『女の一生』(1962)『黒の報告書』(1963)



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応接間の床に倒れた撲殺死体を真俯瞰で捉えた『黒の報告書』の冒頭のショットが、上記2作品における中川芳久・増村保造コンビの空間把握の基本姿勢を鮮明に示している。
人物の頭よりも高い位置にカメラを据え、俯瞰からのアップを多用することによって、切り返しにおいても視線が水平につながらず、そこに生じる視線の角度が人物間の権力関係を示唆する、というのがそれだ。
『黒の報告書』で検事・宇津井健に調書を取られる被害者の秘書兼愛人・叶順子の印象的なアップはハイアングルのカメラから俯瞰ショットで撮られることによって冒頭の死体の俯瞰ショットと関連づけられ、やがて裁判で宇津井を裏切ることになる彼女の微妙なポジションを暗示している。
杉村春子の当たり役だった舞台作品の映画化であり、貿易会社一家の養女となった孤児の娘が一家のために滅私奉公する『女の一生』は、題材・空間設定ともに、増村よりはむしろ成瀬巳喜男向きの作品だと思うが、そんな原作戯曲を中川・増村コンビは、ハイポジションとローポジションからのショットを交えたどんでん(180度切り返しショット)を多用することによって、成瀬的な水平のどんでんを多用した空間構成に対して、上下からの視角を加えたよりダイナミックな室内空間を構成しているのは大いに注目すべきだろう。
中川芳久のモノクロ画面は、産業スパイ映画の傑作『黒の試走車』(1962)の硬質な陰影に満ちた映像を思い出すまでもなく、ローキー・ハイコントラストを基本としているので、玉井正夫軟調を基本とした成瀬映画のなだらかなモノクロ画面とは特に対照的なものとなっている。
だが『女の一生』の撮影で決定的なのは、そうした画面の陰影よりもハイポジションとローポジションとの高低差にこだわったカメラワークによって捉えられた室内空間だろう。
ほとんどがセット撮影の『女の一生』は、食堂と夫の書斎が洋室のほかは和室というつくりの屋敷のなかで、立った人、椅子に座った人、畳に座った人、畳に這いつくばる人といった人たちが交わす視線の微妙な権力関係をハイ/ロー・ポジションのカメラを基本にしたショットの連鎖によって刻々と描き出すことによって、戯曲を原作とした室内劇を映画的な縦横の視角を内包した屋内空間へと再構成していくのだから、これほど演出と一体化したカメラポジションというのもあまり例がないだろう。
陰影の深い画面づくりをしたばかりでなく、『女の一生』でここまで演出と一体化して作品の空間構成に貢献した中川芳久は、増村保造の撮影監督として、小林節雄や村井博以上に評価されるべき存在だと思う。*1

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*1:厳しい条件のロケで南の海辺の光線を見事に捉えたスタンダードサイズ作品『大地の子守歌』(1976)も中川芳久の傑作。

『親不孝通り』(1958)


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賭けボーリングだけしか能のない不良大学生・川口浩が、ファッションデザイナーの姉・桂木洋子を中絶させて棄てた冷血漢のエリートサラリーマン・船越英二に復讐するため、その妹の女子大生・野添ひとみを強引に誘惑する。
最初は川口に怒りと反発を示すだけだった野添が、やがて兄・船越の制止をふりきってまで川口と本気で愛し合うようになり、復讐サスペンスのはずだったドラマが、結局は二組のきょうだいが揃って結ばれる結婚コメディへと反転していく作劇術は見事というしかない。
ただコメディといいきるには、池野成の音楽は怖すぎるし、川口と野添がレイプすれすれで結ばれる夜の山のススキ野の場面での、ススキをかきわけて前進する、まるでホラー映画のようなカメラワーク(別な日の朝、ふたりが再びススキ野を訪れる場面でもう1度同じカメラワークが繰り返される)は、この映画からロマンチックな甘さを奪っている。
タイトルとは違って、この映画には本当の「親不孝者」は出てこない(不幸にする親が最初から不在だ)。
激情から姉不幸な復讐に走る姉思いの弟と、激情から兄不幸な恋愛に走る(元々は兄思いの)妹がここにはいるだけで、最後は不幸な恋愛・出産に走る妹の「増村的激情」が、二組の親のないきょうだいを揃って幸福な(?)結婚へと導くことになる。*1
恋愛に法律上の責任はないと断言し、深い理由もなく恋人・桂木洋子を中絶させ結婚を拒否する、冷血漢で妹思いのエリートサラリーマンというニヒルで偽悪的なキャラクターを演じる船越英二の強烈な演技は、一瞬ジョージ・サンダースを連想させるものがある。
野添ひとみの濡れた瞳の眼力*2川口浩の投げやりな不器用さは相変わらずさまになっているが、その投げやりな川口浩に味のある説教をしてハッピーエンドに一役を買う呑み屋の親爺を、大映の名バイプレイヤー潮万太郎が好演している。
松竹からレンタル出演の桂木洋子は、恋人に突然捨てられ中絶してものん気な姉さん(?)という役どころで、松竹作品の時とは違ったいい味を出していると思う。

*1:桂木洋子川口浩姉弟は父親と死別し、母親は郷里在住、船越英二野添ひとみの兄妹は母親と死別し、父親は愛人の元に入り浸りで別居。両者は画面上ではともに「親のないきょうだい」として描かれている。

*2:1959年のカンヌ映画祭で、当時15歳だったジャン=ピエール・レオを虜にした魔性の瞳。http://tipsimages.it/Photo/ShowImage_Editorial_Popup.asp?laid=2&ofid=1&styp=keyw&logi=and&or_h=h&or_v=v&or_s=s&or_p=p&tp_f=f&tp_i=i&tp_c=c&ps_1=1&ps_2=2&ps_3=3&ps_g=g&pgsz=50&cl_c=c&cl_bw=bw&chrm=1&chrf=1&chcfa=start&chcil=start&chcfs=start&chcar=start&chefs=start&chene=start&chesp=start&cheen=start&ched=ed&latest=false&IMID=1150153&SCTP=edit&SCSA=

『スパ2』の扉はルビッチとつながっている‐②

スパイダーマン2』論‐後篇

メイおばさんの憤りと「不在の階段」

スパイダーマン廃業を決意し、変身用コスチュームをビルの谷間に脱ぎ捨てたPP(ピーター・パーカー)は、メイおばさんとともにベンおじさんの「二周忌」の墓参りをする。サム・ライミ映画では定番ともいえる、木の葉が風に舞い散る墓地の美しい映像の後*1、パーカー家の一階のリビングで、PPはメイおばさんに向かってやっと2年前のベンおじさんの死の真相を告白する。
PPがレスリング会場で見逃した強盗によってベンおじさんが殺されたこと、つまりPPが強盗を見逃さなかったなら、ベンおじさんは殺されずにすんだのであり、その死の責任の一端が自分にあることをメイおばさんに告白するという責務を『スパ1(スパイダーマン第一作)』での事件発生から2年遅れて、PPはやっと果たすのだ。しかし、寵愛する甥からの思いもかけない「おじ殺し」の告白には、いつもは優しいメイおばさんも、さすがに態度を一変させずにはいられない。
2年前に最愛の夫を死に追いやった無責任な覆面レスラーに対する怒りからか、あるいは、2年間も告白を引き伸ばし遅らせてきた甥の無責任な裏切り行為に対する憤りからか、メイおばさんは無言でPPの手を振り払うと、テーブルの席から立ち上がり、階段を足音を響かせて二階へ駆け上がる。
この場面で、画面左端の「不在の階段」を通って二階へ駆け上がることによって、肉親の男性への憤りを無言で表明するローズマリー・ハリスの身振りは、唐突にも小津映画の原節子をはじめとする未婚のヒロインを連想させて感動的だ。それは『コクーン』(ロン・ハワード、1985)の祖父と孫の「流し釣り」の場面のように、脈絡を超えた小津への類似によって、なんともいいがたい映画的動揺を引き起こし、見る者を途方にくれさせる。*2
ローズマリー・ハリスが階段を駆け上がって、一階から二階へ消え去るこの場面で、最も注目すべきポイントは、その階段の位置と画面上での映り方である。画面の左端には、階段の上り口らしい柱と手すりの一部分がギリギリ映ってはいるのだが、ローズマリー・ハリスが階段のステップを実際に上るショットは存在しない。彼女はただ画面の左端から画面の外(オフスクリーン)に消えていくのであり、そこへ階段を駆け上がる靴音がSEとして聞こえるだけなのである。
そこには階段のセットが本当に存在するかどうかもわからない。にもかかわらず、彼女は確かにこの「不在の階段」を駆け上って二階へと消えることで、一階に取り残された、甥のトビー・マグワイアーに対して、無言のまま怒りを表明したのである。
画面に映ることのない「不在の階段」を、はっきりと足音をたてて二階へと駆け上がることで、一階に取り残された肉親の男性に、その怒りと悲しみを表明するという身振りの共通性において、この場面のローズマリー・ハリスは、小津映画のヒロインたち、とりわけ『晩春』の原節子に瓜二つである*3。「不在の階段」を駆け上がる女性の怒りと悲しみという、オフスクリーンを介した映画的表象によって、『スパ2』のサム・ライミは『晩春』の小津安二郎と、瞬間的に通じ合っているのである。
一方で、その2年遅れの告白の無責任さに対して、メイおばさんから小津的な無言の憤りの表明を受けて一階に取り残されたPPは、スパイダーマンも廃業したまま、もはや遅延・告白・負債の3つの主題系が織り成すダメージから、回復するチャンスはないのだろうか。

火事場の待ち伏せと扉の陰の少女

コスチュームを脱ぎ捨てて、スパイダーマン廃業をいったんは選択したPPは、しかし、ヒーローとしての責任を全面的に放棄したわけではない。火災現場の中に、幼い少女が取り残されていると聞けば、炎で燃え盛る建物の中に、普段着のまま未変身で飛び込んでいかずにはいられない。
前作『スパ1』の火災現場で、助けを求める女性の悲鳴に釣られて飛び込んだ建物の炎の中で、グリーン・ゴブリンの待ち伏せを喰らって負傷した苦い経験は、PPには教訓として生かされていないようだ。幸いにも、今回建物の炎の中でPPの助けを待っていたのは、クローゼットに隠れて炎と煙を避けていた中国系の幼い少女で、PPはクローゼットの木の扉を開けると、炎に包まれた建物の中から少女を無事救出して、両親に引き渡す。
一見、PPの英雄的行為によって、幼い少女を火事から救ったように見える、この火事のエピソードはしかし、サム・ライミ的主題系という観点から見直すならば、『スパ1』でグリーン・ゴブリンがスパイダーマン待ち伏せしていたように、中国系の幼い少女の方が、炎で燃え盛る建物の木の扉の陰で、PPを待ち伏せしていたと見做すことも可能なものだ。
では、炎の中で、クローゼットの木の扉の陰に隠れていた少女は、いったいいかなる目的・理由でPPを待ち伏せしていたのだろうか。それは、木の扉が、サム・ライミ的主題系においては、本来存在を保護するものであって、決して敷居越しに20ドル札紙幣を奪い取るための開閉装置ではないことを、身をもってPPに伝えるために、少女は燃え盛る炎の中、わざわざ木の扉の陰に隠れてPPを待ち伏せしていたのだ。
木の扉の陰の少女は、PPに炎の中から救われることによって、一瞬の扉の開閉からディコヴィッチ氏に「家賃(Rent)!」としてメイおばさんの20ドル札紙幣を毟り取られたダメージから回復するきっかけを、木の扉に関する主題論的な啓示によって、PPに逆に与えているのである。
サム・ライミ的主題系にあっては、火事とはまず待ち伏せの場所であり、また、木の扉とは窓ガラスとの対比において、最終的には存在を保護する装置であって、決して家賃を取立てるだけ取り立てて、部屋の外に締め出すことなどありえないのだから。この扉の陰の少女の主題論的啓示によって、PPはディコヴィッチ氏に扉の敷居越しに20ドル札を奪われたダメージに始まったスランプから脱出するきっかけをつかむのである。

