『江戸の悪太郎』(1939)『ハナコサン』(1943)

驚嘆すべきマキノ雅弘論『マキノ雅弘 映画という祭』(新潮選書)のなかで、山根貞男は『ハナコサン』終盤の「何とも不思議なシーン」について詳細に論じている。

<戦中につくられた家庭劇やメロドラマによくあることだが、夫に召集令状がくるところで映画は終盤を迎える。赤ん坊を乳母車に乗せて散歩していた轟夕起子が、会社帰りの灰田勝彦と会い、小学校の校庭で話す。妻は出征するあなたに何かしてあげたいと言い、「お前の好きなことをすればいい」と答える夫に、何をするかと思いきや、でんぐり返りをやってみせ、おかめの面の踊りに移る。お面は夫が模型飛行機と一緒に買ってきたもので、さきほど「お前だと思って持ってゆくよ」と説明し、二人で笑った。お面を頭の後ろに着け、前向き後ろ向きをくりかえす踊りゆえ、お面とふっくらした丸顔がくるくると入れ替わる。と、妻は模型飛行機を飛ばし、それを追ってススキの原っぱへ走りこみ、夫は赤ん坊を胸に妻の名前を呼んで探す。画面は轟夕起子のにこやかなアップ、広いススキの原に離れ離れに立つ夫と妻の姿、親子三人がススキの彼方へ歩いてゆくロングショット、とつづいて終る。>*1

