置において、やはり原節子と司葉子が頻繁に出入りする佐分利信の会社の廊下と相似形をなしていることが指摘できる。
こうした住宅と仕事先の建築物の視覚的な統一性は、主人公が日本家屋から近代的なアパート建築に転居することによって初めて可能になったものだといえよう。
このように『東京物語』『早春』と続く、寡婦のアパートが形作る「もうひとつの女の聖域」の系譜を辿ることで、なぜ『秋日和』の母娘が『晩春』の父娘のように二階建ての日本家屋に住まずに、2DKのアパートに同居するのか? という問いに対する、いちおうの答えは出せたと思う。
しかし、ここでは同じ問いを、あえて変形して再提出することで「後期の小津」の住居構造に潜む問題に揺さぶりをかけてみたい。
それは『晩春』の父娘が、二階建ての日本家屋を住まいとせずに『秋日和』の母娘のように2DKのアパートに同居することは、はたして可能か、という問いである。
父と娘の住み分け
たとえば『秋日和』の母娘が2DKのアパートではなく、二階建ての日本家屋に暮らしていたとしても、小津作品としての『秋日和』は、構造的に成立可能だろう。
原節子と司葉子の母と娘は、何が何でも2DKのアパートに住まなければならない、という構造的必然性は『秋日和』には特に見当たらない。
寡婦の母と独身の娘のふたりがもし、二階建ての一軒家に住んで「不在の階段」を通って一階と二階を行き来したとしても、それはそれで小津作品として特に差し障りが生じることはないだろう。
しかし『晩春』の父と娘が『秋日和』の母と娘のように、2DKのアパートに同居できるかといえば、それは不可能だろう。もしそんなことをすれば、『晩春』という作品は成立不可能になってしまうからだ。
「不在の階段」によって分離された二階建ての一階と二階に父と娘が住み分けること、それが『晩春』という作品に欠かせない成立条件なのだ。この独身の父と娘が同じ階、同じ部屋で寝起きを共にするようなことになったら、小津作品としての『晩春』は、その持続を放棄しなければならなくなるだろう。
原節子と笠智衆が、同じ部屋に布団を並べて横たわる、京都旅行(婚前旅行!)の最後の夜のような緊張感は、旅行先の旅館の一室だから許されるものであって、もし、それが日常的に繰り返されるようなことがあれば、小津的作品の秩序は崩壊してしまうだろう。
笠智衆と原節子の独身の父と娘とは、一見、鎌倉の日本家屋の同じ一軒家に同居しているように見えながら、じつは「不在の階段」によって分離/切断された一階と二階の部屋に、厳密な住み分けをおこなっているのだ。
蓮實氏が指摘した「後期の小津」を特徴づける「不在の階段」により一階から分離された「女の聖域」としての二階の部屋を「二十五歳前後の嫁入り前の娘」が排他的に占拠するという住居構造は、この『晩春』においては、まぎれもなく独身の父と娘とのインセスト・タブーに関わる、いわば性的な住み分け構造になっているのである。
『晩春』の笠智衆・原節子から始まって、『東京暮色』の笠智衆・有馬稲子、『秋刀魚の味』の笠智衆・岩下志麻、それに『小早川家の秋』の中村鴈治郎・司葉子の父娘も加えた「後期の小津」をあらためて見直してみると「不在の階段」は、死別に限らず妻を失って独身に戻った父親と、嫁入り前でまだ独身の娘とを、一階と二階に住み分けさせる装置として働いていることがわかる。
ここで重要なポイントは、住み分けを演じている父と娘がともに独身かどうかということだ。
たとえば菅井一郎・東山千栄子の父母が二階に寝起きしているため、『麦秋』では「不在の階段」により一階から分離された「女の聖域」としての二階の部屋を「二十五歳前後の嫁入り前の娘」が排他的に占拠するという住居構造は、不完全なかたちでしか成立していない。『麦秋』はしかし、そのことによって、小津作品として欠陥をもっているどころか、むしろ世界映画史上、空前絶後の高みに達している。*7
ここでは父親役の菅井一郎の妻・東山千栄子が健在であって、父が娘とは違い独身者ではないことが肝心だ。そのために『麦秋』では、アクの強さが売りの溝口映画の個性派常連俳優・菅井一郎が限りなく透明に近い存在と化して、娘の原節子とともに「不在の階段」「女の聖域」を阻害することなく二階に共存するという映画的奇跡が可能になっているのだ。*8