窓ガラスと扉の対位法

死霊のはらわた』『続・死霊のはらわた』『死霊のはらわた3/キャプテンスーパーマーケット』において、死霊が登場人物たちを襲撃するスタイルと、その襲撃を避けるためにブルース・キャンベルがどこに隠れていたかを思い出そう。
明確な実体のない死霊の襲撃は、窓ガラスを派手な音を立ててぶち破って侵入することで、小屋の中の人間たちを怯えさせていた。小屋の窓ガラスが次々と破られるなか、ブルース・キャンベルは木の扉の陰に身を隠すことで、かろうじて死霊の襲撃を避けていた。ギシギシと音を立てる木の扉は見た目もボロボロになりながらも決して崩壊することなく、最後までブルース・キャンベルの存在を保護していた。
このように『死霊のはらわた』シリーズでは、窓ガラスと木の扉は、ともに建物の内部と外部を分節するものでありながら、窓ガラスはその透過性と破砕のイメージ、破砕のクラッシュ音という視覚的、聴覚的な特異性・破局性によって、木の扉の持つ、地道な耐久性によって存在を保護する機能を、対比的に際立たせる役割を演じていたといえる。
『スパ2』においても、そうした窓ガラスの役割は、核融合装置の実験場面での、破砕するガラスに映った、ドクター・オクタヴィアス夫人ロージーの最期の表情に見ることが出来るだろう。核融合装置の炎のコントロールに失敗したオクタヴィアスは、最愛の妻ロージーを失い、自らもドク・オクに変身して、怪物科学者として暴走しはじめる。
ロボットアームと合体したドク・オクの捨て鉢な暴走の本当の原因は、最愛の妻を自分の実験によって殺してしまったことにあるのだから、悲鳴を上げるロージーの表情が映った窓ガラスの破片のイメージをさらにロージーの瞳孔の中に映した残酷な二重イメージは、『スパ2』において最も悲痛な映像的カタストロフィを成しているのだ。
ガラスの破砕に反映した女性の死の表象は、ここで炎のイメージを仲介として、中国系の幼い少女の命を救ったクローゼットの木の扉と、生と死をめぐる対位法を形成しているといえるだろう。*4
ガラスに映った死と炎のイメージを介して、木の扉の陰の少女を救出する火事の場面と核融合実験の場面とが、主題論的な対応関係を持つことはこれでいちおう確認できただろう。だがしかし、木の扉と炎との結びつきは、もうひとりのチャーミングな女性によって、もっと早い段階で提示されていたことを思いだそう。
その女性とは、あの憎たらしい大家のディコヴィッチ氏のやせっぽちの娘である。娘のファースト・ネームは『スパ2』の劇中ではいっさい名指しされていないので、ここではとりあえずディコヴィッチ嬢(Miss Dikovitch)と呼んでおこう。*5

ディコヴィッチ嬢は2度扉を開ける

ディコヴィッチ氏が扉の敷居越しにPPから20ドル札紙幣を奪い取っていた部屋の奥の調理場で、やせっぽちの目の大きい娘が「ハイ、ピーター」と失意のPPに声を掛けた瞬間、フライパンから火柱を上げていたことを思い出そう。父親とは正反対の好意あふれる眼差しと挨拶とをPPに送った娘のディコヴィッチ嬢がフライパンの上に立てた火柱が、『スパ2』における最初の炎のイメージであることの重要性は、いくら強調しても強調しすぎることはないだろう。
『スパ2』の最初の炎のイメージが、木の扉の開閉と敷居越しの20ドル札紙幣の奪取の近傍で、ルビッチ的なアパートの大家の娘によって燃やされたことの重要性。炎のイメージと木の扉の開閉は、このときからすでに、やせっぽちの大家の娘によって、あらかじめ主題論的にカップリングされていたのだ。そう考えると、火事の場面の木の扉の陰の中国系の少女の待ち伏せもひょっとしたら、このルビッチ的アパートの大家の娘によって、主題論的に仕込まれた可能性だって考えておくべきかもしれない。
火事の場面で示された木の扉に関する主題論的啓示は、その直後に続く、ディコヴィッチ嬢がPPの部屋を訪ねてくる場面によって補完され、PPは扉の敷居越しの20ドル奪取のダメージに始まったスランプから一気に脱出することになるのだから、そのタイミングのよさは、まるで仕込まれたようなものとしか思われない。
そんな見事なタイミングによる、火事場での木の扉の主題論的啓示を補完する、PPの部屋の扉を開けるディコヴィッチ嬢の身振りと、それを描くサム・ライミの演出は、このうえなく繊細きわまりないものだ。
憂鬱な表情で窓の外を眺めるPPの背後で扉が開き、ディコヴィッチ嬢が現れる様子を、窓の外に置かれたカメラが、窓ガラス越しの縦構図で捉える。縦長の窓枠が室内を二分割するかたちになっていて、左枠はPPのアップ、右枠はPPの肩越しにぼんやり見える、シャツとパンツのあいだにおなかが見える着こなしのディコヴィッチ嬢のウエストサイズショットになっている。PPが振り返ると、ノックをしてなかったと、恥ずかしげにいったん扉を閉じて外に出て、PPの「Come in」というセリフに応じて再び扉を開けると、ようやく打ち解けた笑顔でPPと「ハイ」「ハイ」と簡単だが親愛の情のこもった挨拶を交わす*6
大きく胸の開いた半袖のストライプのシャツの下にお腹が見え、細い腰の線がぴったり見えるパンツルックという着こなしが少しもセクシーでなく、かえって清楚な印象を与えるディコヴィッチ嬢は、チョコレートケーキとミルクをPPに勧めると、PPもそれをご馳走になる。PPの正面に座り、彼が満足げにチョコレートケーキを食べ、ミルクを飲み干すのを切り返しショットで確認すると、ディコヴィッチ嬢は不器用そうにケーキの皿とミルクのコップを抱えて、部屋を立ち去ろうとする。
そのとき初めて、彼女はメイおばさんから電話があったことをPPに伝え、その伝言メモをパンツのポケットから取り出して、この場面の真の目的が、チョコレートケーキとミルクをご馳走することではなく、2年遅れの告白をメイおばさんに赦しをもって受け入れられたことを、扉の繊細きわまる開閉とともにPPに伝えることであったことを、PPと観客に告げているのだ。
これに続くパーカー家からの引越し作業の場面で、メイおばさんが前にも増して愛情あふれる身振りでPPを赦し励まし、PP/スパイダーマンは墜落・不能のスランプから脱出し、復活を果たすことになるのだが、その復活に至るまでのプロセスに、ディコヴィッチ嬢の繊細な扉の開閉がどれだけ貢献を果たしているかは、じゅうぶん感じていただけただろう。
メイおばさんからの伝言を渡したディコヴィッチ嬢は、そっと扉を閉めてPPの部屋を出る。このディコヴィッチ嬢が静かに扉を閉めるショットが、父のディコヴィッチ氏に敷居越しに20ドル札紙幣を奪われた場面の終わりにPPの目の前で扉が音を立てて閉まるショットと対応していることに注目しよう。
対応しているのは、終わりのショットだけではない。メイおばさんからの伝言をディコヴィッチ嬢がPPに伝えるこの場面全体が、大家のディコヴィッチ氏が「Rent(家賃)!」の掛声と共にPPから扉の敷居越しに20ドル札を奪い取る場面全体と対応し、それを補償するものとなっているのだ。
父・ディコヴィッチ氏がPPから扉の敷居越しに20ドル札紙幣を奪う場面では、木の扉は「Rent(家賃)!」の掛け声とともにいきなり開き、20ドル札を奪取後は、PPの目の前で残響音を立てて閉じると、PPを最初から最後まで室内に入れることなく廊下に閉め出していた。
ディコヴィッチ嬢は、そうした父の非礼を償うために、いったん開いた扉を閉じると、やさしくノックしてあらためて開きなおし、さらにPPの「Come in」という招きに応じて、敷居を越えて部屋の中に正式に招き入れられると、今度はディコヴィッチ嬢の方がPPにチョコレートケーキとミルクをご馳走するのだ。この大家の娘のノックによる二度の扉の開閉とPPの「Come in」による正式の招き入れという繊細なコミュニケーションが、父親の「Rent(家賃)!」による突然の扉の開閉と敷居越しのPPからの20ドル札紙幣奪取という凶暴なコミュニケーションによるダメージを癒し、補償するものとなっていることは、もはや明らかだろう。
チョコレートケーキとミルクのご馳走は、父が奪った20ドル札紙幣に対する、娘からの償いのしるしなのだ。この娘の誠意があふれた扉の主題論的啓示とともに渡された、メイおばさんからのPPへの伝言に、悪い知らせが含まれているはずがないのは、当然のことだ。
ディコヴィッチ嬢がやさしく扉を閉めるショットの後、メイおばさんがパーカー家から引越しの準備作業に追われる場面に切り替わる。
PPが先日の告白のことに触れると、メイおばさんはいつもの大いなる愛情でPPの告白に感謝の念を表して、過去の事は水に流そうと、逆にPPを励ますのだ。このメイおばさんの偉大な愛情に満ちた赦しによって、PPは2年遅れの告白、その遅れによるメイおばさんへの債務感情からようやく解放されようとしている。
偉大なのはやはりメイおばさんである。「Oh,they gave me another few weeks but I decidede the hell with it.」
銀行の抵当に入っているパーカー家を、与えられた期限より先に出ることで、遅延・告白・負債の3つの主題系の悪循環から一気に脱け出そうとするのだ。彼女は、2年遅れのPPの告白を赦すことで、PPを遅延・告白・負債の主題系の悪循環から解放するだけではない。これまでは負債の返済に遅延を重ねてきたのに対して、いまやfew weeksという債務の猶予があるにもかかわらず、みずから先にパーカー家を出ることで、夫の死後苦しんできた、負債の返済の遅延から、彼女自身をも解放するのだ。
PP/スパイダーマンはこうして、遅延・告白・負債の3つの主題系の悪循環から脱け出して、復活を果たす。その復活は、火事場の扉の陰の中国系の幼い少女、ルビッチ的アパートの大家の娘、そして相変わらず偉大で愛情深いメイおばさん、といった女性たちの助力なしにはありえないが、その復活のプロセスになぜか「ヒロイン」MJの姿が見当たらないことが『スパ2』という作品の最も興味深い特徴だろう。
この復活のプロセスで、最も感動的なのは、父親の与えたダメージを繊細な扉の開閉によって主題論的に補償しながら、あくまでもメイおばさんからのメッセージの媒介役に徹したディコヴィッチ嬢のPPに対する無償の好意だろう。それは愛情というよりは、むしろ無償の主題論的誠意と呼ぶしかないもので、これほど慎ましい愛情を秘めた女性から男性へのコミュニケーションを描いた例はほとんどないだろう。*7
すべてのポイントとなるのは、やはり扉である。扉は「Rent(家賃)!」の掛け声とともに突然開いて、敷居越しに20ドル札紙幣を奪う暴力的な開閉装置にもなれば、火災現場では、幼い少女を炎と煙から保護する安全装置にもなる。それはさらに、一度閉めてからノックして再び開けなおすことで、それはその開閉それ自体がかけがえのないコミュニケーションであること示す再帰的コミュニケーション装置にもなる。
こうした扉の主題論的ヴァリエーションをヒーローの成長物語とシステマティックに連携させて、アメリカ映画ならではの、映画的な形式性と運動性との高度な統一を達成した『スパ2』のサム・ライミこそは、エルンスト・ルビッチの跡目を継ぐ、21世紀の「扉の魔術師」といっても間違いはないだろう。
『スパ2』の扉はルビッチにつながっているのだ。
(2012年10月4日初出)