山根氏はさらに<何とも不思議なシーンで、でんぐり返りといい、おかめの面の踊りといい、すっきり文脈を読み取れない。その不可解感はラストのススキの原へつづき、轟夕起子は笑みを浮かべ、灰田勝彦は赤ん坊を抱いてにこにこし、まさに若い夫婦の幸せぶりを絵に描いたような光景だが、どこか暗い。単に暗いのではなく、明るいのに暗く感じられることが、不気味なのである>と続け、この一連の場面の不思議さ、不気味さに戦争の影が見えることを示唆している*2
しかし、ここで注目したいのは、この轟夕起子のでんぐり返りが、地面すれすれのローポジション撮影によって捉えられていることである。鞍馬や吊り輪といった体操用の器具が設置してあるグラウンドを赤ん坊を連れた夫婦は散歩し、会話をする。夫・灰田勝彦は赤ん坊を地面に下ろして歩かせ、その横で轟夕起子は、出征する夫のためにと、とつぜんのでんぐり返しを始めるのだ。
その映像は鞍馬の下から覗くような構図のショットを交えることで、カメラの位置の低さを不自然なまでに強調したものになっている。とつぜんのでんぐり返りだけでも不思議だが、この低さをあえて強調したローポジション撮影によって、これらがいっそう「何とも不思議なシーン」になっていることは確かである。
轟夕起子のとつぜんのでんぐり返りは、この例外的なローポジション撮影のショットを画面に導入するための運動=イマージュとして、強引に実行されたのではないかとさえ思えてくる。しかもこのシーンの直前には、いかにも戦時らしく上空を飛び交う飛行機の編隊を捉えた仰角ショットがインサートされているのだから、このローポジション撮影による水平ショットは、いやでも上空を捉えた仰角ショットと極端な角度差=高低差のコントラストを形成して、戦時特有の(?)緊張感を帯びている。
編隊飛行の仰角ショット、というだけならば、必ずしも戦時体制と結びつける必然性はないかもしれないが、同じローポジション撮影の被写体の一員である赤ん坊が、夜間空襲の灯火管制のさなかに出産シーンを迎えていたことを考えるならば*3、このローポジション撮影による水平ショットと仰角ショットとの高低差のコントラストに、山根氏が示唆する「戦争の影」を見る必然性はじゅうぶんあるだろう。*4*5
ローポジション撮影による水平ショットと仰角ショットとの角度差=高低差のコントラストは、戦前版『江戸の悪太郎』にも見ることができる。
その高低差のコントラストは、悪徳祈祷師に長年守ってきた貞操を奪われた武士の未亡人が、投身自殺する場面の前後に現われる。
夫の失踪後、露店商を営みながら、貧乏長屋に幼い息子と暮らす武士の「未亡人」星玲子は、商売の仕入れの金を落とした幼い息子が家出状態になって日が暮れても帰らないのを探しに出かける。息子が心配な母親は、つい悪徳祈祷師に子供の行方を占ってもらうが、その屋敷での祈祷の最中に、祈祷師の術に陥って、夫の失踪後守り続けてきた貞操を奪われてしまう。祈祷を終えた彼女は放心状態のまま橋の上に立ち、そこで発作的に投身自殺をしてしまうことになるのだが、その投身自殺の舞台となる橋のセットの橋脚が、とても江戸の町内にかかった橋とは思えないほど極端に細く高い造作になっているのがまず目につく。
その細く高い橋脚のために、夜の橋の上に立つ星玲子の最後の姿を橋の下(ローポジション!)から見上げた仰角ショットには、表現主義的といっていいほどの異様な雰囲気が漂っている。
その異様な雰囲気は、翌朝、彼女の死が貧乏長屋に伝えられる場面でいっそう増幅されることになる。早朝の貧乏長屋の前の広場にはニワトリが2,3羽歩いているのだが、そのニワトリをローポジションのカメラが捉え、ニワトリを前景にして長屋全体がローポジション撮影に収められる。そこへ星玲子の投身自殺の知らせが届けられ、長屋の住人たちは騒然となる。
画面は、ローポジション撮影による貧乏長屋の水平ショットから、前の晩に星玲子が立っていた、例の細く高い橋脚の橋のセットに野次馬の群れがひしめいている様子を橋脚の下から見上げた仰角ショットにつながる。
このニワトリを前景にした長屋のローポジション撮影の水平ショットと、投身自殺現場である橋の仰角ショットとのカットバックが生み出す、圧倒的な角度差=高低差のコントラストが、画面には直接映っていない星玲子の死に至る落下運動を、雄弁かつ残酷に物語っているのだ。
異様なまでに細く高い橋脚のセットは、ここでは死に至る高低差を形成するために不可欠なものとなっている。*6
やがて戸板に載せられた遺体が長屋に運ばれ、一晩の家出から帰ってきた息子にも、寺子屋の先生・嵐寛寿郎の口から母親の死が告げられる。この寺子屋の師弟ともに辛い場面でも、ローポジション撮影の水平ショットと仰角ショットによる高低差のコントラストは、執拗に変奏される。
星玲子の遺体を運ぶ戸板の下から覗くような極端なローポジションからの水平ショットで、その母親を亡くした息子の姿が捉えられる。その幼い息子に母親の死を告げる嵐寛寿郎の沈痛な表情のアップは息子の見た目ショット(POV)によって捉えられ、ローポジションからの仰角ショットによるアップは、大人の顔を見上げる子供の視線をリアルに表象している。
この長屋のシークエンス全体に見事に組み込まれた、ローポジションからの水平ショットと仰角ショットとの角度差=高低差のコントラストは、自分の過失が原因で母親の死を招いてしまった子供の運命の残酷さを強調して止まない。*7
ハナコサン』と『江戸の悪太郎』の2作品に見られるローポジション撮影+仰角ショットという組み合わせは、その角度差=高低差のコントラストが、時代劇/現代劇を問わず、物語の内容表現にまで影響を及ぼすほどの強度を秘めているという点で、非常に独特な用法といえるだろう。
このマキノ流ローポジション撮影(+仰角ショット)は、同じローポジション撮影でも、小津安二郎のそれとも、加藤泰のそれともまったく異質な効果、強度をもつものとして、あらためて注目すべきだろう。。
なお、戦後版『江戸の悪太郎』(1959、東映)と戦前版とを比較すると、戦後版の投身自殺の舞台となる橋は普通の時代劇のセットで、画面には橋脚そのものが映っておらず、戦前版にあった細く高い橋脚の下からの不気味な仰角ショットは存在しないので、その印象は大きく異なる。
長屋に母親の遺体を運ぶ戸板下からのローポジション撮影による水平ショットは、戦後版にもいちおう存在するのだが、身投げの落下運動を連想させる仰角ショットとのカットバックもないため、高低差のコントラストを形成することはない。
幼い息子に母親の死を告げる寺子屋の先生・大友柳太郎の表情も、戦前版のような子供目線のPOVではなく、常識的なバストショットに収まっている。
戦後版『江戸の悪太郎』は、笑いと涙を誘う「金貸し婆あ」役・浪花千栄子の圧倒的な名演もあって、戦前版をおおっていた表現主義的な暗さを完全に払拭した見事な東映娯楽時代劇作品としてリメイクされている*8