独身の父と娘との住み分けという点に注目すると、蓮實氏が『戸田家の兄妹』の冒頭の老実業家の家長・藤野秀夫の死に関して述べた<注目すべきは、ここでの実業家の妻の関係がいつでも交換可能なものだ。(……引用者中略……)それ故、『戸田家の兄妹』の冒頭に描かれるのが、還暦の年の六十歳の誕生日に起こった父親の死であってもいっこうにかまわないし、あるいは死ぬのが母親であったとしても、ほぼ同じ作品ができあがったかもしれない。>*9という記述は、明らかに不適切で修正を要するものだろう。
もしも『戸田家の兄妹』の冒頭で死ぬのが父親ではなく母親だとしたら、未婚の末娘・高峰三枝子との同居という、作品の基本構造が「ほぼ同じ」というわけにはいかなくなるからだ。母親が夫の死と同時に住む家をなくすという、『戸田家』の住居空間のあり方そのものが、まず違ってくるはずなのだから。
もし『戸田家』の冒頭で死んだのが父親ではなく母親である場合は、独身の父親と未婚の娘と二階建ての一軒家の3点セットが遺産として残される、というのが小津作品の基本的な家族・住居構成であるからだ。その二階建ての一軒家を、独身の父親と未婚の娘とが上下に住み分けるというのが『晩春』で確認された、性的分割を伴った空間分割のあり方であり、それは父母の死を入れ替えた『戸田家の兄妹』の別バージョンについても、当然適用されるべき分割パターンであるべきだからである。
こうした父と娘とのあいだの性的な空間分割構造を考えると、夫の死と同時に住む家を亡くした母親が、未婚の末娘と共に、結婚して独立した子供たちの家の二階の部屋を転々とする現バージョンと「ほぼ同じ作品ができあがったかもしれない」という記述は、蓮實氏にしては珍しく不用意で、間違ったものと言わねばならない。
小津作品において、独身の娘と二階に共存を許された男親は『麦秋』の菅井一郎ただひとりであって、その理由は、妻・東山千栄子が健在であり、二人の孫までいるからだ。*10
もし『戸田家の兄妹』別バージョンで父・藤野秀夫が生き残ったうえに、住む家まで失ったとしても、彼が未婚の末娘・高峰三枝子と二階の部屋に同居することは決して許されなかっただろう。結婚して独立した子供たちが、どれほど老父や妹を邪険に扱ったとしても、独身の男女ふたりを一階と二階とに住み分けさせるという小津的な配慮まで失うことはありえないはずだからだ。
『晩春』の父と娘をめぐる性的な空間分割構造に戻ろう。
父・笠智衆と娘・原節子が、二階建ての一軒家を「不在の階段」によって一階と二階を上下に分断し、住み分けることによって、かろうじてその日常生活を維持していることは、以上の考察でじゅうぶんわかっていただけたと思う。この父娘が『秋日和』の原節子・司葉子の母娘のように、2DKのアパートに同居し、寝起きを共にするなどということは、絶対に不可能なのだ。
しかし、そんな父と娘が、同じ階の同じ部屋で布団を並べて横たわる、京都の宿での婚前旅行の最後の夜の場面を演出してしまうのが、また、小津の小津たるゆえんでもある。
父と娘の婚前旅行
『晩春』では、就寝場面はもちろんのこと、登場人物が布団に横たわる姿を見せるのが、この京都の旅館の夜のシークエンスに限られていることに注意しよう。
就寝場面の多い『東京物語』をはじめ『麦秋』『早春』『東京暮色』『秋日和』『小早川家の秋』等と比べると、『晩春』の人物の横臥率の低さは明白だ。
『晩春』の笠智衆と原節子の父娘は、自宅ではいつ寝ていつ起きたのか、はっきりしない。布団を敷く場面もなければ、それを片付ける場面もない。お互いの縁談について座って語り合うだけで、性的な緊張感がみなぎるふたりの同居生活においては、たとえ一階と二階に別れていていようとも、自宅で横たわる身振りは決して許されないものなのだ。
『晩春』の笠智衆と原節子の父娘は、自宅での布団への横臥が禁じられていたかわりに、京都の旅館で一室で、堂々と布団を並べて横たわる。ローポジションのカメラから捉えられた「独身の男女」が布団を並べて横たわるさまを、1955年松竹入社の吉田喜重が「父と娘がほとんど同衾するような」と「同衾」いう生々しい一語でもって、同席するマノエル・デ・オリヴェイラたちに言い表したのは、ある意味当然のことだろう。*11