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監督 小津安二郎

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小津安二郎の反映画

小津安二郎の反映画

ルビッチ・タッチ

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*1:こうした墓地の映像の先駆は、たとえば『私の殺した男』(エルンスト・ルビッチ、1931)の墓参りの場面に見ることができる。

*2:コクーン』の祖父と孫の「流し釣り」の場面の『父ありき』(小津安二郎、1942)との局所的な類似には、何度見ても不思議な動揺を覚える。

*3:昼間の能楽堂で、戦争未亡人・三宅邦子と父・笠智衆の見合いに、知らぬ間に同席させられた原節子は、その夜あらためて聞かされた父の再婚話に、怒りと悲しみで体を震わせる。一階に居たたまれなくなった原節子は、『スパ2』のローズマリー・ハリスとは反対の右方向から「不在の階段」を二階の部屋へと駆け上がる。『晩春』では、笠智衆がやや間抜けな表情で、そのあとを追って二階へ一瞬だけ現れるショットがあるのだが、原節子は「お父さんこないで!下行ってて…下行ってて!」と、すぐに追い払う。もしも『スパ2』で、トビー・マグワイアーがローズマリー・ハリスを追って、二階へ上がったとしても、『晩春』の笠智衆と同じように、「ピーターこないで!下行ってて…下行ってて!」と、すぐに追い払われたことだろう。

*4:MJがドク・オクにさらわれるシークエンスも、PPとMJがキスする寸前のカフェの窓ガラスがドク・オクの投げ込んできた自動車によっていきなり破砕する映像から始まっていた。

*5:クレジットには「Ursula Ditkovitch Mageina Tovah」というキャスティングが表記されているが、「アースラ」という名前が劇中で呼び名として使われるようになるのは次作『スパ3』になってからである。

*6:ここでふたりの交わす「ハイ」という挨拶の不器用な応酬を、まるで『お早う』(小津安二郎、1959)で佐田啓二久我美子が交わす、紋切り型の挨拶「お早う」のオウム返しのように美しいと感じてしまう神経は、やはり変なのだろうか。

*7:ディコヴィッチ嬢がPPの部屋を訪れる場面は、『スパ2』全編で、照明・音楽ともに最も繊細で抒情的なものに仕上がっている。ラストのMJがPPの部屋を花嫁衣裳で訪れる場面と比べても、それははっきりしている。MJがPPの部屋の前に現れるとき、扉はすでに開いているのだが、これはMJには扉をノックして開ける繊細さの欠けた証拠としか思えない。MJはPPに「誰かがあなたを救うときだ」と言うのだが、彼女は足手まといにこそなれ、PPの救いにならないのは明白だろう。

『スパ2』の扉はルビッチとつながっている-①

スパイダーマン2』論‐前篇

「伸ばしてつかむ」アクションの3人

『スパ2(スパイダーマン2)』のアクションの基本形、それは「伸ばしてつかむ」である。
ドク・オクの4本のロボット・アーム、スパイダーマンのクモの糸は、ともに伸縮自在に伸び縮みして、ありとあらゆるものを、強烈な力でつかむ。
彼らが高層ビルの壁面を重力に逆らって自由に移動する一見ダイナミックなアクションも、その強力な「伸ばしてつかむ」という機能によって、壁面をアームと糸の先でつかんでぶら下がり、さらにアームと糸の長さを伸縮して調整して、次の移動地点にまで自分のからだを運んでいくという、細かい基本動作の繰り返しによって成立しているのである。
『スパ2』のドク・オクとスパイダーマンとの対決場面が、古典的な決闘場面と似た様相を呈する理由は、両者が競いあう人並み外れた特殊能力が、ともに「伸ばしてつかむ」という点に特化されているからだろう。もしアームと糸による「伸ばしてつかむ」という能力を欠いたならば、両者とも怪人でも超人でもなんでもない、ただの凡人に過ぎない。両者は、ともに「伸ばしてつかむ」能力に呪われた存在であるのだ。*1
ドク・オクとスパイダーマンの「伸ばしてつかむ」対決における、シンメトリカルともいえる拮抗性から見直してみると、前作『スパ1』におけるグリーン・ゴブリンとスパイダーマンとの対決が、なぜアクションとしていまひとつ散漫だったのか、その理由がわかってくる。
飛行・爆撃を得意とするグリーン・ゴブリンの上空からの攻撃と、それを地上からのジャンプとクモの糸の対空射撃で迎え撃つスパイダーマンとの対決は、同じビルの壁面上で対峙しながらロボットアームとクモの糸を伸ばしてつかみあう『スパ2』でのドク・オクとの見事な攻防と比較すると、対角線上ですれ違っているというか、微妙にミスマッチなところがあるのだ。
『スパ2』における、ドク・オクとスパイダーマンとの最初の本格的な対決場面は、銀行の構内でのコインの投げあいから始まる。銀行ギャングにしては派手すぎる、黒い帽子とサングラスをつけたアルフレッド・モリーナのコートの中から、4本のロボットアームが伸びて金庫の扉を引き破ると、コインのギッシリつまった袋をつかみとる(袋の中身が全部金貨で、札束が1枚もないという徹底ぶりがうれしくてたまらない)。
ここから銭形平次もビックリのコインの投げ合い、銭合戦(!)が始まるのだが、この屋内でのコインや机の投げ合いから、路上に飛び出して、車のドアのぶつけ合いにまで至る場面は、『スパ2』の「伸ばしてつかむ」アクションが、古典的なパイ投げゲームの応用形であることを示唆している。
両者の対決のシークエンスが、メイおばさんの銀行へのローンの再融資の申し込みのシーンから始まっているのは、象徴的だ。ドク・オク変身以前のドクター・オクタヴィアスに、PP(ピーター・パーカー)が最初に出会ったきっかけも、実験の資金提供者であるハリー・オズボーンの強引な紹介によるものだったことを思い出しておこう。このアームと糸に呪われた「伸ばしてつかむ」2人は、まるで金銭の媒介抜きには、決して出会うことができない宿命にあるかのようだ。
ところで、驚くべきことに『スパ2』にはもうひとり、ロボット・アームや特殊なクモの糸の力に頼ることなく「伸ばしてつかむ」アクションを、鮮やかに演じてみせる人物が存在する。
しかもその人物は、ロボット・アームやクモの糸による大量のコインの投げあいという、CGを駆使した金銭のポトラッチ(!)を演じたドク・オクとスパイダーマンの2人とは対照的に、CGなしの安上がりのアクションで、1枚の20ドル札紙幣を右腕一本で「伸ばしてつかむ」のだ。その人物とは、PPの住むボロアパートの大家のディコヴィッチ氏である。

敷居越しの「伸ばしてつかむ」アクション

PPの誕生パーティの夜、パーカー家でメイおばさんと別れた帰り、PPがアパートの階段を上がり、2階から3階への階段を上がろうと向きを変えた瞬間、PPの顔のアップに「家賃(Rent)!」という声がかかり、背後のドアが開くと、先ほどからかかっている東欧風の音楽がより大きなボリュームで響いてくる。
扉の開いた部屋の中にはテーブルを囲んで、左手前に1人、右やや奥に1人、正面奥に1人の計3人の男が座っている。扉に近い、左手前の椅子に座った初老の男が、半身の姿勢から鋭い目つきでPPを見ている。この人物こそが扉越しにPPの足音を耳聡く聞き分けて、「家賃(Rent)!」という声を発した、大家のディコヴィッチ氏である。
部屋の内側に座るディコヴィッチ氏は、悪態をつきながら、数ヶ月遅れている家賃の支払いを要求する。扉の外側に立つPPは謝罪と言い訳を並べながら、迫りくる危険を察知したかのように、決して敷居の内側には足を踏み入れようとはしない。この間カメラは、扉の敷居を境界線にして、外側の廊下に立つPPと、室内で椅子に座るディコヴィッチ氏とのあいだで交互に切り返される。
「伸ばしてつかむ」アクションの驚くべき早業が演じられるのは、そのときである。
PPの口から、今20ドルしかない、という言葉が漏れるや否や、ディコヴィッチ氏は椅子から一瞬だけ体を浮かし、右手を伸ばすと、PPの手から20ドル札紙幣をつかんで毟り取り、次の切り返しのショットでは、何事もなかったかのように椅子に腰を下ろしたまま、再びPPに家賃の遅れを毒づいているのだ。
驚くべき早業で、手元から20ドル札紙幣を奪い取られたPPは、呆然と敷居の外側に立ち尽くしている。PPがここで呆然としている理由は、メイおばさんからもらったばかりの、涙のバースデイ・プレゼントである20ドル札紙幣を、奪われたショックによるものだけではないだろう。
それは、安全圏だと思っていた敷居の外側にいた自分の手の20ドル札紙幣を、室内に座っていたディコヴィッチ氏が、ロボットアームもクモの糸もCG映像もいっさい使わずに、究極の「伸ばしてつかむ」アクションによって奪ったことに対する、技術的な驚愕によるものの方が、はるかに大きいはずだ。
扉の外の廊下に立つPPが持つ20ドル札紙幣を、室内で座ったままのデコヴィッチ氏が、わずか1秒たらずの動作で、扉の敷居越しに右手を伸ばして、20ドル札紙幣をつかんで、奪い取る。
ここには『スパ2』における「伸ばしてつかむ」アクションの究極形、その至高形態というべきものがある。

ドク・オクやスパイダーマンが、悲惨な肉体改造や、先端的なCGの助けを経て必死に獲得した「伸ばしてつかむ」アクションを、あっさりと素手で演じられたうえに、メイおばさんからもらったばかりのバースデイプレゼントである20ドル札紙幣を奪われたのでは、PPが呆然自失となるのも当然のことだろう。
それにしても、肉体改造もCGもいっさいなしで、究極の「伸ばしてつかむ」アクションを演じると同時に、1ヶ月遅れの家賃の埋め合わせとして、メイおばさんの20ドル札紙幣を敷居越しに奪って、PPを茫然自失に陥らせたうえ、さらに「サンクス、ミスター・ディコヴィッチ」と屈辱的な感謝の言葉をいわせる、このアパートの大家のディコヴィッチ氏とはいったい何者なのだろうか。