マキノ雅弘―映画という祭り (新潮選書)

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*1:山根貞男マキノ雅弘 映画という祭』新潮選書、76ページ

*2:ススキの原で轟夕起子の姿が一瞬見えなくなる不穏な動作、共に笑顔を見せているとはいえ「広いススキの原に離れ離れに立つ夫と妻」との異様な距離感のために、このススキの原のラストシーンは、夫の出征後の「ハナコサン一家」の暗い運命を予感させずにはいられない。『ハナコサン』の5年後の1948年、溝口健二『夜の女たち』とほぼ同時期に、当時の食糧事情に逆らうようにメタボ体型化した轟夕起子が街娼「関東小政」を奔放に唄い演じた『肉体の門』が公開されているが、この『肉体の門』は、じつは『夜の女たち』の田中絹代と同様に、敗戦で夫と赤ん坊を亡くした「ハナコサン」轟夕起子の後日譚なのではないか、という疑念をどうしても抑えることができない。

*3:この灯火管制下の出産シーンは、天井の裸電球1つと隣室の電気スタンドのランプシェードからの薄明かりによる西川鶴三の照明設計が素晴らしい。出産シーンと書いたが、産声が響くのは翌朝になってからである。

*4:おかめのお面を後頭部につけて轟夕起子がくるくる回る(表返る!)シーンの不思議さ、不気味さは、それが表と裏、正面と背面とを同時に映すことはできないという映画の制度的な限界を、高速マキノターンとお面の主題の結合という安直な手法(?)によって侵犯しているところから来ていると思う。ここでは高速マキノターン+後頭部のおかめのお面によって、表と裏、正面と背面との階層的な差異が失われ、すべてが「表返っただけ」の状態に還元されてしまうのだ。ここではもう、表の轟夕起子の顔と裏のおかめの顔とを区別することは無意味になっている。戦時中、こんな映画的冒険を易々とやってのけるマキノはやはり怖ろしい。

*5:「戦争プロパガンダ映画」としての『ハナコサン』の両義性については、紙屋牧子氏の論文を参照。http://ci.nii.ac.jp/els/110009480110.pdf?id=ART0009947559&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1425777273&cp=

*6:この細く高い橋脚のセットがマキノ本人の特注によるものなのかどうか、ぜひ知りたいものだ。

*7:『江戸の悪太郎』の「貧乏長屋」と「子供の家出」の描写には、マキノの盟友・山中貞雄の影を見ずにはいられない。

*8:高低差のコントラストといえば、戦前版『江戸の悪太郎』で、三吉として男装していた轟夕起子が女性であることを瞬時に露呈させるのは、名人会での場つなぎに伊奈節を唄う場面で披露する、宝塚仕込みの歌唱力によるアルトからソプラノへの1オクターブ飛ばしの高音へのジャンプアップだったが、この戦前の宝塚トップスターならではの「桁はずれに偉い」高低差のコントラストも、戦後版の三吉役の大川恵子が伊奈節を唄う場面(たぶん吹き替え)では、やはり失われてしまっている。もし戦後版が美空ひばり主演でリメイクされていたならば、事情は大きく違っていただろうが…。