自宅では「不在の階段」によって垂直に分離され、決して同じ階、同じ部屋に布団を並べて寝ることのない独身の父と娘が、旅館の一室で、暗い照明のなか布団を並べて横たわる。ここでは、父・笠智衆の横たわる布団と娘・原節子の布団のあいだを遮るものは何もない。
京都の旅館のシークエンスにおいて、鎌倉の自宅ではいつもふたりを垂直に分断していた「不在の階段」が不在であるという妙な事態、父と娘の最後の婚前旅行という特殊なシチュエーションが可能にした主題論的異常事態(旅先の椿事?)がふたりのあいだに起きているのだ。
この「不在の階段」の性的な抑圧・禁止の不在、が初めて可能にした独身の父と娘がともに枕を並べて眠る姿は「新婚初夜の光景」と重なり合って「近親相姦のイメージ」を深く示唆する。
<新婚を間近に控えた娘が、たとえそれが父との最後の別離の旅であるとはいえ、ともに枕を並べて眠る姿は、おのずから娘の新婚の初夜の光景と重なり合って想像されたとしても、不思議ではなかった。(…引用者略…)もちろんこうしたおぞましい、常軌を逸した想像は許されるものではなかった。俳優に与えられた役が父と娘であるかぎり、ふたりのあいだに性的な関係を予感し、そのように夢想することは、当然のことながら近親相姦のイメージを深く示唆するものであったからである。>*12
「俳優に与えられた役が父と娘であるかぎり」という指摘は重要だ。小津作品で男女の俳優が枕を並べて眠る場合、『早春』の池部良と岸恵子の「不倫カップル」のような例外を除くと、ほとんどが夫婦の役であり、男女の俳優が「父と娘」という役で同じ一室で寝るケースは『晩春』の京都の宿の場面しかないからだ。しかも『晩春』が公開された1949年当時の笠智衆45歳、原節子29歳、という主演俳優の年齢構成を見れば、旅館の一室に枕を並べて眠るふたりの男女の与えられた役柄が、夫婦ではなく「父と娘」という設定には本来微妙な違和感があるわけで、そこに性的なコノテーションを感じないほうがかえって不自然というものだろう。
「不在の階段」と「壺の映像」
京都の宿の一室で、あからさまに露呈した、笠智衆と原節子の「父と娘」役がもつ性的な不自然さを、それまで抑圧・隠蔽していたのが、鎌倉の自宅の二階建て一軒家での「不在の階段」を介した、独身の父と娘との一階/二階の住み分けだったのであり、この建築構造と一体化した性的空間分割システムが、小津的な「父と娘」による家族の戯れ/秩序を維持してきたのである。
京都の旅館では、「不在の階段」が不在のため、この小津的な秩序/戯れの持続が危機に瀕している。そうした危機を回避する非常手段として導入されるのが、あの「壺の映像」なのだ。鎌倉の自宅では「不在の階段」による住み分けシステムが、父と娘を一階/二階へと垂直に分断していた代わりに、京都の旅館の一室では「壺の映像」が水平に並ぶ父と娘のあいだに割って入り、「近親相姦のイメージ」「きわめて生なましい性の露呈」を即興的に封じ込めようとしているのだ。
<おそらく小津さんは壺の映像を想定することなく、京の宿の場面を描こうとしたのだろう。(…引用者中略…)むしろ『晩春』の父と娘のような聖なる主役たちが語り合う場合、ふたりを限りなく曖昧な表情のまま繰り返しカットバックするのが、小津さんらしい表現のありようであり、なんの脈絡もない壺のたたずまいを不意にモンタージュして、劇的な意味づけをはかるような手法を小津さんは映画のまやかしとして嫌ってきたはずである。みずから定めたそうしたゲームの規則に重大な違反を重ねてまで、壺の映像を挿入せざるをえなかったのは、父と娘の表情を直接カットバックしつづけるならば、それが男と女の性的欲望へと転化し、ただならぬ近親相姦といったイメージに観客がとらわれてゆくことを、小津さん自身がまさしく恐れたからにほかならない。そして自らの戯れの果てに、思わず誘発された危うく、おぞましい欲望を鎮め、浄化するために、壺の映像が欠かせなかったのである。>*13