「扉の魔術師」は越境する

「家賃(Rent)!」という掛け声で、扉の外のPPを呼び止めた大家のディコヴィッチ氏が、扉の敷居越しにPPの手から20ドル札紙幣を一瞬で奪い取るこの場面は、その扉の開閉を軸とした演出の見事さから、どうしても「扉の魔術師」エルンスト・ルビッチを想起させずにはいられない。
まず「ディコヴィッチ Dikovtch」という、いかにもユダヤ系東欧移民風のネーミングに注目しよう。ディコヴィッチ氏の部屋から流れ続ける、いかにも東欧風といった感じの音楽も、この大家の「出身地」を考えさせずにはいられない。わずかに扉が開いて閉じるあいだに、扉の敷居越しに「伸ばしてつかむ」アクションで20ドル札紙幣を奪い取る、謎のアパートの大家。
その「ディコヴィッチ Dikovtch」という名前の響きは、彼が演じる扉の開閉のタイミングの見事さと合わせて、『街角/桃色の店』(エルンスト・ルビッチ、1940)のブダペストや、『生きるべきか死ぬべきか』(エルンスト・ルビッチ、1942)のワルシャワにこそ、ふさわしいものだと思わせるのだ。だいたい21世紀のニューヨークのアパートに、住人の目の前であんなに嫌味な音を立てて閉まる、古びた木製の扉があっていいはずがないだろう。
ここで何よりもルビッチを思い起こさせるもの、それは扉の向こうからPPを呼び止めたディコヴィッチ氏の「家賃(Rent)!」という声の響きである。
この「家賃(Rent)!」という、扉の向こうから響く声が『生きるべきか死ぬべきか』のゲシュタポ大佐役シグ・ルーマンの「シュルツ!」という名セリフ(?)の響きを思い出させずにはいられないのだ(「シュルツ」はシグ・ルーマンが口癖のように大声で呼びつける副官の名前)。
生きるべきか死ぬべきか』で、ヒットラーのいる劇場から脱出したワルシャワの劇団一行は、ナチ専用のホテルの一室で待機するキャロル・ロンバートを迎えに行く。そのホテルの部屋で、仲間の迎えを待つキャロル・ロンバートに、折り悪く現れたシグ・ルーマンは迫ろうとする。そこへ、ホテルの階段をこっそりと上って、彼女を迎えに部屋の扉を開けた、ヒットラーのそっくりさん役者トム・デューガンが現れる。
シグ・ルーマンは、お忍びで女優の愛人を訪ねてきた総統閣下との鉢合わせという非常事態(?!)に、驚愕して目を白黒させる。無言で扉を閉めて部屋を出た偽ヒットラー役者と、その後を大げさに「マイ・フューラー!」と叫んで追いかけるキャロル・ロンバートの2人は、茫然自失のシグ・ルーマンを部屋に残してホテルの階段を去っていく。
階段側のカメラが映す、ホテルの部屋の扉の向こう側からピストル自殺を告げる銃声が響く。と思いきや、すぐに「シュルツ!」という、悲鳴に近いシグ・ルーマンの断末魔(?)の叫び声が聞こえてくる。21世紀のニューヨークにあるはずのディコヴィッチ氏のアパートの階段と扉の配置は、まるでワルシャワのホテルの扉の向こうから響いた、死に損ないのシグ・ルーマンの「シュルツ!」が「家賃(Rent)!」に変形して回帰してきたかのような、錯覚に陥らせるところがあるのだ。*2
それにしても、このわずか50秒あまりの「家賃(Rent)!」の取立て場面で、サム・ライミが繰り広げる、扉の敷居越しの視線と言葉の交換劇、金銭の奪取劇の演出の見事さは、本家「扉の魔術師」ルビッチを凌ぐ出来栄えに達しているといっていいのではないだろうか。
扉の外側に立ったままのPPから、部屋の中の椅子に座ったディコヴィッチ氏が、一瞬の「伸ばしてつかむ」早業で20ドル札紙幣を奪い取るさまを、切り返しで描いたうえ、部屋の奥の調理場に突っ立ているやせっぽちの娘にも「ハイ、ピーター」という挨拶と同時に、フライパンに火柱を上げさせて、PPに好意的な大家の娘の存在を、名前もわからないまま、一瞬で印象付けるという芸当までやってのけているのだから、21世紀の「扉の魔術師」の名はサム・ライミにこそふさわしい。
だがしかし、ルビッチを思わせる、扉の敷居越しのコミュニケーションの演出が見事だからという理由から、この場面が重要だ、といいたいのではない。ここで「1ヶ月遅れの家賃」として20ドル札紙幣をPPから奪い取ることが、『スパ2』における遅延の主題系と負債の主題系との結合を、あらためて強調している点、その構造的な重要性をこそ指摘しておきたいのだ。
作品冒頭から、PPの遅刻の連発として提示されてきた遅延の主題系が、ここでは単なる遅刻から「1ヶ月遅れの家賃」として、「遅延+負債」というかたちで、負債の主題系と結合していることに注目しよう。*3
負債の主題系は、誕生パーティー後のメイおばさんとの会話場面でも、銀行からの「抵当権喪失通知」の手紙というかたちで呈示されていた。そこでも銀行へのローンの返済の遅れがメイおばさんのセリフのなかで言及されてはいたが、遅延と負債の主題系の結合は、まだメイおばさんを介していて、PP本人に直接及ぶ気配はまだなかった。
ディコヴィッチ氏による、扉の敷居越しの「伸ばしてつかむ」アクションによる20ドル札紙幣奪取という必殺の一撃は、この遅延と負債の主題系の結合が、PP自身を直接襲うものであることを、肉体的に思い知らせているのだ。
ディコヴィッチ氏というルビッチ的人物が『スパ2』において占める重要性はそれだけではない。アパートの大家という、境界線的なポジションからPPに敵対することによって、この遅延と負債の主題系の結合の起源ともいうべき、前作『スパ1』からの2年間の告白の遅れを、あらためて照射する役割を演じているからこそ、このルビッチ的人物は『スパ2』の作品構造において最も重要な存在なのだ。

「家賃(Rent)!」は前作『スパ1』の無賃同居を告発する

『スパ2』では、前作『スパ1』であいまいなままにやり過ごされていた事柄が、次々と明確化され、その意味が再定義されていく。それはまるで、前世の罪を徹底して告白し、悔い改めようとしているかのようだ。そこには、シリーズの続編につきものの、既存の設定の安易な流用、無批判な継続というものが、まったくといっていいほど感じられない。
『スパ1』であいまいなままにやり過ごされていた事柄のうちで最大のものが、ベンおじさんの死の真相とそれにまつわるPPの責任(responnsibility)の告白だ。
PPがレスリング大会の会場で見逃した強盗によって、ベン・パーカーは殺され、メイ・パーカーは最愛の夫を失う。もし、PPが強盗を見逃さなければ、ベンおじさんは殺されずに済んだろう。ベンおじさんの死に対して、PPにも責任があるといえるのだが、PPはその死の真相をメイおばさんに告白を怠ったまま、高校卒業と同時にパーカー家を離れ、親友ハリー・オズボーンのアパートに同居する。
こうしてPPは薄情にも(!)、夫を殺されたばかりのメイおばさんをパーカー家にひとり残し、ベンおじさん殺しの真相にも口をつぐんだまま、ハリーのアパートに居候を決め込むのだ。『スパ1』という作品の最大の弱点は、それが「責任(responnsibility)」をキーワードとしながら、ベンおじさん殺しの真相とそれにまつわるPPの責任(responnsibility)をあいまいにしているところだ。
『スパ1』で、ベンおじさん殺しの真相を告白する責任を果たさないままパーカー家を離れるPPの道徳的無責任さ、ハリーとの同居というメイおばさんとの「住み分け」によって、その無責任さをあいまいにする非倫理性は、ハリーのアパートへの「無賃同居」という「友愛経済」によって、巧妙にボカされたままだったことをあらためて注意しなければならない。
『スパ1』でPPが簡単にパーカー家を離れ、メイおばさんとの住み分けを可能にしたのは、ハリーのアパートへの「無賃同居」という無責任な経済的依存によるものだったことを忘れてはいけない。
前作『スパ1』になくて『スパ2』に新たに出てきた経済的概念、それが「家賃(Rent)!」である。
ディコヴィッチ氏の「家賃(Rent)!」というセリフが素晴らしいのは、その声が扉越しにPPを呼び止めるばかりではなく、その響きが作品間の境界線をも跳び越えて、前作のハリーとの「無賃同居」の経済的な無責任を暴き出してみせる倫理=経済的な強度をみなぎらせているからだ。
それはまた、その無責任が可能にしたメイおばさんとの「住み分け」に潜むPPのうしろめたさを、心理的な深みや道徳的な罪悪感としてではなく、あくまでも速やかに決済すべき「債務感情」としてドライに浮かび上がらせてみせるという効能も持っている。*4
独りぼっちのおばさんが心配だといいながら、「ベンがいなくてとても寂しい(it's just that I miss your uncle Ben so much.)」というメイおばさんを独りパーカー家に残し、「家賃(Rent)!」が毎月遅れている(You're a month late again.Again.)と請求されながら、PPがわざわざボロアパートを借りて、メイおばさんとの「住み分け/ひとり暮らし」を続けている理由は、ベンおじさん殺しの真相の告白を前作から2年間もズルズルと遅らせている、PPのメイおばさんに対する罪の意識にある。
ベンおじさん殺しの責任(responnsibility)をあいまいにごまかし続けているPPが、ベンおじさんのいないパーカー家で、メイおばさんと一緒に暮らせるわけがないのだ。
それは、ベンおじさんの死そのものに対し特定の刑事責任があるからではない。その死の真相について、メイおばさんに告白する責任をPPが放棄したまま、すでに2年間を離れ離れに暮らしているという、倫理的な無責任さが問題なのだ。
もし、PPが今さらメイおばさんと同居したところで、ディコヴィッチ氏のアパートで毎月毎月家賃を遅らせたように、毎日毎日告白を遅らせて、その罪の意識を増大させるのが、関の山だろう。
告白・遅延・負債の主題系の相関関係/複合作用という点から見て厄介なことは、告白の遅れが新たな負債を生み、それがまた告白の遅れを引き伸ばすという悪循環が、ここで生じているということだ。
告白の遅れは、前作『スパ1』からすでに始まっていたが、それが遅延として顕在化するのは2年後の『スパ2』になってからである。告白の遅れに伴う負債感情は、PPにメイおばさんとの「住み分け」を促していたが『スパ1』ではハリーとの「無賃同居」により、新たな負債を生じることはなかった。
しかし『スパ2』では、メイおばさんとの「住み分け/ひとり暮らし」は「家賃(Rent)!」の遅れによる新たな負債の増加となって、PPを苦しめる。PPが仕事、大学で遅刻を繰り返すのも、つまるところ、この「家賃(Rent)!」という新たな負債の支払いに追われていることによるものだろう。
新聞社では、スパイダーマンの写真の報酬の300ドルの小切手も、前貸し分を差し引かれ、払ってもらえない。ここでは告白の遅れが、債務感情によるメイおばさんとの「住み分け/ひとり暮らし」を介して、アパートの家賃の遅れという新たな遅延・負債を生み出し、そのために遅刻と前貸しという、新たな遅延と負債を再び生みだすという、典型的な悪循環が見られるのだ。
この告白・遅延・負債の主題系の悪循環が、スパイダーマン廃業にまで至る、PP/スパイダーマンのスランプを副作用として生み出していることを見逃さずにおこう。PP/スパイダーマンの能力のスランプは、一見すると、MJとの恋愛関係の不調からきているように感じられるが、その根本的な原因は、告白・遅延・負債の3つの主題系が織り成す悪循環によるものと考えるべきである。
PPがスパイダーマン廃業に追い込まれるのも、告白の遅れに端を発した遅延と債務の悪循環から、何とか免れようとするためであって、MJとの交際の好不調の方が、そうした悪循環から生じる結果の1つに過ぎない。この告白・遅延・負債の悪循環を解消するプロセスに、「ヒロイン」MJがまったく関与していないことからも、そのことは明らかだろう。スパイダーマン廃業とは、すなわちスパイダーマンのコスチュームを捨てることだが、このスパイダーマンのコスチュームが初めて披露されたのが、ベンおじさん殺しのきっかけとなるレスリング大会での会場であったことを忘れてはならない。PPにとって、スパイダーマンのコスチュームを着続けることは、すなわちベンおじさん殺しの責任=汚名を背負い続けることでもあるのだ。PPは、おじさん殺しの責任=汚名から逃れるために、コスチュームを脱ぎ捨て、スパイダーマン廃業を一度は選択するのだ。
ディコヴィッチ氏の「家賃(Rent)!」と「伸ばしてつかむ」アクションによる20ドル札紙幣奪取をトリガーとして起動する悪循環は、「ヒロイン」MJとの甘いロマンスの関与する隙を与えることなく、PPをひたすら主題論的に追い詰めていく。
『スパ2』という作品の特異性、それは告白・遅延・負債の悪循環から主人公PP/スパイダーマンが女性たちによって救済され、スパイダーマン廃業という危機から復活・再生するにもかかわらず、その女性たちによる救済のプロセスに「ヒロイン」MJがまったく関与していないことだ。
後篇では「ヒロイン」MJが関与していない、他の女性たちがPPを救済する興味深いプロセスについて、詳しく見てみよう。
(2012年10月3日初出)