「壺の映像」なしに「父と娘の表情を直接カットバックしつづけるならば」云々という生々しい想定は、「不在の階段」による父と娘の一階/二階の住み分けについても適用可能なものだろう。
京都の旅館での「不在の階段」の不在が「壺の映像」の挿入を促したのだから、もしも鎌倉の自宅においても、父と娘の一階/二階の住み分けが為されなかったとしたら、『晩春』は全編において、父と娘の「近親相姦のイメージ」の危機に曝され続けることになっただろう。
それゆえに『晩春』の父娘は、二階建ての一軒家の一階/二階に住み分けしなければならないのであって、2DKのアパートに同居するなどもってのほかなのである。
『秋日和』のハッピー・ウェディング
『秋日和』の司葉子と原節子による「婚前旅行」には、『晩春』の京都の旅館のような緊張感はない。浴衣姿の司葉子と原節子とのカットバックは「壺の映像」で遮る必要もないし、そもそも2DKのアパートに同居する母娘には「不在の階段」による住み分け、などという性的分割システムに伴う葛藤とも無縁である。
この2DK暮らしの母娘の結婚喜劇が、後期小津作品中で最も幸福感に満ち溢れている理由は、出会いから交際を経て、結婚式に至るまでの娘の結婚のプロセスが、すべて祝福されるべきものとして描かれていることにあるだろう。小津が、これほど幸福な結婚を描いたのは『秋日和』だけである。
娘の結婚の物語を繰り返し取り上げた『晩春』以降の小津安二郎作品において、ごくふつうの幸福な結婚 ― 当人同士の意志に基づき、家族や周囲に祝福された結婚 ― は、ほとんど描かれることはなかった。
『晩春』『秋刀魚の味』では、画面に顔も映らない見合い相手との縁組を承諾することで花嫁姿となる娘たちからは、犠牲精神のようなものは感じられても、とても幸福感は感じられない。『彼岸花』の有馬稲子と佐田啓二のような相思相愛の恋人たちの場合でさえも、結婚に不満をもつ花嫁の父・佐分利信の結婚式への欠席表明によって、なかなか幸福な結婚へとは至ろうとしない。そんな不幸な縁組が多いなか『秋日和』は、小津映画全作品中唯一、「娘の幸福な結婚」が描かれた作品といっていい。
娘・司葉子は、母・原節子の亡夫の悪友三人組(佐分利信・中村伸郎・北竜二)の見合い話を断りながらも、その断った見合い相手である佐田啓二と、ふつうの恋人同士としての交際を経て、盛大な結婚式に至るのだ。
『秋日和』の司葉子・佐田啓二は、本人同士の意思に基づき、家族と周囲から(さらには観客から)も祝福されて結婚に至る、小津映画では唯一無二の幸福なカップルなのだ。
ふたりの交際過程が、出会いの場面から結婚式の記念撮影まで描かれているのも、小津映画では異例のものだろう。
蓮實重彦はなぜ『秋日和』には存在する結婚式場での記念撮影のシーンが『晩春』『秋刀魚の味』には存在しないのか、と問いかけ、その理由を、後者では男親が二階の娘の部屋に階段を上って挨拶した段階で、別れの儀式は済んでいるから、結婚式場をあえて映す必要はないと、もっぱら「不在の階段」と二階の娘の部屋の「女の聖域」をめぐる「住むこと」の主題と父娘の離別の儀式の相関という、主題−説話間の機能的相関という観点から答えている。
しかし、この問いにはもっと素朴に答えることが可能なのであって、『晩春』も『秋刀魚の味』も、結婚相手の顔を画面に出せないような、娘の不幸な結婚を描いた作品なのだから、結婚式場で新郎新婦が並んで映る記念撮影のシーンを出すわけにはいかないのだ。*14、*15
こうしてみると、いかに司葉子・佐田啓二の恋人たちが、小津映画では例外的に幸福なカップルであり、いかに『秋日和』が小津映画では例外的な祝福ムードにあふれた「娘の幸福な結婚」を描いた映画であるかがわかるだろう。*16
北竜二との再婚話を断った寡婦の母・原節子も、娘の結婚後はひとり寂しく残されているかに見える。
だが『晩春』の笠智衆の「男やもめ」には蛆がわくかもしれないが、原節子の「女やもめ」には花が咲くことひっきりなしだろう。『早春』の中北千枝子のアパートを見ればわかるように、小津映画では寡婦のアパートには必ず女友達が転がり込んでくるのである。