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ルビッチ・タッチ

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*1:藤井仁子は「才能というありがたくない贈り物」という適切な言葉によって、優れた『スパ1』『スパ2』分析を展開している。(藤井仁子(編著)『入門・現代ハリウッド映画講義』第三章、67−94頁、人文書院、2008)。必読文献!

*2:もちろんこれは錯覚だが、錯覚ついでに書いておくと、PPの「サンクス、ミスター・ディコヴィッチ」というセリフは『街角/桃色の店』の独立心の強い店員ジェイムズ・スチュアートが独断的なオーナーの質問に答えるときに、先頭に儀礼的に必ず付ける「イエス、ミスター・マトゥチェック」と実によく似ている。

*3:これはテマティックにまつわる余談だが、告白・遅延・負債の3つの主題系が織り成す主題論的構造から、『スパ2』こそ21世紀アメリカ映画の最高傑作であることを論証しようとして悪戦苦闘している者としては、『東京から 現代アメリカ映画談義』(黒沢清蓮實重彦青土社)のオープニングの言葉には、あらためて驚きを禁じることができない。<私も、もっと堂々と、アメリカ時代のフリッツ・ラングを理解できなければ、映画など理解できるはずもないといってみたかった。しかし、黒沢さんと初めてお会いした当時は、ごくわずかな彼の作品しかヴィデオで見ることができませんでした。『マンハント』(1941)の画質の悪いヴィデオを見せたように記憶していますが、教室に数ヵ所設置されていたテレビのちっぽけなモニターでは、アーサー・ミラーキャメラの素晴らしさを論じることさえできない。そこで、ごく普通に映画館で封切られていたオルドリッチやフライシャーやドン・シーゲルの作品の中に、フリッツ・ラングに代わるべき名前を見出すことが私の急務となったのです。それは「遅れてきた」批評家としての歴史的な振る舞いでもあったといえます。『映像の詩学』におさめられた短いリチャード・フライシャー論に見られる「遅刻者フライシャー」という概念は、ある意味で、わたくしの自画像のようなものでした。「遅れてきた」批評家としての出自のいかがわしさをあえて告白してしまったのは、ことによると、私の目にはとりわけオルドリッチ的と映り、フライシャー的な痕跡をもとどめているとさえ見えた傑作『アカルイミライ』(2002)の作者なら、その「遅刻」の歴史的な意味を理解してくれはしまいかという思いがあったからかもしれません。>(18頁−19頁)。この「わたくし」と「私」との主語の書き分けが妙に生々しい、蓮實重彦による「遅れてきた」批評家としての、アメリカ映画に対して負っている歴史的な負債についての、約35年遅れの告白には、不思議な戸惑いと同時に、やはり映画はアメリカ映画しかないのだという熱い共感を覚えずにはいられなかった。私も…わたくしも、もっと堂々と、『スパイダーマン2』のサム・ライミを理解できなければ、アメリカ映画など理解できるはずもないといってみたい…。でも、2人の口から、なぜサム・ライミの名前がぜんぜん出てこないんだ!

*4:「家賃(Rent)!」というセリフが告げるように、『スパ2』では、すべての負債が速やかに決済すべき債務として請求され、経済的なごまかし・無責任が一切許されないという点において『スパ1』よりもはるかに過酷な環境となっている。しかし、それはまた『スパ2』が『スパ1』よりも、経済的責任と道徳的責任の両方において、真の意味で倫理的であろうとしている証しでもある。『スパ2』においてこそ「責任(responnsibility)」と倫理との一致が本格的に問われているのだ。

『スパ2』と『裸の拍車』のヒロインは同級生

スパイダーマン2』論‐序説

2002年のサム・ライミ監督『スパイダーマン』シリーズ第1作(以下『スパ1』と略記)から2年後に公開された第2作『スパイダーマン2』(以下『スパ2』と略記)は、前作に出揃ったシリーズ主要メンバーの2年後の姿を描いている。スパイダーマンとしての特殊能力を身に着けたピーター・パーカー(以下PPと略記)は、大学で原子物理学を学ぶ苦学生として、アルバイトの仕事とスパイダーマンとしての活動(ボランティア活動!)との両立に四苦八苦しており、女優志願の幼馴染みであるメアリー・ジェーン(以下MJと略記)との淡い恋もうまく発展できていない。
『スパ2』でPP/スパイダーマンが対決する相手は、核融合実験の失敗で妻を失い、金属製アームと合体した天才物理学者ドクター・オクタヴィアス/ドクター・オクトパス(以下ドク・オクと略記)であり、脊髄に融合した4本の伸縮する金属製アームでビル、電車と、あらゆる壁面に張り付いて自在に移動するドク・オクとスパイダーマンとの対決場面は、先端的なCGと古典的な活劇編集、映画的記憶との幸福な結合例といえるだろう。*1
映画史的記憶との照合ということでいえば、高層ビル上の移動/落下場面でのヒッチコック作品との関連は明白だろうが、ここでは『めまい』(アルフレッド・ヒッチコック、1958)の主演男優ジェームズ・スチュアートと名コンビを組んで、何本もの「斜面ウエスタン」の傑作を撮ったアンソニー・マンとの関連について、ふれておきたい。
銀行構内から始まって、メイおばさん(ローズマリー・ハリス)を人質にしたドク・オク(アルフレッド・モリーナ)とスパイダーマンとが高層ビルの壁面上で対決する場面は、まるで『裸の拍車』(アンソニー・マン、1953)の全編を超コンパクトに圧縮したかのような印象を与えるから、というのがその主たる理由だが、『裸の拍車』と『スパ2』との映画史的関連というか因縁は、それにつきるものではない。
5,000ドルの賞金首の殺人犯ロバート・ライアンが、終始不敵な笑みを浮かべつつ、悪者仲間の遺児ジャネット・リーを、養女とも情婦とも人質ともつかぬ形で従えながら、相手より高い位置に陣取ることで、断崖・斜面上でのジェームズ・スチュアートとの対決において優位を保ち続ける、というのが『裸の拍車』の基本的な対立図式である。
そこへ、インディアンの酋長の娘との「淫行騒動」から不名誉除隊処分を受けた元騎兵隊中尉ラルフ・ミーカーと砂金探しの老人ミラード・ミッチェルとの5,000ドルの賞金の分け前争い、ミーカーを追うインディアンの部族との突発的な銃撃戦が加わって、物語の展開はやや複雑な様相を呈していく。
裸の拍車』のジャネット・リーを間に挟んでのロバート・ライアンジェームズ・スチュアートとの対決図式を、西部の急流断崖絶壁からニューヨークの高層ビルの壁面上へといわば「CG移植」したうえで、『スパ2』はそれをコンパクトに反復、変奏している。
『スパ2』の高層ビルの壁面も、『裸の拍車』の断崖絶壁の岩肌も、映画においては共に「斜面/垂直面」として、視覚的な緊張感と転落のサスペンスを導入していることにまず注意しよう。*2
拍車を岩に打ち込んで崖をよじ登っていくジェームズ・スチュアートと、ビルの壁面を4本の手足で張り付いて這い上がっていくスパイダーマンは、上る速度の差、CGの有無といった差異を越えて、共に壁面を垂直によじ登るという、同質の映画的身振りを演じながら、上方の敵に迫ろうとしているのだ。
また場面は違うが、手先から糸をうまく出せずにビルから転落するスパイダーマンと、ロープをうまくつかめずに崖から転落するジェームズ・スチュアートとの間にも、やはり同じ映画的な身振りが見出せるだろう。
ロープをうまくつかめず崖から転落するジェームズ・スチュアートは、器用にロープで崖をよじ登るラルフ・ミーカーに、賞金の分け前争いで優位を握られてしまうのだが、精神的スランプから糸をうまく操れずにビルの壁面を転落する『スパ2』のPP/スパイダーマンは、転落と登攀不能性という点から見れば、『めまい』よりもむしろ『裸の拍車』のジェームズ・スチュアートの方に似ているというべきだろう。*3
こうした垂直面の登攀/転落に関する優劣関係は、自由に空中を飛行するグリーン・ゴブリンが敵役だった前作『スパ1』の空間構成においてはなかったものだ。それは垂直面をつたって上昇・下降するための壁面をアクションの基本的な足場とした『スパ2』の空間構成においてあらためて明確化したものであり、そのために『スパ2』はアンソニー・マンという名の、垂直面・斜面に関わる映画史的記憶を呼び覚ますことになったのだ。
裸の拍車』と『スパ2』との共通項では、黒メガネで強調されたアルフレッド・モリーナの偽悪的な笑顔と、ロバート・ライアンの不敵な笑みという、2人の悪役俳優の表情の類似も印象深いものがある。
しかし、登場人物/俳優の役割に関する最も重要な共通項ということでは、人質役の美女のとっさの機転が、態勢を整えて待ち伏せする悪役の優位を一気に崩すタイミングの見事さをこそ、まず一番に挙げなければならないだろう。
ウィンチェスター銃’73』(アンソニー・マン、1950)をはじめとする、アンソニー・マンジェームズ・スチュアートのコンビによる一連の斜面ウエスタンでは、高所で待ち伏せする敵との優劣関係をいかに逆転するかが大きなポイントになっているが、その逆転の契機に女性が決定的な役割を演じているのが、この『裸の拍車』なのである。
しかも、その人質役の美女を演じているジャネット・リーローズマリー・ハリスの2人が、共に1927年生まれの「同級生」であるというのは、まさに映画史的必然といわずして、いったい何というべきだろうか。*4
1927年生まれの美女2人のほかに、『裸の拍車』と『スパ2』との間には、じつはもうひとつ恐るべき共通点がある。
それは、ロバート・ライアンの役名が「ベン」であるということだ。前作『スパ1』で、PPが見逃した強盗に殺された「ベンおじさん」こと、ベン・パーカーと同じ「ベン」である。このベンおじさんという死者に関する記憶こそが『スパ2』という作品の負の焦点というべきものをなしているのだ。
『スパ2』の主題論的な構造を概観すると、そこには告白、遅延、負債という、3つの主題系が見出すことができるだろう。
告白の主題系は、主にスパイダーマンの正体とその秘密に関わる。それだけなら他の覆面ヒーローものと大差はないが、この主題系は前作『スパ1』で強盗を見逃したPPのベンおじさんの死に対する責任、その死の真相の告白ということに深く関わる。
自分が見逃した強盗によってベンおじさんを死に至らしめたPPは、その死の真相と自分の責任について、メイおばさんに告白していなければいけないのだが、死後2年たってもその告白ができていない。PPはベンおじさんの死の真相の告白を前作から2年間も遅らせたまま、最愛のメイおばさんとの関係を続けていることになる。告白の主題系は、こうして遅延の主題系につながっていく。
遅延の主題系に関していえば、冒頭のコミカルなピザの配達場面から、『スパ2』のPPは徹底して遅刻常習犯として描かれている。*5
一見コミカルな遅刻の描写も、2年前の前作『スパ1』からの告白の遅れとともに、遅延の主題系を形成していると見なければならないだろう。PPは『スパ2』という作品が始まる以前に「2年遅れ」という解消不可能な遅延を犯しているからこそ、作品開始早々、遅刻を連発してしまうのだ。*6
負債の主題系は、ベンおじさんの死によって破綻したパーカー家を襲う請求に明白だが、それはローンの返済の遅れ、アパートの家賃の支払いの遅れというかたちで遅延の主題系とも強い相関関係にある。
またパーカー家の経済的な債務の根底には、ベンおじさんの死の真相の告白をズルズルと2年間遅らせてきた、PPのメイおばさんに対する「債務感情」を透かし見ることも可能だろう。
このように『スパ2』の告白・遅延・負債という3つの主題系は、前作『スパ1』でのベンおじさんの死から生じ、そこを中心点としながら、作品全体の進行を大きくドライヴしていく。
裸の拍車』では、こうした『スパ2』の主題論的構造を予見していたかのように、激流にロープでつながれた「ベン」の死体が、最後になって決定的な役割を演じることになるのだから、映画史というのは怖ろしい。
5,000ドルの賞金のかかった「ベン」の死体を、川の激流からロープで引きずり上げようとする、怒り狂った形相のジェームズ・スチュアートに対して、亡父の親友「ベンおじさん」を殺されたばかりのジャネット・リーが「ベンの亡霊を引きずって生きていくつもり?」と、まるで『スパ2』の「同級生」ローズマリー・ハリスのために書かれたかのような、悲痛なセリフを投げかける。
激流から、ロープにつないだ「ベン」の死体を狂ったように引きずり上げるジェームズ・スチュアートの姿勢は、『スパ2』でクモの糸を引っ張るスパイダーマンとそっくりに見える。*7
(2012年10月2日初出)
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映画崩壊前夜

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*1:葛生賢氏のブログ参照。http://d.hatena.ne.jp/hj3s-kzu/20040713

*2:< ― 2人が壁づたいに闘う場面での落下の繰り返しなど、タテ構図のアクションをこれほど強調した演出は画期的だと思いました。 ● それは僕が今回、強く意識した点だね。もともと、この映画はワイドスクリーンで撮影すべきでないと思っていたんだ。ニューヨークは高層ビルが立ち並んでいて縦長の構図だからね。映画を正当に撮るために、ワイドスクリーンの向きを縦に変えたかったよ(笑)。>独占インタビュー「サム・ライミ監督が語る『スパイダーマン2』」、日経エンタテイメント2004年8月号、38頁、http://ent.nikkeibp.co.jp/ent/200408/index.html

*3:『めまい』で塔から転落するのはキム・ノヴァクの方であって、ジェームズ・スチュアートではない。『めまい』のジェームズ・スチュアートの悲劇は、彼自身が決して転落せずに、彼を助けようとした警官や、彼が守るべきブロンド美女の方が転落してしまうことにある。

*4:正確には「同学年」というべきだが、ここは語感のよさを優先!

*5:『スパ2』で最も重要なキーワード「late」が、そこで連発される。

*6:蓮實重彦は『スパ1』のPPについても「スクールバスにも乗り遅れ」「肝心の待ち合わせ場所にも決まって遅れ」と、遅延の主題を鋭く指摘している。ただし前作から「2年遅れ」で始まる『スパ2』における遅延の主題は、その構造的な意味が『スパ1』とは決定的に異なっていることに注意しなければならない。(蓮實重彦『映画崩壊前夜』、230‐234頁、青土社、2008)

*7:『スパ2』の最後の見せ場である、核融合装置を川底に沈める場面が、これまたアンソニー・マンジェームズ・スチュアートのコンビによる『雷鳴の湾THUNDER BAY』(アンソニー・マン、1953)全編を圧縮したかのような印象を与えるのが、たまらないところだ。また、危険きわまりない核融合装置を沈める先が、遠い海の底ではなく川の底であるのはなぜだろうか。『怒りの河 BEND OF THE RIVER』(アンソニー・マン、1951)のジェームズ・スチュアートアーサー・ケネディとの川の中での殴りあいを思わせる、水浴びファイトを経て、正気に返ったアルフレッド・モリーナが、無根拠な確信をもって口にする「River」というセリフもまた、涙が出るほど感動的だ。ここにも「映画と川の流れを結びつける絆」(ジャン・ルノワール)を見出すべきなのだろうか。

『乳房よ永遠なれ』(田中絹代、1955)

http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2009-12/kaisetsu_47.html


maplecat-eveさんの日記が紹介しているビクトル・エリセ白紙委任状のセレクションの中に、田中絹代監督作品『乳房よ永遠なれ』が日本映画として1本だけ選ばれている。http://d.hatena.ne.jp/maplecat-eve/20140114*1
論じられることの少ないこの傑作について、2009年NFC田中絹代特集の際に書いた文章を改稿・再掲し、あらためて「映画監督」田中絹代の偉大さをアピールしておきたい。*2,*3
『乳房よ永遠なれ』(田中絹代、1955、日活、モノクロ、スタンダードサイズ)
『乳房よ永遠なれ』は、田中澄江脚本による監督第3作。木下恵介脚本による監督第1作『恋文』(1953)、斎藤良輔小津安二郎脚本による第2作『月は上りぬ』では、いくつかの優れたショットをもちながら、まだ習作の感じが抜け切れなかった監督・田中絹代が、第3作目にして、同性・同姓・同世代の脚本家のサポートを得て、見事な演出力を発揮した傑作。
 
(以下、ネタバレを含む)
 
 
北海道の「女流歌人」で、バツイチ、一男一女の母で、乳癌による死を前にして「恋心7・歌心2・親心1」の割合(?)で生き抜いたヒロインを、月丘夢路が優雅なエロティシズムを漂わせながら、悲壮感をまったく表に出さずに演じているのがまた素晴らしい。
札幌市内や、酪農地帯など、北海道ロケを全面的におこなっているのだが、そのロケとセット撮影部分とが巧みにつながって違和感がないのは、『あにいもうと』(1953)では助監督修行もさせられた「アドバイザー」成瀬巳喜男からの学習成果の現れだろう。
離婚後に出戻った実家の馬具店の場面で顕著だが、ところどころ、いいタイミングで決まっている廊下のインサート・ショットは、小津作品から学んだものだろうが、一種の句読点の役割を果たしていて、これもまた不自然さをまったく感じさせない。
そして最も素晴らしいのは、女学生時代からの親友・杉葉子の夫で、短歌仲間の森雅之への恋心の描き方である。
離婚後、弟・大坂志郎の結婚式の日に、実家に居場所のない月丘夢路は、娘を連れて親友・杉葉子の家を訪ねるが、杉は所用で外出し、家には森雅之月丘夢路と娘の三人が残される。*4
森と月丘のふたりは、書斎でアルバムを広げながら、森・杉夫婦の洞爺湖への新婚旅行の写真や、月丘、森の結婚前の写真を見ている。
そこで月丘夢路森雅之への昔からの想いを打ち明けようとするのだが、それを知ってか知らずか、森雅之は書斎をすっと抜け出すと、台所のストーブの横で眠っている月丘の娘を揺り起こしに行く。
窓の外にはいつのまにか雨が降っていて、森は傘を差して月丘と娘を川べりにあるバス停留所まで送ると、別れ際に月丘の短歌を東京の新人賞に応募することを告げて、バスに乗った月丘たちを見送る。
雨の降る川べりの道をバス停留所まで森が月丘親子と傘を差して歩く姿といい、バス停から傘を差した森が雨の中を月丘親子が乗ったバスを見送るショットといい、ここでの演出、画面展開はあまりにも素晴らしい。
しかもこの雨のバス停には伏線があって、じつは最初に杉葉子が出かけるとき、まだ晴れているその同じバス停で杉葉子がバスに駆け乗るショットが一瞬映っていて、その短い鮮やかな運動感の残余が、余計この同じバス停の雨の情感を増幅する構成になっているのだから、これはもう巨匠クラスの堂々たる仕事ぶりといっていいのではないだろうか。しかも、この直後に森はあっさり病死してしまい、森が応募した月丘の短歌が東京で新人賞を受賞するのだから、この雨の場面は説話上も重要な転換点になっていたのだ。
新人賞受賞で話題になり歌人として成功しながらも病気が進行し、乳癌の切除手術後は、東京の新聞記者・葉山良二との「最後の恋」が物語の中心になるのだが、月丘夢路が葉山良二との病室での最初の会見前に、月丘が胸パットを入れブラジャーを着けて「完全武装」する描写が醸し出す苦いエロティシズムは、まさに女優監督と主演女優との共犯関係のなせる業といえるだろう。
月丘夢路と葉山良二とはやがて病室のベッドの上で結ばれるのだが、その直前に月丘が体験する、霊安室へ遺体を泣きながら運ぶ一行の後をついて夜の廊下を歩く、ホラー映画のような夢うつつの場面は、中川信夫『亡霊怪猫屋敷』(1958)の夜の病院の場面を一瞬連想させて鬼気迫るものがある。
この映画の演出のもうひとつ特徴に、鏡の使用法がある。
劇中、月丘夢路が手鏡を見る場面が何度かあるのだが、カメラがそのとき鏡の中に見出すのは月丘の顔ではなく、その鏡の反映によって月丘が見ている月丘の背後または左右の人物である、という屈折した視線=鏡像装置として鏡を使用しているのだ。
最後に、葉山良二と別れる場面で、月丘の持つ手鏡に一瞬、月丘の左目が映るが、それは葉山の鏡像と入れ替わりになるので、ここでは手鏡によって、月丘の左目のアップ(見る側)と葉山良二のウェストショット(見られる側)との切り返しがおこなわれている、というべきだろう。手鏡に屈折・反映した、末期の乳癌の女性患者の視線の表象。
とにかくこれは驚くべき傑作だ。

島津保次郎清水宏小津安二郎五所平之助溝口健二成瀬巳喜男といった監督たちの現場で、映画の知識を学んできた田中絹代の演出力は、女性監督としては、たとえばアニエス・ヴァルダソフィア・コッポラよりは数段上であるのは間違いない。
再評価をもっと進めるためにも、たとえばアイダ・ルピノ×田中絹代映画祭といった、日米女優=監督対決企画なんかを、ぜひ実現してほしいものだ。

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*1:ビクトル・エリセはしかし、いったいどこで、どのようなプリントで、この作品を見たのだろうか。日本国外に、外国語字幕付きのプリントが存在するとは思えないのだが。