『秋日和』の原節子・司葉子母娘が住むアパートは、司の友人・岡田茉莉子が訪ねてくるだけで、そこは他作品の二階の娘部屋と同様に男子禁制の「女性の聖域」である。
しかも、そのアパートの部屋は明らかに二階以上の階にあって、そこへ出入りするためには階段を通過しなければならないはずだが、もちろん画面に階段のショットは映ることはない。
そこは団地タイプのアパートの一画にありながら、不可視の階段を通過しなければ出入りできない男子禁制の女性の聖域であるという点で、まぎれもなく他の作品に出て来る一軒家の二階の娘の部屋のヴァリエーションなのである。
原節子・司葉子の母娘には二階建ての一軒家は不必要である。彼女たちは『晩春』の笠智衆・原節子の父娘のように一階/二階にわざわざ住み分ける必要はないのだから、そこが男子禁制の空間ならば、2DKのアパートでじゅうぶんなのだ。
『秋日和』は、本来ならば、娘を嫁に出した後は空っぽになるはずの男子禁制の女性の聖域に、寡婦である母親が暮らし続けるという、後期小津ではある意味奇形的な作品である。
『晩春』の笠智衆が娘の嫁入り後、空っぽになった二階の部屋の空白感に耐えながら一階に暮らし続けなければならないのに対して、娘とアパートの空間を共有していた原は、そこへ娘の友人・岡田茉莉子を招き入れることによって、女性の聖域をさらに活性化させることも可能になるだろう。
『晩春』の笠智衆のもとへも、娘の友人であるバツイチの「ステノグラファー」月丘夢路が慰めにくるだろうが、笠智衆は月丘を一階の応接間でもてなすことはできても、彼女ひとりを二階の娘の部屋へ上げるわけにはいかないし、ましてやふたりで二階へ一緒に上るのはもってのほかである。*17
娘の嫁入り後、男子禁制の女性の聖域で、あらためて独身のひとり暮らしを再開する原節子にふさわしい名称は「永遠の処女」ならぬ「永遠回帰の寡婦」だろうか。*18
*1:蓮實重彦『監督 小津安二郎』【増補決定版】、筑摩書房、2003、69−95頁
*2:「女の聖域」であるべき二階の例外として、菅井一郎・東山千栄子夫妻が娘の原節子と同じ二階に暮らす『麦秋』があるが、妻が健在で孫もいる菅井一郎は、『晩春』『秋刀魚の味』の寡夫・笠智衆とは異なり、未婚の娘とともに二階に暮らす権利を有する。また『宗方姉妹』では、嫁入り前の義妹・高峰秀子を妻・田中絹代と一階に住まわせ、二階を書斎として独占する失業中の夫・山村總は、小津作品に例外的な雨に濡れたまま「不在の階段」を上ると、音を立てて倒れてそのまま変死する。『宗方姉妹』の山村總は、男女・階別の住み分け、天候・死に方の2点において、小津全作品において異常な例外、残酷な特異例となっている。
*3:より厳密を期すならば、戦地から未帰還の次男の生死は不確定のままであり、わずかな可能性を信じて夫の生還を待ち続けている原節子を「寡婦」(戦争未亡人)と呼ぶのは不適当なことなのかもしれない。ただし民法上、夫の死亡とそれに伴う再婚の自由が認められた女性は、やはり「寡婦」にカテゴライズされるべきだろう。再婚の自由を放棄し、戦後も次男の嫁を演じ続ける原節子は、自分が「戦争未亡人」であることを否認する一種の戦争神経症患者ともいえるだろう。
*4:淡島千景と池部良は幼い子供を亡くした過去があり、それが夫婦仲に暗い影を落としている。
*5:『早春』は、中北千枝子が出演した唯一の小津作品だが、その甲斐あってか(?)、また浦辺粂子が営む実家のおでん屋のおかげもあって、小津映画のなかでは最も成瀬的な雰囲気に近づいている作品だと思う。
*6:なお小津が「トップバッター女優」岡田茉莉子に花嫁役を演じさせなかった理由は、親友・岡田時彦の「お嬢さん」に、花嫁=「画面から消え去る娘」を演じさせたくなかったから、というのは考えすぎだろうか。なお、岡田茉莉子の花嫁姿は中村登の「小津追悼?作品」『結婚式・結婚式』(1963)で見ることができる。http://d.hatena.ne.jp/jennjenn/20140816