*2:加藤幹郎氏の『乳房よ永遠なれ』論は必読。映画学者による模範的で素晴らしい批評。加藤幹郎『日本映画論1933‐2007』160−170頁、岩波書店、2011年

*3:CineMagaziNet!Essays(2016年2月14日)に興味深い『乳房よ永遠なれ』についての論考が加わった。http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN19/PDF/kinuyo_article2015.pdf

*4:歌の会で、一人先に帰る月丘と一人だけ遅れてきた森のふたりは、杉を会場に残したまま、札幌街頭ロケで会話を交わし、三人が同一画面内で一緒になることはない。森・杉夫妻の家を訪ねる場面でも、森は入浴中で、浴室の森と外出する杉と月丘とは、絶妙なカット割りですれ違ったまま、同一画面内で三人一緒に映ることはない。月丘、森、杉の三人は、アルバムの写真の中以外では決して一緒になることはないまま、その微妙な三角関係を維持する。そして森の死後、森が入っていた浴槽に月丘が入浴しながら、森への思慕を杉に告白し「昇天」する場面で、その官能性は頂点に達するのだ。これほど微妙な友愛と嫉妬と官能と死の影とが入り混じった「三角関係」の描写は、他にはなかなか思い当たらない。

森崎東『ペコロスの母に会いに行く』~生きてるうちは動くのよ 死んだらまた来るよ

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  • 発売日: 2014/07/02
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http://pecoross.jp/
http://hadasi.jp/
http://homepage3.nifty.com/~hispider/eihyo/morisaki.htm
http://culture.loadshow.jp/special/azuma-morisaki_kobe/
長崎を舞台にした森崎東の新作。それだけで映画ファンにとってはたまらない作品であるし、また岡野雄一のマンガを原作とした認知症の母とバツイチ・ハゲの息子との交流の描写は、不特定多数の観客の共感を呼ぶものだろう(渋谷の映画館では、周囲の観客の笑い声が最後にはすすり泣きに変わるという、稀有な体験をした)。
舞台は長崎。赤木春恵が演じる認知症の母みつえ、岩松了が演じるバツイチ・ハゲ・ミュージシャン・マンガ家・サラリーマン(すぐ退社)の「ペコロス」岡野ゆういち、孫のまさき(大和田健介)の三人暮らしの日常描写から、グループホームへの入居がいちおう映画の前半部と言えるのだが、その構成・編集はあらためて記述しようとするとじつに複雑きわまりない。*1
 

(以下、ネタバレ含む)


冒頭、原作マンガの絵柄によるアニメーションに、岩松了のナレーションで人物紹介がなされ、赤木春恵の「ボケ」エピソードとミュージシャン兼営業マンのサボリエピソードが交錯しながら描かれていくのだが、まず「昭和18年天草」という字幕が示され、教会の礼拝堂で宇崎竜童指揮の女性コーラスが「早春賦」を歌うのを、窓の外から幼い少女ふたりがつま先立ちで覗く場面が示されフェイドアウトする。*2
こうして天草の少女時代の幼馴染「ちえちゃん」、病弱な妹たつえとの記憶が断片的に挿入され、天草から長崎市内に嫁入りした女性の戦中・戦後体験が、歌声を軸として自在に語られていくさまは見事というしかない。*3
上野昂志がプログラムで書いているように、ここには<岡野雄一の実体験に裏打ちされた、認知症の母と息子のつながりを詩情豊かに綴ったマンガが物語の主線を成すが、そこには長崎という土地で戦中から戦後を生きた女の歴史もまた描きこまれているのである。>*4,*5
とりわけグループホーム入居後、赤木春恵に会いに来た妹二人に、幼くして死んだ妹たつえの記憶を確かめるとき、たつえは「ピカドン」で死んだのかと聞く赤木に、畑仕事を休むのを仮病のサボリだと責めていた妹が戦後すぐ病死してしまい、本当にからだが悪かったのに仮病だと思っていたのは申し訳ないことしたと姉妹でさめざめ泣いて抱き合う場面での手毬歌とスローモーションのフラッシュバックを使った過去・現在の往還編集の切れ味はすさまじい。*6
「いちれつらんぱんはれつして日露戦争はじまった」という少女が歌う手毬歌が響き、天草の家の庭で足をあげて毬をつく幼い妹の映像がスローモーションで挿入されるフラッシュバックは、その選曲も含めて痛切きわまりない。
日露戦争を題材にした手毬歌「いちれつらんぱん」によって甦る妹の記憶映像が歌声とともにスローモーションで拡大され、赤木春恵は妹の死を確認し号泣するのだが、この感動的な場面の直後に、妹二人も半分「ボケ」が来ているというオチをつけて笑いを取るのを忘れない演出・編集は冴えに冴えまくっていて「ボケ」とは程遠いものだ。しかもこの毬つきのスローモーションは、赤木春恵岩松了のハゲ頭を撫でて叩く動作と、原田知世演じる幼馴染「ちえちゃん」との再会場面のスローモーションへと二重に反復変奏されていくのだから、その構成力の緻密さには、畏るべきものがある。
「ボケ」の症状が進行した赤木春恵が、帽子を取った岩松了のハゲ頭を「はげちゃびーん」と撫でて叩いて息子を確認する場面は、ホームの「同僚」竹中直人のカツラヘアの露骨さとの合わせ技でしっかり笑いを取っているのだが、眼鏡・ハゲを父親から受け継いだ息子の丸い頭を撫でて叩く動作は、ハゲヅラ眼鏡の遺影の夫・加瀬亮との交信でもあり、妹たつえの毬つきの模倣・反復でもあることに注意しなければならない。赤木春恵が撫でて叩く息子の丸い頭は、妹が遊んだ毬の等価物であり、「ペコロス」の丸いハゲ頭は二人の死者につながっているのだ。*7
こうして赤木春恵は、ふたりが生きてる時よりも死んでからの方がよく訪ねてくれるようになったと嬉しそうに話し、死者の来訪を喜ぶ、その生死を軽々と超越した語り口で、岩松了ともども観客をも戸惑わせる。
ホームに入居した赤木春恵には、来訪を喜ぶ死者たち(夫・妹)がいる一方で、手紙を書き続ける生き別れのままの幼馴染もいる。天草の家から目撃した原爆のキノコ雲は、長崎に「口減らし」で奉公に出された幼馴染「ちえちゃん」の運命を大きく狂わせていた。
夫の加瀬亮と長崎の借家に入居した、原田貴和子演じる若き日のみつえが、さらに花街(赤線街)で原田知世演じる「ちえちゃん」に再会する回想場面から、映画はいちおう後半部に入ると言えるだろう。
天草から見合いで長崎に嫁入りしたらしいみつえと夫との結婚生活は、その初対面も死別も直接描かれることはない。丸いカンカン帽とソフト帽が異様に似合う加瀬亮は、ハゲヅラの遺影の写真と違和感のない「生前」の演技によって、赤木春恵原田貴和子の夫役にすんなりと収まっていて素晴らしい。
その加瀬亮と、赤ん坊を背負った原田貴和子が花街を歩き、原田貴和子が夫に遅れたところで、画面奥に自転車が通りベルを鳴らす。すると、幻のように幼馴染「ちえちゃん」原田知世が通りの向かい側から現れ、通り過ぎようとする。*8
教会の窓から女性コーラスを覗いていた、似た印象の子役ふたりの顔立ちが、原田貴和子・知世の姉妹共演で甦るのも素晴らしいのだが、「ちえちゃん」という貴和子の呼びかけに一瞬だけ振り向いて、ぱっと横の通りへ駆け去っていく知世がスローモーションで見せる表情のアップの美しさと悲しみを、いったいどう表せばいいのだろうか。
そして、再会した幼馴染が逃げ去るのを茫然と見送る貴和子は、夫・加瀬亮が通りの奥から妻を急かす声によって、後を追いかけることをあっさり断念させられる。通りの奥から加瀬亮に呼ばれ、力なく歩き出す原田貴和子を捉えた縦構図の切り返しは、一瞬の再会の感動の余韻をあっさりと断ち切ってしまう。だが原田知世の一瞬のアップを捉えたスローモーションは、妹の毬つきのスローモーションと共鳴しながら、記憶をせり上がらせる。
花街での一瞬の再会から、原田貴和子原田知世に手紙を書き続けるが、なかなか返事が来ない。ホームに入居後の赤木春恵も「ちえちゃん」原田知世宛ての手紙を、ふと思い出しては書き続け、ホームに見舞いにきた孫の大和田健介を「郵便屋さん」と呼んで、その手紙を「ちえちゃん」に届けるようにと託す。手紙は過去と現在から「同時に」発送されるのだ。
ハゲ頭を見ても岩松了を息子だと認識できないほど赤木春恵の症状が悪化する一方で、回想場面では夫・加瀬亮の酒乱と神経症は悪化し、雪の降る冬の給料日、空っぽの給料袋と共に街灯の下に泥酔して倒れ、原田貴和子の家庭生活も悪化するばかりだ。*9
酒乱で神経症の夫との生活に疲れた原田貴和子が、幼い雄一を連れて真夜中の埠頭に立っているとき、なぜか郵便配達夫が通りかかり、原田知世からの返事の手紙を手渡す。*10
広げた便箋から、貴和子の励ましの手紙を受けて「何がなんでも生きとかんば」と決意したという知世のボイスオーバーが流れ、その声に励まされ、貴和子も幼い息子を「生きとかんば」と抱きしめるのだが、ここで貴和子が受け取って便箋を取り出した封筒が、泥酔した加瀬亮が持ち帰った空っぽの給料袋と「同じもの」であることに注意しなければならない。酒乱夫が中身をぶちまけた空っぽの給料袋が、真夜中の埠頭に封筒となって、給料の代わりに幼馴染からの手紙を届けたのだ。なんという映画的奇跡!*11
岩松了のハゲ頭も識別できないほど赤木春恵のボケは進行した頃、夫の生前出かけた1995年のランタンフェスティバルのプログラムが、押し入れに隠した下着の下に保持してあるのを発見し、岩松は再び赤木をランタンフェスタへ連れて行く決心をする。
岩松と車椅子の赤木に老姉妹ふたり、孫の大和田健介、ホームの介護仲間の竹中直人、ヘルパーの松本若菜がフェスティバルの会場に向かう。竹中直人はカツラを外して本来のハゲ頭に戻ると、険悪だった母(佐々木すみ江)と仲直りしている。*12
岩松たちがちょっと目を離した隙に、車椅子から赤木の姿が消える。夜のフェスティバル会場を杖をついて彷徨い歩く赤木春恵。とつぜん回想ショットに変わり、褐色の肌に着物姿の娼婦仲間(サヘル・ローズ)が原田知世原爆症ですでに死んでいたこと、枕元に書き残した手紙を代わりに郵送したことを、花街をあらためて訪ねてきた原田貴和子に告げ、金属製の箱に入った写真と手紙を渡す。
原田貴和子が真夜中の埠頭で受け取った手紙は、死者からの手紙であり、あのとき響いた原田知世の「何がなんでも生きとかんば」というボイスオーバーも死者の声だったのだ。
その死者の手紙と声に励まされて子供と共に生き延びだ原田貴和子は、花街の夜の帰り道を通りの雰囲気とは不似合いな地味でくすんだ色の上着で歩きながら「早春賦」を泣きながら歌い、嗚咽する。*13
花街で泣き崩れる原田貴和子の「早春賦」の歌と嗚咽が、ランタンフェスティバル会場を彷徨う赤木春恵のアップとつながり、完全に「泣かせモード」に入っているこのタイミングで「ソニー生命保険株式会社」の電光看板をタイアップで出す露骨さも「巨匠」森崎東ならではのものだ。*14
ずっと無反応が続いていた赤木春恵も「早春賦」を口ずさむと、かって幼い大和田健介が迷子になった眼鏡橋の上にたどり着き、ふと振り向くと着物姿の原田知世が立っている。
橋の上では着物姿の「ちえちゃん」原田知世、妹の「たつえ」、そしてソフト帽に眼鏡の夫・加瀬亮が並んでいて、「早春賦」を歌う赤木春恵を迎え入れる。
大和田健介が、迷子になった赤木春恵眼鏡橋の上で見つけ、岩松了に知らせる。カメラを構えた大和田は、橋の上の四人に向かって「撮るよ」と声をかけ、シャッターを押す。
夜の橋の人物再登場による記念撮影。ここで観客の大半は涙を浮かべるところだが、一見ストップモーションのように見えるこの記念撮影のショットで、じつはストップモーションを使っていないのを見逃してはならない。
このストップモーションの拒否にこそ、反小津的巨匠・森崎東の本領が発揮されているのだ。小津安二郎はもちろん、ジョニー・トーでもストップモーションを使うであろう写真撮影の場面で、画面を決して止めることなく、素早く岩松了のアップに切り返してショットを写真の枠の中に閉じ込めない(記念撮影のメンバーに子供時代の岩松了「ゆういち」が入っていないことにも注意)。出来上がった写真の中には、「何がなんでも生きていかんば」と生き残った生者・赤木春恵がひとりだけで映っている。そんな彼女にストップモーションは許されない。「何がなんでも生きとかんば」は「何がなんでも動き続ける」という、森崎東の映画宣言でもあるのだ。ノンストップ・モーション・ピクチャー。生きてるうちは動くのよ、死んだらまた来るよ。*15*16
手毬歌や再会場面では、あれだけ見事なスローモーションを駆使しながら、クライマックスの写真撮影では、あえてストップモーションを拒否する。それは「動きを止めることのうちに最大の映画的運動が生きられるという小津的な逆説」*17に本能的に抗うことである。
本能的というのは、ひょっとしたら、ただ単にじっとしていられない動きたがり屋なだけなのかもしれないからだ(生まれながらの活動屋!)。
原作と題材のせいで、一見万人受けする人情喜劇であるかのように仕上がってはいるが、スローモーションの使い分け、サヘル・ローズの起用、ストップモーションの拒否、等々、森崎東自身はいまだに「ボケ」とも枯淡とも無縁な、成長と変化を続けて止まない作家である。*18
「大好物」のエロに関しても、老母の隠した下着をタンスの引き出しから精液まみれのティッシュのようにあふれさせたり(センズリの母子相関?)、さらには介護士役の長澤奈央に紙オムツ試用ネタを笑顔で言わせたりと、こっちも瘋癲老人には程遠い現役バリバリである。*19

ペコロスの母に会いに行く

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森崎東党宣言!

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  • 発売日: 2013/11/25
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キネマ旬報 2013年11月下旬号 No.1650

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  • 発売日: 2013/11/05
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あの頃映画 「時代屋の女房」 [DVD]

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  • 発売日: 2011/11/23
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あの頃映画 「喜劇 女は度胸」 [DVD]

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監督 小津安二郎

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存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

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  • 作者:東 浩紀
  • 発売日: 1998/10/01
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*1:時代屋の女房』(1983)で、旅先の「耄碌ばあさん」(村瀬幸子)が渡瀬恒彦夏目雅子が訪れた昨日と半年前とを取り違える場面で、森崎東は老人の「ボケ」を「記憶と認識の取り違え」として映画的に活用していたが、今回はそれを全面的に発展させ、応用したものだとも言える。また、その同じ村瀬幸子が三国連太郎認知症の夫婦を演じた、吉田喜重人間の約束』(1986)は、『ペコロス』にとって重要な先行作品である。原爆を被爆した女性の戦後体験ということでは、広島を舞台にした『鏡の女たち』(2003)とも強く関連するし、また『さらば夏の光』(1968)のヒロインは長崎出身の被爆者であることが暗示されている。松竹時代の元同僚(森崎東監督デビュー時はすでに退社済)では、京都大学法学部同窓の大島渚との因縁(すれ違い)が取り上げられがちだが、こと『ペコロス』に関しては、吉田喜重作品との関連の方を重視すべきだろう。

*2:女声コーラス場面は、字幕で年代・場所が示されフェイドアウトで終わる唯一のシークエンスとして、注目すべき個所である。また特別出演・宇崎竜童は、同じく認知症患者介護の問題を扱った『任侠ヘルパー』(西谷弘、2012)でも好演していた。一匹狼ヤクザと子持ちの鉄火女と優柔インテリ議員と童貞チンピラが、海辺の介護施設を舞台に祝祭的騒乱を引き起こす『任侠ヘルパー』は、森崎東作品と相通じる部分が多い。なおテレビドラマ版『任侠ヘルパー』第5話で、28年前に家庭を捨てて男と逃げた挙句、介護施設で主人公と再会する母親役を、倍賞美津子(役名「さくら」)が演じているのもまた因縁か。http://d.hatena.ne.jp/jennjenn/20130616/p1

*3:天草は熊本県だが、距離的には長崎市に近く、長崎とのつながりが深い。

*4:上野昂志「現在と過去を自由に往還することで見えてくるもの」、『ペコロスの母に会いに行く』パンフレット、14−15頁

*5:ペコロス』を海外で公開する場合の英語タイトルにふさわしいのは『NAGASAKI, MY MOTHER'S PLACE』だろうか。「ペコロス」では表記も意味も不明だし、怪獣映画に間違えられるおそれもある。

*6:本ブログ2013年度「勝手に編集賞」受賞作『Playback』(三宅唱)を最初に見た時は、これで日本映画の編集の歴史が変わると思ったのだが、『ペコロス』の「超絶まだらボケ編集」があっさりひっくり返してしまった(笑)。赤木春恵が二日続けて岩松了の車の帰りを待つ、駐車場での昼夜の時間圧縮編集、ホーム入居時のバックミラーの視線の編集もお見事。また「ここしかない」というべき坂の途中の駐車場は、ロケハンの勝利。

*7:ハゲ頭、眼鏡、バンジョー、帽子、車椅子の車輪、毬、トンビの描く輪と、丸い形態物が頻出する『ペコロス』は、眼鏡橋に登場人物を集合させることで、円形の主題系を形成するが、その始点には冒頭のラジオ放送が語る「昭和の扇風機」が存在する。また円形とは別に、加瀬亮の遺影の写真、原田知世の写真と手紙の入った金属性の箱が示す四角い形は、人が生きた記憶を閉ざす矩形の枠であるかのように思われる。

*8:<この花街のセットが素晴らしい。ロケ先の街路を美術(若松孝市)が造り込んだのだろうが、売春防止法が適用される前の花街といった風情(実際に見たわけではないが!)が匂い立つようだ。>、上野昂志、同前。

*9:日本のカラー映画史上最高級の雪がここで降る。地面に倒れた加瀬亮の白いシャツを暗闇に照らし出す照明と街灯の美術も素晴らしい。なお姉妹愛、幼馴染の友情に対して「夫婦愛」が明確には描かれない、というのが『ペコロス』の重要なポイントのひとつである。

*10:この場面は岩松了竹中直人に語る、幼い日の母との記憶。『ペコロス』の回想場面は、赤木春恵の歌によるフラッシュバックと、岩松了のマンガと語りによる過去の再構成に大別できる。録音・整音はほぼ完璧で、劇中の歌声と劇伴の音楽の音のバランスが実にいい。豊田裕子によるテーマ曲のワルツも、まるでニーノ・ロータのように魅惑的だ。

*11:花街の再会場面では自転車のベルが重要な役割を演じていたが、ここでも郵便配達夫は自転車に乗って現れる。なお四方田犬彦「もっとも低い場所から森崎映画がまた生まれる」(キネマ旬報11月下旬号、2013)では<精神分析の説くところによれば、母親にペニスを見られてからかわれるというのは、実は男性にとってきわめて深刻かつ決定的なトラウマ体験であり、長じて男性性の危機をもたらす原因となる>とあるが、もしかりに『ペコロス』に「精神分析の説くところ」を見出そうとするならば、給料袋と封筒の奇跡的なすり替わりによって具体化された「手紙は必ず届く」というジャック・ラカン的命題だろう。もちろんそれは森崎東にのみ可能な映画的奇跡であって、「手紙は宛先に届かないこともある」というジャック・デリダ的命題を否定するものではない。まあ精神分析ラカンデリダも「くそくらえったら死んじまえ」で構わないのだが。

*12:竹中直人のバレバレのカツラと最後に見せるハゲ頭は『ロケーション』(1984)の殿山泰司のカツラ姿とハゲ頭の露呈の反復・変奏ともいえる。

*13:「ちえちゃん」原田知世の死と手紙にまつわる感動的なエピソードに比べると、夫・加瀬亮はいつの間にかハゲヅラで遺影の写真に納まっているだけで、その生死の扱いはじつに軽い。また原田知世原爆症による死を伝える娼婦仲間の役を、イラン・イラク戦争戦災孤児であるサヘル・ローズが演じていることの意義は決して小さくない。彼女の流暢な長崎弁は、長崎の戦争体験を現在の世界状況につなげているのだ。みつえが10にんきょうだいの長女であるのに対して、サヘルは11人きょうだいの末っ子で全滅した家族の唯一の生き残り。「生きとかんば。何がなんでも生きとかんば」は、彼女にこそふさわしい言葉でもあるのだ。

*14:NHKでの放映が危ぶまれる露骨な企業名タイアップには、サイレント時代の「クラブ歯磨」「強力わかもと」以来の松竹の伝統の継承を見るべきだろう。なお森崎東がいわゆる「松竹大船調」の破壊者であるという見方は、映画史的にはいささか短絡的だと思う。『愛染かつら』(野村浩将、1939)を戦前最大のヒットとする松竹映画の伝統の中での「父系血縁イデオロギー」の位置づけは、慎重な再検討を要する。

*15:死者の記憶と言葉と歌が生きてる者を訪れ、励まし動かし続ける『ペコロス』は『死んだらそれまでよ党宣言』からさらに一歩先へと進んでいる。

*16:ジョニー・トー小津安二郎の記念写真の共通性については、鈴木則文が『エグザイル/絆』(2006)日本公開時の推薦コメントで鋭く指摘している。http://www.youtube.com/watch?v=N6cly2xvQdc

*17:蓮實重彦『監督小津安二郎[増補決定版]』、146頁、筑摩書房、2003

*18:とはいえ、大方の好評を得て、2013年「キネマ旬報」「映画芸術」両誌のベストテン日本映画第1位を獲得したことはじつにめでたい。この種のベストワンは交通事故のようなもので、『ペコロス』のダブル受賞は、NHKの特番まで使って「当たり屋」を演じたうえで獲るべきものを獲った「名ボケ役」森崎東とプロデューサーの作戦勝ちと言えるだろう。新年早々、まことにおめでとうございます。

*19:日本映画界が誇る現代最高のアクション女優・長澤奈央に抱えきれないほどの紙オムツを持たせたうえに試用中の姿を想像させた、なんて贅沢なオムツプレイ! http://www.009-1.jp/