*7:もし、小津作品からベストワンをあえて選ぶとするならば、やはり『麦秋』だろう。それは菅井一郎が原節子の父親役に入ったことで、笠智衆と原節子が兄妹という無理のない関係に収まったこと、そして三宅邦子の兄嫁と原節子との関係(砂浜のクレーン撮影!)、さらには家出騒動を起こす甥っ子たちとの関係、大和のおじいさん(高堂國典)との関係をポリフォニックに描いたうえに、『東京物語』での東山千栄子の死の描写のようなメロドラマ的冗長性を「記念写真」でクールに断ち切っているからだ。なお裏のベストワンは『東京暮色』。これは小津的ホームドラマが本当はホラー映画であることを自ら露呈した問題作。夫と子供を捨てて出奔した挙句に引揚者として東京に戻って来た山田五十鈴が営む二階の麻雀屋と笠智衆の通うパチンコ屋の一階との空間的対立、山村聰を雨で打ち殺した『宗方姉妹』の呑み屋の主人役に引き続き「地獄の飲食店主」(珍々軒!)としてキャスティングされた藤原釜足、『非常線の女』そっくりのセットで有馬稲子を補導する刑事・宮口精二、白いマスクから黒い喪服に着替える原節子。これらすべてが揃いも揃って、薄幸なヒロイン有馬稲子の死/消滅が、他作品での娘の嫁入り/消滅と、構造的には同型であることを残酷に立証している。
*8:それにしても『麦秋』の菅井一郎は透明で美しすぎる。この上品で控えめな老紳士が『滝の白糸』(溝口健二、1933)で、入江たか子をケダモノのように襲った、強欲で卑劣な高利貸と同一人物だとは、何度見ても信じられない。
*9:蓮實・同書、150頁
*10:老夫婦が息子夫婦、嫁入り前の娘、孫と同居する日常を描いた『麦秋』には、本来の意味での「小津的なもの」に満ちあふれている。老夫婦が上京して息子、娘たちと久々に再会するメロドラマ『東京物語』と比較すると、その点はすぐに明らかになるだろう。
*11:『国際シンポジウム 小津安二郎 生誕100年記念「OZU 2003」の記録』、朝日新聞社、2004、243頁、シンポジウムの動画では56分前後。ここで吉田監督のいう「命を賭けた戯れ」としての「父と娘のほとんど同衾」という発言は、このシンポジウムのクライマックスとなっている。
*12:吉田喜重『小津安二郎の反映画』岩波書店、1998、157−158頁
*13:吉田・同書、159−160頁
*14:『晩春』『秋刀魚の味』において、娘の結婚式はすなわち「娘の葬式」であり、画面に姿を見せない結婚相手はいわば「死神」である。そんな新郎=死神を画面に映さないのは、キャスティングの問題からいっても、当然のことだろう。『晩春』では画面に映らなかった原節子の結婚相手(ゲーリー・クーパー似?)は、『東京暮色』の子連れ家出妻・原節子の夫・信欣三の死神のような風貌となって回帰する。『東京暮色』のラストで原節子は夫とやり直す決意を示すが、成瀬映画のような夫婦の会話/和解の場面は一切ないし、有馬稲子の死=消失は他作品の娘の嫁入り=消失と見分けがつかない。かくも残酷な小津!
*15:小津映画の記念撮影場面がいかに不吉なものであるかについては、四方田犬彦の『長屋紳士録』の詳細な分析(「小津安二郎―不在の映像」)を参照。四方田犬彦『エッセ・シネマトグラフィック 映像の招喚』青土社、1983、65−85頁
*16:『麦秋』の原節子と二本柳寛の結婚も幸福な部類に入るかもしれないが、秋田へ赴任する子持ちの寡夫・二本柳寛との唐突な結婚を契機に、原節子の家族は秋田・奈良・鎌倉に「一家離散」することになるのだから、この結婚を心から祝福してくれるのは、二本柳寛の母親役の杉村春子だけである。「紀子さん、パン食べない? アンパン」と。
*17:『秋刀魚の味』で笠智衆が友人の北竜二を「不潔」呼ばわりするのは、北竜二が笠智衆の守った「境界線」を越えて、自分の娘と同年代の女性と再婚したためである。
*18:同年公開の東宝創立35周年記念作品『娘・妻・母』(成瀬巳喜男、1960)で原節子は、嫁ぎ先から実家に一時「出戻り」中に、夫と死別して寡婦になったにもかかわらず、仲代達矢の若い恋人とのキスシーンを楽しむのんきな奥さんを演じていて、実に色っぽい。仲代達矢インタビューによると、女優マネージャーからの接触禁止要請と監督キス強行命令との板挟みになりながら、原節子本人のOKにより直接唇を重ねたそうである。『新潮45特別編集 原節子のすべて (新潮ムック)』